レバーの側部から、金属の輪が出ていた。
レバーの上下と手首の締め具合は連動しているらしく、上にゆくほど、拘束もきつくなる。上から三割ぐらいのところで痛くなって試すのをやめた。たぶん、完全に力を抜いたら、手首を食いちぎられるのだと思う。反対にレバーを引けば拘束はゆるむのだが、いちばん下まで引いても、手錠を抜けられるほどにゆるむことはなかった。
拘束された。
それは、まぎれもない、ゲーム開始の合図だった。
床の一部がみるみるせりあがってきた。すぐ、天井に到達した。幽鬼の視点から見る限りだと、それは、二枚の壁だった。六角形の頂点から、部屋の中央まで、二枚の壁が幽鬼をほかの四人と分断していた。彼女を拘束する壁と合わせ、ちょうど、三角形を作っていた。ほかのメイドさんたちも、同じような景色を見ていることだろう。六角形の部屋が、ケーキでも切り分けるかのごとく六等分された格好だ。
神経にひどく障る音が聞こえた。
発生源は天井だった。幽鬼は首を上向けた。
丸鋸が天井から生えてきていた。
三角形に沿う形で、一つ二つ三つと生えている。あまりに高速で回転しているものだから、それに刃がついていることを幽鬼は目視できない。でも、どうせついているだろう。仮についてなかったとしてあれだけの回転数を誇る金属板だ、接触したなら命はないと考えてよろしい。
それらは、徐々に、幽鬼へと接近していた。速いとはいえないが、しかし微速ともいえない、プレイヤーの心を絶妙にどきどきさせる速度だった。この速度に至るまでの試行錯誤が偲ばれた。〈あれ〉が床に到達したなら、いくら壁に張り付いたところで、殺傷を逃れることはできないだろうと幽鬼は判断した。普通にかわすのは無理だ。
止めなければならない。
壁に縛られたこの状態で、それでも、なにかしなければいけない。
「幽鬼さん! 幽鬼さん!」
どんどんと壁を叩く音があった。金子だった。
「のこぎりが! 丸いやつが降りてきます!」
「わかってる」
冷静に幽鬼は言った。実際、冷静だった。何度目のゲームからだろう、危機が迫るほど心が冷えていくという精神構造を幽鬼は持つようになっていた。処世術というやつだ。つくづくあっぱれなのは人間の環境適応能力だった。
さて。私たちはなにをすればいいのだろう。答えは〈ある〉のが前提だった。〈ない〉のなら、これがミスしたプレイヤーへの処罰という位置づけななら、なにをやったところで無駄だからだ。だから考えなかった。レバーを適当にがちゃがちゃやりつつ、幽鬼は、ことの始まりたるにっくき手錠を観察する。
側面に、鍵穴らしきものがあるのを発見した。
鍵穴。
鍵で開けられる。
即座、空いているほうの手が鍵束をつかんだ。メイド服のエプロンのポケットにあった。取り出し、黄金色のリングについている鍵の本数に顔をしかめ、でもやらないわけにはいかなくて、視線を高速で左右にしながらひとつひとつ鍵を選った。
穴に合いそうな形を見つけたのはだいぶ最後のほうだった。挿す。ひねり、気持ちいい音がしたのとともに手錠が外れた。それと同時にひどい音がややひどさを減じた。見ると、幽鬼の頭上の丸鋸が、三つ揃って停止していた。
そういう仕組みか。幽鬼は思った。
丸鋸が止まったのにもかかわらず、音は、まだ続いていた。止まったのはここのやつだけだ。ほかの四人についてもこれをしないといけないのだ。
しかし──どうやって?
三角形の部屋を見渡しながら幽鬼は考えた。壁は、天井までつながっている。でもどこかに穴があるはずだ。そうでなければこの鍵束を渡すことができない。みんなの手錠も〈これ〉で解けるはずだ。人によって解錠の条件が違うことも考えられるが、そのときは各自なんとかしてもらうしかないのでそのときはそのときだった。
三角形の頂点、もともとの部屋の中央に位置する壁に、切れ目があった。
押した。抵抗なく外れた。向こう側に落下した。壁の中ほど、六等分されたケーキの真ん中、六枚の壁の合流する地点に、ポストの投函口ほどの隙間が生まれていた。
「部屋の真ん中!」
丸鋸に負けないように幽鬼は声を張った。
「そこからさっきの鍵束を渡す! それでみんなの手錠は解ける! 手錠を解いたら天井の丸鋸は止まる!」
事実をただ並べただけの下手な言葉だった。だが仕方ない。緊急時なのだ。一回ではうっかり聞き逃してしまうということもありえるので、似たようなことを繰り返し叫びながら、幽鬼は、壁の隙間に手を差し入れて鍵束を置いた。
次の瞬間、
「いっ──」
四つの手がいっせいに幽鬼の手を撫でた。
ぞわりとする感触に幽鬼はびっくりして手を引いた。むろん、鍵束は置いてきた。壁の隙間で、がちゃがちゃという音とともに手がうごめいていた。
鍵を奪い合っているのだ。
ただひとつの鍵に四人の手がからみつくそのさまに、幽鬼は、どうしてだろう、淫らなものを感じた。手にフェティシズムを感じる人の気持ちが今ならわかる気がした。「う──」
「奪い合うな! 一人減ってるんだから、全員分の時間の余裕はある!」
〈一人減ってるんだから〉とつい口走ってしまった。でも事実だ。人数が減ったのに合わせて制限時間が再設定されている可能性も否定はできぬが、どちらにせよ、うまくやれば、全員が生き残れる設定になっているはずなのだ。
こんなふうに潰し合ったりしなければ、全員が。
ひとつの手が鍵束とともに消えた。
それを受け、ほかの手も姿を消した。
鍵を勝ち取ったのが紅野であることを幽鬼は見抜いていた。食堂にて、みなとお菓子の奪い合いをさんざんやった幽鬼である。どれが誰の手なのか見分ける眼力を獲得していた。
いちばん最初が紅野というのは幽鬼の中では順当だった。彼女は高身長だったからだ。メイドさんたちの片手は手錠に縛られたままであるわけだから、部屋の中央に手を伸ばそうと思ったら、これは、体を相当引き伸ばさないといけない。もはや手錠は存在しないけれど幽鬼も形だけまねた。ぎりぎり届く、ぐらいだった。人間の両手を広げた全長は身長とほぼ同じ、そして幽鬼の身長は平均よりも上だ。幽鬼でさえこれなのだから、小柄な青井や金子では、もっときついはず。逆にスタイルのいい紅野なら楽な仕事のはずだ。距離に余裕があるか否か。鍵の取り合いをするにあたってこのアドバンテージはでかい。まずいちばんは紅野。これは動かないところだった。
がちゃがちゃという音がまた聞こえだした。身をかがめて隙間をのぞくと、四本の手が、また、うごめいていた。──四本。幽鬼は眉をゆがめた。そこには、すでに拘束を解いたはずの紅野の手が、なぜかあった。なにやってるんだこんなときに。そう声に出すより先に幽鬼の頭が答えを告げた。
彼女は、ひいきをしていた。
紅野から見て左隣の部屋に位置する、桃乃に、鍵束を握らせようとしていたのだ。
なんともいえない気持ちに幽鬼はなる。それは、紅野にとって、桃乃の生存がほかの二名より優先だということを意味していた。確かにその素振りはあった。あの二人、ちょいちょい距離が近かった。しかしだからって──。
幽鬼は、その行為に、中止を求めることはできなかった。
紅野の思惑通り、鍵は桃乃のもとへ。丸鋸の耳障りな音に混じり、かちゃかちゃという金属のこすれがわずかに聴こえる。
幽鬼は壁を背にその場へ座り込んだ。かなりまずい状況だった。二回の奪い合いで、時間をロスしていた。丸鋸がどこまで進行しているのか幽鬼の視点ではわからないが、この装置がちゃんとしたゲームバランスになっているのだとすれば、全員が生き残る結末は、もうないだろう。誰か死ぬ。金子か青井のどちらか、あるいはその両方が死ぬ。こうなるともう、幽鬼に声のかけようはなかった。黙って当人たちに任せるよりほかになかった。
見てたからって未来がよくなるということもないのだが、それでも、幽鬼は壁の隙間から目を離せないでいた。〈見届けよう〉なんて殊勝な感情ではない。〈見ものだな〉なんていう野次馬根性でもない。そこには、ただ〈目が離せない〉という、それ以上に細分不可能な求心力があるだけだった。
あるいは、このゲームの〈観客〉も、同じ気持ちなのかもしれない。
結論からいえば争いは起こらなかった。
それまで手の先が触れるばかりだった壁の隙間に、突如、手首が通った。
手首どころか前腕の中ほどまで入ってきた。隙間を通り過ぎ、向こう側の、桃乃のいるはずの空間にまで手が突き抜けた。
金子の腕だった。
その点については、すぐわかった。しかしわからないのはその腕がそこにある理由だ。距離がおかしい。こんなに余裕があるはずはない。紅野にだってこんな芸当はできない。片腕を壁に固定されている金子が、この位置にまでもう片方の腕を持ってこれるはずがない。
幽鬼は悟った。おそらく彼女は──。
これ以上はないという速さで腕が引き返してきた。一瞬のことではあったが、その手が桃乃から直接受け取った鍵束を握っていたこと、隙間にかすった鍵束ががちゃりんと音を鳴らしたこと、その両方を幽鬼は確認できた。
金子の部屋は幽鬼の隣だったので壁に耳を当てる。がちゃがちゃと、もう本当に時間がないのだろう、落ち着かない様子で鍵束をいじる音が幽鬼の耳に届いた。頼む。頼む。頼む。一心に祈った。当人たちに任せはしたがそれでも生きてほしい気持ちに変わりはない。声をかけたかったが幽鬼はあえてしなかった。そんなことで金子の注意を消費したくなかったからだ。心配をまるきり心にとどめて幽鬼はただ時を待つ。幽鬼のときに聞こえたのと同種類の気持ちのいい音、それと、鍵束を置いたのだろう金属音が遠くでして、そして、
そして、
小さく、壁を叩く音があった。
「──っ」
弱い音だった。だがはっきりと聞こえた。それは、向こう側にいる人間の自由意思を示していた。金子の生還を示していた。
幽鬼がほっと息をついた。
それと同時、だった。
「あ──」
それは、
「ああああ!! ああ※※※※※※※※※※※※※※※※※※あ※※※※※!! ※※※※※※!! ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※!! ※※※※※※※※※※あ※!! ※※※あ※※※※※※※※※※※※※あ※!! ※※※※!! ※※※※※※※※※※※※※※※※あ※あ※※あああああ※ああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
それは、誰も、耳にしたことのない声だった。
無理もない。なにしろ彼女は、ここに至るまでほとんど声を出してこなかったのだから。叫び声はおろか、聞き取れる音量の声でさえ、聞いたのはこれが初めてという娘さんもあっただろう。
無口なメイドさん、青井。
それは、彼女のようやく放った、一世一代の全力の咆哮だった。
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