第八話 イレギュラー
食っちゃ寝しては霊力を動かす俺は、今日も寝室で横になっていた。
まだ寝返りすら打てないのだから、横になるほかないのだ。
「うぅ(そういえば今日はまだ一度も不思議生物が来てないな)」
いつもなら数時間に一度は現れる不思議生物が、今日に限って全く現れなかった。
とはいえ、まだ生まれて三ヶ月と少し、そういう日もあるだろうと思っていた。
「あぅ?!(いや待てよ。もしかして霊力成長期間終了か?!)」
その可能性に思い至ると、俺は途端に焦った。
焦ったからといってどうすることもできないが、これは由々しき問題である。
大人たちと同じようにあの不思議生物を見ることができなくなるということは、それすなわち普通の人間に近づくということで。
特別を目指す自分は、不思議生物を自分だけが見えるという事実を思いのほか自慢に思っていたらしい。
「えぅ(そもそもイレギュラーな出来事だったわけだし、一時的でもラッキーだったと思うべきか。はぁ……。……ん? なんだこの感覚)」
落ち込んでいた俺は一瞬にして気を張り詰めた。
この感情は人生において滅多に感じたことのないもの。しかし、つい最近感じたそれである。
「おぎゃぁぁぁぁぁ(怖い、怖い、怖い、なんだこれ。これは絶対にヤバい奴!)」
前世ではせいぜい、怪談を聞いた後にトイレに行けなくなる程度の恐怖しか感じたことはない。それだって、身の危険を感じたからというわけではなく、平和な日常の中で精神的に怯えていただけだった。
だが、今ここに迫ってきている何かから感じるそれは、そんな生易しいものではなかった。
身が竦むような、すっかり退化した野生的本能が早くこの場から逃げ出さなければならないと確信するような、何か恐ろしい気配である。
「は~いはい、聖どうしたのですか。あら、そろそろご飯の時間ですね。今あげますよ」
助かった、お母様がすぐに来てくれた。
不思議生物は意識のある大人の傍には近寄らない。
なぜかは分からないが、これまでの経験則で判明している事実だ。
これで一安心と思っていた俺は甘かった。突然現れたイレギュラーがこれまで通りのはずがないじゃないか。
お母様に抱きあげられた俺はようやく動くようになった頭をほんの少し横に向け、寝室へ侵入してきたイレギュラーを見た。
(お……いしい……&Γ#…………い…ただ……き$%す……)
「ぎゃぁぁ(しゃべってる。こいつ何かしゃべってる!)」
「どうしたのです、そんなにお腹が空いていたの。今あげますから」
お母様が胸を出すが、のんびり食事をしている場合ではない。
こいつから早く逃げないと。
勝てない。こいつを吸収するビジョンが浮かばない。というか、俺と同じサイズだよね。こんなの口から入らないぞ。
混乱する俺は何とかお母様にこの場から動いてもらうようむずがるも、その意図に気付いてもらえない。
俺の寝ていた布団に腰を下ろし、授乳体勢に入ってしまっている。
どうする、どうする。
大人がいても逃げない、明らかに格上、あいつの目的が分からない。
そもそも、いったいどこからやって来たんだ。
イレギュラーな不思議生物は人型をしていた。
森の精霊を幼児サイズまで大きくし、背中に虫の羽っぽいものを生やした姿だ。
伽藍洞の瞳が、これまで見た不思議生物の中で最も暗く深い漆黒を湛えている。
そいつは廊下に飛んでいた羽虫を見上げると、おもむろに手をかざして指先から細い触手のようなものを生やした。触手はゆっくり羽虫へと伸び、のんびり飛ぶその体に巻き付いた。
戻るのは一瞬だった。捕らわれた羽虫はイレギュラーの口へと吸い込まれ、飲み込まれた。
(お……いしい……ΘЖ%…………ご…ち‘*L…さま………)
その光景を見て分かった。
今日俺の下に不思議生物が来なかった理由も、こんな見たことのない大きな不思議生物が誕生した理由も。
そりゃそうか、俺を含めて弱っちい存在は食物連鎖の最下層に位置する。なら、それらを捕食する存在がいるのは当たり前のこと。
こいつは俺と同じように小さな不思議生物を喰らってここまで大きくなったのだ。
(お……いし……!§Ξ…よ………い…ただ……#@ます……)
首を左右に揺らしながら片言で言葉を紡ぐ姿からは喜びの感情が窺えた。
そうだろうよ、お前から見たら俺は特上の餌に違いない。
不思議生物をたっぷり取り込んで成長しているのだから。
俺は結局今日に至るまで侵食に負けたらどうなるのか知らないままだ。死ぬのか、敵に取り込まれるのか。
ただ、どう考えても愉快なことにはならないだろう。
だから、俺は覚悟を決めた。
誕生の儀と同じだ。
こいつらは俺がこの世に生きるための試練なのかもしれない。
生まれ変わるのになんの代償も支払わないなんて都合が良すぎると思っていたんだ。
俺はこいつを倒して生きてみせる。そして、さらに強くなって俗な願いを全て叶えてみせる!
戦いは静かに始まった。
イレギュラーが指先から触手を伸ばし、こちらへゆっくり迫ってくる。
伸ばせる触手は一本だけのようで、徐々に徐々にこちらへ近づいてくる。
これを口に入れるのは躊躇われるが、そうも言っていられない。そもそも不思議生物の侵入を防げた例がない。
来るなら来い、じりじり迫る接触の瞬間。
ようやく俺に触れるまであと30cmというところで、違和感を覚えた。
「あぅ? (口じゃなくて腹から侵入するつもりか?)」
イレギュラーの触手は俺の口より低い位置に伸びている。
口から入れないから戦いの場となる胃の中へ直接侵入してくるのかと思ったが、その予想は外れていた───恐ろしい方向に。
「あら? お腹が空いていたのではないのですか。おむつも濡れていませんし。どうしたのでしょう」
触手の軌道は俺ではなく、お母様のお腹へ向かっていた。
つまり、イレギュラーの狙いは俺ではなく、まだ生まれてもいない俺の兄弟ということだ。
この場で最も弱いのはたしかにこの子だろう。だからって、まさかそんな相手を狙うだなんて……。
もしもこの触手が胎児に触れたら、強大なイレギュラーに成すすべなく喰われてしまう。
いけない、この子が死んだらお母様が悲しむ。クソ親父だって泣くだろう。一度はこの世を生きた俺なんかよりもずっと尊い命だ。
それになにより、俺の初めての兄弟をこんな訳の分からないやつに奪わせて堪るか。
「あぅ(おい、よそ見すんな。俺が相手だ)」
怒りで恐怖の感情を押しつぶす。
このひ弱に見える触手が強い力を持っていることは、第六感だけで分かっている。
それでも、その先にいる存在に手を出させるわけにはいかない。
俺は短い手を必死に伸ばして触手を掴んだ。
「あぁぁあぁ(侵食できるのはお前たちだけじゃない!)」
(痛……い…………殺……Φ♪§!)
俺は体内を循環する霊力を右手に集め、掴んだ触手へと強引に押し込んだ。
一度も練習したことはなかったが、出来るだろうとイメージだけはしていた。だって、散々俺の腹の中で侵食してくる感覚を体感していたのだ、霊力の浸透による攻撃だと嫌でも気づく。
無防備に近づいて来ていた触手が、火に触れたかのように一瞬で退いていく。
思った以上にダメージを与えたらしい。
(痛…痛…い…痛…こ…ろ…殺…殺す…!)
イレギュラーの口内で反射しているのだろうか、奴の声は洞窟で木霊するような気味の悪い響きとなって届く。静かな怒りに満ちたその声に俺はつばを飲み込む。
敵として認定されたのだろう、ターゲットは完全に俺の方へ向かった。
これでいい。これでいいのだが、この後どうしよう。
陰陽師として勉強していない俺はこれといって攻撃手段を持っていない。
霊力を動かすくらいしかできない現状、霊力のぶつけ合いという原始的な戦い方しか知らないのだ。
イレギュラーは触手を使う危険性を学び、本体自らこちらへ近づいてくる。
進むスピードが遅く、引っ込む速度が速いということは、あの触手は鋭敏な感覚器官となっているのだろう。
攻撃するなら奴の触手を狙うべき……だが、奴の気を引くために攻撃したせいで警戒されてしまった。
どうすればいいか悩んでいる間も奴の歩みは止まらない。
こういう時って主人公の思考だけ時間加速するはずなのに、俺の世界は無情にも正確に進んでいく。
結局何の対策も思いつかぬまま、イレギュラーは俺の目の前にたどり着いてしまった。
(悲し……い…………殺……Φ§……おいΞ……い……いただき……まЙ)
イレギュラーの手が俺の口へ伸びる。
あぁ、やっぱりこうなるのね。
ただいつもと違うのは、奴の身体全てが俺の体内へ入るのではなく、右半分が目の前に残っていること。
左半身だけが俺の口から入り込んだ状態だ。
断面は靄のようになっており、細いひも状の靄が俺の口へ繋がっている。
そんな観察をしていられたのは一瞬だけだった。
誕生の儀と同じように、いや、それ以上の力で俺の腹が侵食されていく。
既に全身の霊力を鎮圧へ総動員しているにもかかわらず、全くもって止まらない。
───まずい───
このままだと間違いなく負けてしまう。
くっ、うぅぅ、やばい、腹で抑えきれない。
「あがっけふっ」
「聖、どうしたのですか!」
お母様にもこの異常事態がバレてしまったようだ。
それも仕方ない、俺の右脚が痙攣しているのだから。
俺を横抱きにしているお母様も当然気づく。
初めての経験だ。
侵食が腹から漏れ出し、脚にまで至った。
それと同時に右脚の制御が奪われてしまった。
やはり、侵食に負けたら体を乗っ取られてしまうようだ。相手は幽霊みたいな存在だ。創作上の話とはいえ、幽霊然り妖怪然り、人間の体内に入ったら乗っ取る展開は多い。
このまま脳みそまで侵食されたらどうなってしまうのだろうか……。
明らかな劣勢に、俺は慌ててお母様に御助力いただくことにした。
「いきなりおっぱい飲み始めて。どうしてしまったのでしょう。病院へ連れて行くべきでしょうか」
お母様の母乳エンハンスである。
霊力を奪わなくても母乳には俺を強化する効果がある。理由は不明だが、実際に効果があるからそれでいい。
よしっ、右脚以上の侵食は食い止められた。
それでもじわじわ押されている。
さらに、相手はまだ半身を残している。
全身入ってきたら一気に押されてしまうかもしれない。いったいどうすれば。
前世で凡夫だった俺には天才的閃きなど期待できない。
手段を模索している間に敵は動き出していた。
「ぷあっ(おいおい、そんなのありかよぉ!)」
イレギュラーは表に残している半身、その右手を俺の首にのばしてきた。母乳エンハンスを維持するため動けない俺はあっさり首を掴まれ、お母様の乳首から口を離されてしまった。
ぐあぁ、思った以上に力強い。小さな手なのにこの怪力、霊力の影響か?
そういえば転生漫画でも身体強化とかいう技術を使っていたような……って今はそれどころじゃない。
大した筋肉の無い赤ん坊の首が締まり、気道が締め上げられた。このままじゃ酸欠に───。
意識が薄れるにしたがって霊力のコントロールも下がってしまう。
マズいマズいマズい!
イレギュラーも俺が隙をさらしたことに気が付いている。
半身の内さらに半分を霧状にして俺の口内に流し込んで来た。
隙を突こうと勝負を仕掛けてきたのだ。
あれ……このままだと本当に負ける……そんな結末が脳裏を過った瞬間、救いの女神が立ち上がった。
「やっぱり病院へ行くべきです。早くしないと! あと少しの辛抱です。聖、頑張ってください!」
お母様だ。
お母様が突然立ち上がり、寝室から跳び出した。
これでイレギュラーを振りきれるかと思ったら、こいつは俺にくっついたまま今も侵食を続けている。
廊下を駆けるお母様はバッグをひったくるように手にし、そのまま玄関を飛び出した。
外は快晴で、燦燦と照り付ける太陽がまぶしい。
家の造り的に外と面していない為、常に薄暗かった寝室との差が目に痛い。
しかし、俺以上に痛がっている奴がいる。
(痛……い+‘’=~……ダメ……戻……“_?て……影 ^¥「)
止めを刺そうと全力で仕掛けてきたイレギュラーの凄まじい攻勢が一気に沈静化した。もしかしてこいつら、太陽の光に弱い?
これは絶好のチャンスだ。
俺は天才的閃きを得られるような凄い頭脳は持っていない。それでも、これだけ長い時間があれば一つくらいアイデアをひねり出すことができる。出来るかどうか分からないが、試すだけの価値はある。こいつを倒す可能性があるなら!
「あぁぁぁぁあぁぁぁぁぁあぁぁ」
動け! 今動かないとバスの中に入って太陽光が遮られてしまう。
今しかないんだ、全力で動かせーー!
俺はかつてない必死さで霊力───否、そこから生成される溜め込んだ霊素を動かした。
これまでどうやってもノロノロとしか動かなかったそれを、霊力と同じレベルで動かせるように。
イレギュラーが弱っている隙にしかできない一大反攻作戦。
はたしてそれは、命懸けの必死さが体のリミッターをぶち壊し、限界を超えて成功へと導いた。
あぁ、聞こえる。勝利のBGMが。まだ勝負は決まっていないのに、油断しちゃいけないのに、心が勝利を確信してしまっている。
「あぅ(ずっと狙っていたんだ、お前がその触手を出す瞬間を。喰らいやがれ!)」
太陽の下に晒されて意図せず出たのだろう、俺の首を掴む指から悶えるように触手が飛び出している。
俺はその触手を逃さず掴み、濃密な霊素を全力で流し込んだ。
その効果は目に見えて現れた。
俺の体内で委縮していたイレギュラーの霊力が一気に暴れ出す。
外に出ている四分の一の本体も、淡い輪郭を大きく乱していた。
最初に霊力を流し込んだ時よりずっと効いている。やはり、霊力の中でも霊素が肝なのだろう。集めておいてよかった。
それならばと、体内に入り込んだイレギュラーの霊力にもぶつけてみたら、霊素の一つ一つが激しい侵蝕を食い破っていくではないか。
これまで霊力のぶつけ合いをしていたのがアホらしくなるほどの威力だ。
それほど力の差があれば、結果などすぐに出る。
俺の霊素がイレギュラーの霊力を侵食しつくし、体外に出ていた分までちゅるちゅる吸い取って、討伐完了。
コントロールを奪われていた右脚も元に戻った。
よかった。本当に良かった。
俺の意識はここで途切れた。
霊素を動かすために無茶をしてしまったようだ。
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試し読みは以上です。
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『現代陰陽師は転生リードで無双する』
でお楽しみください!
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