二日目:彼女にはまだ名前がない(5)

    (5)


 客人は、朝に門崎外科で見た、あの看護師だった。名前は知らないが、あの老女医の孫娘であるらしいということと、あの病院の患者たちの中にファンも多いらしいということは聞いたことがある。

 見た目の印象で言えば二十代の半ば、宗史自身と同世代だろうか。目をく美人というわけではないが、穏やかで優し気な雰囲気を漂わせている。そこにいるだけで、どこかほっとさせてくれるタイプだ。

「お待たせしました、着替えなどのお届けです」

 玄関先、その女性は、紙袋を軽く持ち上げて言う。

 そういえば、先ほど病院で、そんなことを言っていた。

「助かります。……着替えなど、ですか?」

「などです。色々入り用なはずですから。下着、お肌のお手入れ用品、あと女の子に必要なあれこれとか」

「ああ……すみません、デリカシーなかった」

 言われてみれば、当たり前の話だ。そこまで考えてくれていたことに感謝するとともに、発想できていなかった自分を恥じるしかない。

「お気になさらず。それと、追加でこちらもお届けで」

 ひょい、と突き出されたのは、上部を結わえたビニール製の袋。

 中には澄んだ水が入っていて、その水の中を、なにやら赤いものが泳いでいる。

 それはどう見ても、

「…………これは?」

「金魚です」

 そう、金魚だった。体長せいぜい三、四センチほどの、小さな和金が二匹。

「なぜ」

「さきほど、クラスメイトに押し付けられたんですよ。孝太郎くんに相談したら、おみやげに持ってくといいって。いいアクアセラピーになるとかなんとか」

「ん? んん? …………んんん?」

 待った。ちょっと待った。そう奇妙な情報を次々と並べられても、頭が消化しきれない。どこから指摘を入れたものか迷い、

「待った、ええと、その孝太郎は、あの孝太郎?」

「もちろん『おしゃべり屋』の孝太郎くんです。親友なんですよね?」

 そんな関係になった覚えはないが、どうやら同名の別人の話ではないと確認できたから聞き流そう。

「……クラスメイトに押し付けられた、というのは?」

「金魚すくいでもらったけど、持ち帰っても飼えないからって。うちも事情は変わらないんですけどね?」

 少し考える。

 まばたきをしてから再確認。目の前の女性は、自分と同世代に見える。

「どなたのクラスのメイトです?」

「私です。わた付属中三年C組門崎

 少し悩む。

「付属

「はい」

 首を傾げる。

「おいくつで?」

「十四です。秋には十五」

 じゅう、よん。

 軽い眩暈めまいを覚えて、頭を振る。

「…………なぜ、看護師を?」

「あ、よく勘違いされるんですけど、違うんですよ。私はただ、おばあちゃんの手伝いの簡単なバイトをしてるだけで、免許みたいなものも全然持ってませんし」

 それは、まあ、そうだろうとは思う。十四歳で国家試験受験資格はちょっと無理だ。

「老けて見えるとは、よく言われます」

 それも、まあ、そうなんだろうなあとは思う。中学生目線で言えば、二十代女性に見られているというのは、そういうことだ。

 なるほど経緯は理解した。「そこに若い娘がいるだけで患者のウケがいい」とかなんとか言いながら、大人びて見える孫娘に制服を着せて、看板娘に仕立て上げたと。あの老女医の考えそうなことであり、やりそうなことである。

 それはそれでなにかの刑法に引っかかるんじゃないかという気もしたが、順法精神に関しては他人に何かを言える立場にない身だ、深くは追及しないでおこう。

「それで、はどちらに?」

「ああ……」

 首を巡らせ、ソファのほうを視線で示す。

「アルジャーノンなら、そこだ」

 相変わらずというか、膝を抱いて丸まるような姿勢で、よく寝ている。

「あららら」

 のぞき込んで、目をぱちくりさせる。

「アルジャーノン、というのはのことですよね。名前つけたんですか?」

「ないと不便だったもので」

「ああー、わかります。友達に、拾ってきた子猫になかなか名前つけなかった子がいて。おかげで話を聞くのが大変で大変で。ふふ」

 口元に指をあてて、妙に上品に笑う。

「名前呼んじゃうと、本当に家族になったって認めちゃうような気がするーって言うんですよ。本人は。そんなの、拾っちゃった時点で手遅れじゃないですか、ねえ?」

 それは──同意を求められても、反応に困る。

さんは、こいつの事情を聞いている?」

「おばあちゃんから一通り。大ケガしてた体に、未発見の生き物が入って動かしてるんですよね? 大丈夫ですわかってます、そういうアニメ、先月観たばかりなんで」

「そ、そうなんだ……?」

 アニメを観たの一言で受け入れていいような事態なのだろうか、それは。それとも彼女の世代ではそういう考え方が当たり前なのだろうか。若者怖い。

「そりゃちょっとは怖いですけど、言うことを素直によく聞く、いい子ですし」

「そうなんだ……?」

 それも、宗史の視点からでは、自我が薄いだけだとしか見えないわけだが。

「ノンちゃん。うん、かわいい名前ですよね、ぬいぐるみっぽくて」

 そんなことを言いつつスリッパをぱたぱたさせて、少女、──と名乗ったか──はソファに近寄ると、

「アルジャーノンちゃーん、ちょっと起きてもらってもいいー?」

 年上の娘の体を、ゆすり始めた。

「お、おい?」

 無防備に触れるのは危険ではないのかと思った。止めるべきかという思考が一瞬よぎった。しかし実行には間に合わず、アルジャーノンはうっすらと目を開く。

「ごめんね、気持ちよく寝てるとこ、起こしちゃって」

 例によってぼんやりとした目が、伊桜を見つめる。

「アルジャーノン、を、呼んだ?」

 ぽつぽつと、つぶやくように。

「うん、呼んだよ」

「アルジャーノンは、私」

「そうだよ」

「私が、呼ばれている?」

「うん」

 のそり、アルジャーノンが身を起こす。

「恐いことをするんだな」

 うめくように、宗史は言う。伊桜はあごを上げるようにして振り返り、

「そーですか?」

「そうだよ。相手はわけのわからない未確認生物で、何をしてきてもおかしくないってのに、よくもまあちゆうちよなく触りにいける」

「なにをしてくるのかわからないのは、人間相手でも同じですよぅ」

 それは、確かにそうかもしれないが。

「佐崎さんちのおじいちゃんとか特にです、ひとを驚かすのが大好きなひとだから」

 そうか、知らない人だが強く生きろよ佐崎さんちのおじいちゃん。

「で、ノンちゃん、眠いとこごめんね。持ってきた服のね、着替え方とか、いろいろ覚えてほしいことがあるんだよね」

「そうか」

 ぼんやりとうなずく。

「それじゃ、隣の部屋お借りしますね。覗いちゃだめですよ」

「好きに使ってくれ。あといちおう、何かあったらすぐに呼んで」

「はい、頼りにしています」

 ウィンクひとつ、少女はアルジャーノンの手を引いて寝室へと去ってゆく。

 その背を見送ってから、視線を切る。

 ずいぶんと押しが強いというか、人を巻き込むのが巧い子だ。十四歳。あのころの沙希未と歳が近い。そういえば彼女にも多分にそういうところがあった。あの年頃の女の子はみんなそうなのか、それとも偶然なのか。

「そのへん、どう思う?」

 と尋ねてみても、もちろん、ビニール袋の中の金魚は答えてくれない。

 そういえば、こいつの居城もどうにかしてやらないといけない。


 部屋を探してみると、丸形の金魚鉢が見つかった。

 なぜか投げ込み式のフィルターもついていた。

 この部屋は緊急時用のセーフハウスであり、逃走者が身を潜めるための場所である。なぜそんな場所にこんなものが装備されているのかは、ちょっとした謎だ。その答えは後で孝太郎に確かめておくとして。

 宗史は、ペットというか、生き物全般の扱いが苦手だ。そして夏祭りですくわれるような金魚は、もともとそれほど丈夫ではないと聞く。家庭で水槽に放したとたんに動かなくなった、などというエピソードも耳にしたことがある。

 まずは水を用意する。中和剤でカルキを抜いてから、微量の塩を加え、水温を整えて。スマートフォンを片手に手順を何度も確認し、本当にこれで合っているのだろうか大丈夫なのだろうかと頭を抱えて。

 袋の金魚を鉢に放す。

 二匹ともが、一瞬、全身を震わせた。

 どこかの手順を間違えたか、死なせてしまったか、とおびえる。が、すぐに元気よく泳ぎ出した二匹の姿を見て、胸をでおろす。

(……ふぅ)

 額に薄くにじていた汗を、手の甲でぬぐう。

 やはり、生き物は苦手だ。そう、再確認する。


    ◇


「このあと、友達と花火見に行くんです」

 そんなことを言って、女性改め少女は帰っていった。


 いろいろとたたまれたのだろう、アルジャーノンは表情こそ変わっていないものの、どことなく、くたびれているように見えた。

「ほれ」

 水出し麦茶のグラスを差し出す。

 受け取って、しかし、それが何なのかわからないという顔で動かない。

 宗史が自分の分を飲み始めるのを見て、ようやくそれが飲料であると思い至ったらしい。真似るようにして中身をのどに流し込み始めた。

「おかわりはそこだ、欲しければ自分でぎな」

 言って、テーブルの上のピッチャーを示す。アルジャーノンは空になったグラスを手に少しだけ考え込むような時間をとり、それから手を伸ばす。どこかぎこちない動きで、それでも麦茶をグラスに注いでみせる。

(……順調に、人間らしい仕草が、できるようになってきている)

 沙希未の記憶がある。

 アルジャーノンはそれを読める。

 読み進めれば読み進めるほど、沙希未という人間ができていたことを、アルジャーノンもまたこなせるようになる。

 そうして、人の模倣が、完成度を上げていく。

 それが良いことなのかは、わからない。とんでもない破滅のひきがねになるかもしれないし、逆に状況を打開する銀の弾丸になるかもしれない。考えても結論が出ないことなら、もう、それを基準に是非を問う意味がない。

(こういう時には、最悪のケースを想定して動くべきってのが、セオリーだけど)

 なにせ相手は未知の生命体、どんなこうとうけいな妄想も完全には否定できないから、最悪のケースを想定すること自体が難しい。

 ならば、当面の生活が少しでも円滑になるほうを選ぼうと思う。朝の女医はキプロス島の王様の話を持ち出したが、それならば自分は、正しく人形ガラテアの受肉を願おう。なぜなら、トイレくらいは言われずとも自分の判断で行ってほしいから。

 そんなことを考えている間に、アルジャーノンは二杯目を飲み干して、その目を別のところに向けていた。

 視線を追えば、背の低い棚の上に、さきほど住民を迎えたばかりの金魚鉢。

「あれは、何」

 自主的に尋ねてくる。珍しいな、と思う。

「見ての通り、金魚だ。食うなよ?」

「金魚……」

 例によってアルジャーノンは、数秒をかけて沙希未の記憶を探る。

「小さい」

「金魚だからな」

「ガラス鉢の中を、泳いでいる」

「金魚だからな」

 じっと、視線は動かない。

「いや、本当に食うなよ?」

「食べない」

 答えてから、視線を一度こちらに向けて、

「私は、猫では、ないから」

 そんな言葉も添えてきた。

 こいつなりにウィットを利かせた返し、なのだろうか。いや、引っ張り出された記憶が金魚を食べるモノ=猫という少々偏ったものだったというだけなのかもしれない。

 よくわからない。

 コミュニケーションがとれている実感が乏しい。

「あんまり構いすぎるなよ、ストレスになるらしいから」

「はい」

 そう答えながら、アルジャーノンの目は金魚鉢へと注がれ続けている。

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