二日目:彼女にはまだ名前がない(4)
(4)
他人のセーフハウスは、感覚としては、旅先のホテルのようなものだ。
戻ってきたところで、帰ってこられたという実感はない。
だからか、「ただいま」という言葉は出てこなかった。無言で戸をくぐる。
部屋に戻ってから最初にやるべきことは、決まっている。異常がないかのチェック──の前に、手洗い等を済ませて、買ってきた食材を冷蔵庫に詰める。
本来なら先にやるべきことではあるが、もちろんチェックも行う。扉。窓。各種計器およびその周辺。コンセント周り。結論、現時点においては侵入者などの
「ふぅ」
ようやく気を抜いて、ソファに背を投げ出した。
玄関先に待たせていたアルジャーノンに顔を向けて、
「……入っていい。靴は脱げよ」
呼びかける。
ゆっくりと、娘はローファーを脱ぐ。
そして、玄関マットの上に立ち、何をするでもなく、そのまま再び立ち尽くす。
自発的な行動をとれずにいる、と感じた。急ごしらえの自我しか持ち合わせておらず、しかもその扱いにも慣れていないせいで、自分の意志で何かを決めるというだけのことをうまくできずにいる。
そのまま放っておくわけにもいかないだろう。
「ああもう」
宗史は強く自分の頭を
「こっちに来て手を洗ってうがいをしてタオルで手を
「…………」
果たしてアルジャーノンは宗史の言葉を理解したのか。ぼんやりとしたままのその顔からは、何も読みとれない。
言われた通りに歩いてくると、指示通りに洗面所に向かう。水音を聞く。
「終わったら、こっちに来て椅子に座れ」
声をかける。
アルジャーノンはその言葉にも素直に従う。部屋に入ってきて、宗史の示すテーブルチェアに腰を下ろす。
顔をこちらに向けて、これでいいのか、とばかりに小首をかしげる。
「手の洗い方も、うがいの仕方も、タオルの使い方もわかったのか」
「はい」
抑揚のない返事とともに、首がわずかに揺れる。
アルジャーノンは、宿主である沙希未の知識を読める。言い換えれば、記憶を読むという手間をかけなければ何も知らないままだ。
あれをやれこれをしろと指示を受ければ、その方法を読んで動ける。しかし指示をもらえなければ、自分はなにをするべきなのかの段階から、進むことができない。
「……今後、言われなくても、その体の生存というか、体調維持に必要な行動は一通りとれ。というか、日常に含まれる活動は一通りやれ」
「日常」
沙希未の唇が、ぽつりと呟いた。
その視線が、自然に、窓の外に向く。
そういえば真倉沙希未は(おそらく真面目な)大学生なのだと思い出した。彼女の記憶をもとに日常を
「あー……ただし外出は厳禁、だ。特別な指示がない限り、この建物の外には出るな。日常はその範囲内で送れ」
「…………」
わずかに首が動いた。
頷いた、のだろう、たぶん。
「本当にわかってるんだろうな、ったく」
宗史はあまりペットを飼った経験がない。だから想像になるが、新しく犬や猫を迎えるというのは、こんなものなのだろうかと思う。人間の道理をまったく知らないそれに、ゼロから
そんなことを考えていたら、ふと、気になることができた。
「トイレの使い方はわかるか」
アルジャーノンは例によって、少し考えるような間をとってから、
「はい」
頷いた。
(……いまのは、どっちだ)
問われるまでもなく、最初から理解していたのか。それとも、知らない単語について聞かれたから、いま沙希未の記憶を読んだのか。その二つを、当人ならぬ宗史には見分けることができない。
ゆらり、アルジャーノンが立ち上がり、静かな足取りでトイレへと向かう。
「さっそくかよ」
その背を見送って、宗史は小さく重い息を吐いた。
ああ、まったく。これでは本当に、犬猫の躾のようだ。
◇
太陽が沈もうとしている。
宗史は、ノートPCのモニタを
研究棟から持ち出してきた、不可思議肉片の研究データだ。何かの手がかりがあるのではないかと思い解読を再開してみたが、専門的な知識もなく挑むのはどうにも効率が悪い。それなりに長い時間をモニタ前で費やしたが、成果はほとんどなかった。朝に読み取った以上の有益な情報は得られなかった。
難解な暗号が仕掛けられている、などのパターンであればよかった。それならば、余程のものでなければ、時間と手間をかければ突破できる。しかし、内容そのものが難解であるというのはどうしようもない。
(……ここまでかな……)
静かだなと思い、視線を横に動かす。
アルジャーノンが、ソファの上に転がり、軽く
その姿を見ていると、眠気が思い出された。小さくあくびが漏れる。
──遠く、笛と太鼓の音が聞こえてきた。
そうか、もうそんな時期だったか、と思う。
芳賀峰市の夏祭りは、それなりに規模が大きい。なにせ、まがりなりにも観光地である。ここ数年ほどは
立ち上がり、ベランダに
むっとした夏の外気とともに、祭りの音が部屋に飛び込んでくる。
思い出す。
安っぽいやきそばの味、当たらない射的、乱立するタピオカの屋台、主張の強いケバブの匂い。
少年のころは、あの
今はこうして、手が届かないくらいの遠くにいる。けれど同時に、確かに聞こえる距離にある。
「ん……」
かすかな声とともに、身じろぎの気配を背後に感じる。
自分はいま独りきりではないのだと思い出した。アルジャーノンを起こしてしまうのも面倒かと思い、窓を閉める。熱気が締め出される。音が消える。
インターフォンが鳴って、来客を告げた。