二日目:彼女にはまだ名前がない(3)

    (3)


 病院を出た瞬間に、熱気に全身を包まれた。

「あじぃ……」

 思わず、口をついて出る。

 振り返る。すぐ後ろを、娘がついてきている。表情は変わらずぼんやりしたままで、気温の変化に何を感じているのかも──そもそも気づいているかすら、わからない。

 人間らしさの欠けたその姿に、いらちを感じる。

「こっちだ」

 促しつつ、宗史は歩き出す。

 静かに、気配が後ろをついてくる。

 蝉の声がやかましい。夏はそういうものだとわかっていても、苛立ちが膨らむ。

 少し歩いた場所に、孝太郎の車が停めてある。そして孝太郎本人は、すぐ傍の喫煙所で煙草をふかしていた。近づくとすぐにこちらに気づいてスマートフォンから顔を上げ、そして「わお」と小さく口を動かす。

「こりゃ驚いた、美人さんだ」

「言ってないで、早く出してくれ。立ち話してられる余裕はない」

「そりゃそうだ」

 ぱちんと額を叩き、煙草を携帯灰皿に突っ込む。


 孝太郎の所有する車はどれも、窓に濃いめのスモークが入っている。乗り込んでしまえば、周りの人間にとがめられる危険は、それなりに減らせる。

「相変わらず、すげぇ婆さんだなぁ。不思議生物案件を持ち込まれて、ふつーに診察するとかさぁ」

 というのが、院内でのやりとりについて聞いた孝太郎の感想だった。

「それこそさ、『科学で説明できないものなどこの世に存在しないィィ』とか叫んでマシンガン連射とかさ、そっちのリアクションを期待してたんだけど」

「期待するなよ、それだと僕らがハチの巣だろ」

「そこはほら、愛の力とかで雑に生き残ってもらえば」

「雑とか言うな。あと愛とか言うな、その手のやつはない」

「えー。こんだけ美女に化けてもらって、まだ芽生えてないわけ、愛」

「美人なのは沙希未ちゃんだろ、こいつじゃない」

「若く健康な男性の下半身は、理性とは別の理屈で動くもんだろ」

「そ──」

 その瞬間、頭に血が上りそうになった。

 息も詰まった。

 のどおくで絡まった呼気と吸気をほぐすように、深めの呼吸をひとつ。

「──それは、ないよ」

 それだけは無理なんだよ、と、言外に訴える。

「悪かった」

 失言に気づいてくれたのだろう、孝太郎は一度、表情を曇らせる。

 一瞬だけだ。すぐにいつものあの、朗らかでうさんくさい笑顔になる。

「まあ、それでもだよ。これでもオレ、けっこう心配してたんだぜ?」

「何を」

「江間サン、これまでクズ男ばっかのために体張ってきたからさぁ」

 にやにやと、あまり品のよくない笑みを浮かべながら言う。

「並の男なら、命張る相手って下心で選ぶもんじゃん。美女美少女オンリーが大前提で、たまになら友情とかおとことかも悪くないかな、てなものじゃん」

「……いきなり大した極論を出してきたな」

「いーや一般論だねこれは。男がヒーローになるのはヒロインのため。これが自然」

 力強く言い切る。

「だから、これまでの江間サンが絶対におかしい。世間ナメたクソガキとか、人の言葉の通じないデブオヤジとか、偉そうなだけのガリメガネとかさ、そんなのばっか助けてきたじゃん。いらない苦労背負って、死にそうな思いまでしてさ」

 ハンドルを握ったまま、肩をすくめる。

「まさか江間サン、その手の男しかヒロインとして見られない性癖なんじゃって。オレとしてはさ、ほんのちょおーっとだけ疑ってたわけよ」

「誤解が解けたなら何よりだ」

 うめくように答える。

「ったく、どいつもこいつも似たようなこと気にしやがって」

 孝太郎はわははと楽しそうに笑いながら、ハンドルを回す。

 景色が後ろへと流れていく。


 この芳賀峰市には、あまりうれしくない歴史がある。かつてバブル期に大規模な観光地化計画が持ち上がり、古い木造建築をたおしてピカピカの建物が乱立したのだ。

 海の見える八階建てのホテル、お洒落しやれな土産屋をぎっしり詰め込んだ海沿いのストリート、水族館に併設した郷土資料館、南の国を思わせるヤシノキ系の街路樹、有名どころのレストランがいくつも入るはずだったフードコート。

 そんなわけだから、街並みの見た目だけは良いのだ。

 大手の観光地に負けないようにと整えられた外観は、何十年という時が流れてだいぶ古ぼけてしまった今となっても、それなりに見られる。

 ちなみにその観光業がんばるぞ計画は、もちろんバブルの崩壊とともに霧散している。千人でにぎわうことを想定されていた街並みに、百にもまるで満たない数の人しか歩いていないというのが現実だ。

 おそらくそのせいだろう、なんていうことのないありふれた街の風景を、時折どことなく空疎にも感じてしまう。


「そういやさ。婆さん、オレのこと、なんか言ってた?」

 問いながら、孝太郎はカーオーディオを操作する。少し古い、夏の定番曲がスピーカーから滑り出してくる。

「いや、別に何も。なに、君まだあのお婆さん苦手なわけ?」

「苦手つうか、その逆? 向こうがオレをGを見る目で見てくんだよ。なんなら扱いまでまんまGだし。丸めた新聞紙で殴られるとか、スプレー浴びせられるとか」

 そこまで言ってから軽く笑い、

「まあ、全部自業自得だし、仕方ないんだけどさ」

「ご愁傷様」

「いやー、優しいねー江間サンは。江間サンにそう言ってもらえりゃ、オレはもう誰に認めてもらえなくても充分よ」

 ああそうかいそうかい。

 ぺらっぺらの軽口を話半分に聞き流しながら、宗史は窓の外を見ている。澄んだ青のグラデーション。スモーク窓越しに見上げた空は、昨日の大雨は何だったんだと言いたくなるほどに晴れ渡っている。

 ふと、妙に静かだなと思い、後部座席を見る。

 若い娘の姿をしたは、ぼんやりとした顔のまま、それでも明確に興味を露わにしながら、窓の外の景色を見ている。コンビニエンスストア、建売住宅、雑居ビル、定食屋、バス停、別のコンビニ、郵便ポスト、元気よく散歩中の犬とその飼い主……目に映るもののひとつひとつを追いかけて、ひとみが目まぐるしく動く。

 相変わらず感情は読めないが、外の風景に興味を持っているのだろうということだけは、さすがに察せる。

 沙希未の記憶を読めるなどと言ったところで、こいつの自我が経験をまったく積んできていない、赤ん坊のそれだということに変わりはない。世界にあるあらゆるものが、初めて目にするものであり、初めて触れるものなのだろうから。

「そういやさ。結局、その子の名前どうなったの」

「何の話だ」

「真倉さんちの沙希未ちゃん、ってのは体の名前で、この子は別にカウントするって話なんでしょ。だからさ、ここにいるこの子を呼ぶ時用の、名前」

 自分の話をされていると気づいたのか、もまた外の景色から視線を切って、こちらに顔を向けてきた。

「……ないよ、そんなもんは」

「江間サンさぁ」

「いらないだろ。別に困るもんじゃなし」

「いやいや普通に困るでしょ。このままずっと、『おい』とか『お前』とかで全部押し通す気なわけ? 昭和の熟年夫婦にしか許されない境地でしょそれ?」

「…………」

 それは嫌だな、と思う。

 少し考えて、

「例の研究資料によればだ。こいつと同じ肉片を植えられてた実験用ラットは、アルジャーノンと名付けられてたらしい」

 それは、二十世紀中期の小説に出てくる、世界一有名な実験用ラットの名前だ。その作中で、脳手術によって高い知能を──一時的であれ──得ていた。同じように外科的な理由(と並べていいものかはともかく)で知能テストの成績を上げたラットにつける名としては、妥当なところだろう。安直さは否めないが。

 宗史は思った。同じ物語に、同じように手術を受けた青年が登場する。知能が上がり、知らなかったことを知り、理解できていなかったことを理解し、知らなかった感情を覚え、知っていた感情を忘れ、まるで別人になったかのような時を過ごした。

 この青年の名を借りるのはどうだろうかと思った、のだ、が。

「お、それでいいじゃん」

 提案するよりも早く、孝太郎がそんなことを言い出した。

「アルジャーノン、略してアルちゃん? ノンちゃん? アンちゃん? なんか外国人っぽいし、字数が多いのも中二病っぽくていいよな」

「いや、あのな、」

 外国人っぽいもなにも事実アメリカの作家の作品からとられた名だし、字数が多いのは音素を共有しない言語間で言葉を変換した際のあるあるでしかないし、そもそも、

「白ネズミの名前だぞ、それ」

「いいじゃん、ネズミの名前。そりゃ、黒かったり青かったり黄色かったりしてたらまずいのかもしんないけどさ、白ならオーケー。なあ、君もそう思うだろ?」

 軽い口調で、後部座席に問いかける。

「…………」

 ぼんやりとした顔で、後部座席のそいつは振り返り、

「アル……ジャーノン……」

 その言葉を舌先で転がしてから、

「私は、アルジャーノン、なのか?」

 宗史に向かって尋ねてくる。

 答えに迷う。

 アルジャーノンは本来男性名だし、語源は確か「ヒゲおやじ」あたりだったはずだ。もうこの時点で、十九歳女性の姿をしている今のこいつには致命的にみ合っていない。

 が、だからこそ良いという考え方もできる。

 こいつと真倉沙希未は別の存在なのだから、それを忘れないためにも、名と体が噛み合っていないくらいがちょうどいいのかもしれない。

「いいんじゃないか」

 重いためいきのついでに、そう答えた。

「……アルジャーノン」

 そいつは、うなずいた。

「私は、アルジャーノン」

 何度も、同じ言葉を繰り返している。

 相変わらず表情らしい表情は見えないが、どことなく嬉しそうにも見えた。

 カーオーディオから流れ出す曲が切れ目を迎える。

 締め切っている窓の外から、蝉の声が勢いを増して飛び込んでくる。

 低い声の男性パーソナリティが、くるくると舌を回し出す。さあお次はこれからの熱い季節にふさわしい、燃え上がる想いを歌い上げたヒットナンバー。灰になるまでハイになってお聞きください、『ホワイト・シープ・キュー』の『マグネシウム』、どうぞ。

 弾むようなイントロが流れ、女性シンガーグループがやかましく歌い出す。声量は蝉の声とほぼ互角。どちらが勝つということもないが、もちろん打ち消し合ってくれることもない。つまり両方うるさい。

 何が楽しいというのか、運転席の孝太郎は笑っている。

 後部座席のアルジャーノンは、ぶつぶつと自分の名前を繰り返しつぶやいている。

(…………)

 どういう表情を浮かべるべきなのかを決めかね、迷った末に、宗史は顔をしかめる。

 夏の街の中を、三者三様の一行を乗せた車が走る。

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