二日目:彼女にはまだ名前がない(6)
(6)
夜。
このセーフハウスには、ベッドは寝室の一つしかない。アルジャーノンを気遣うつもりはないが、沙希未の体を粗末に扱うわけにもいかない。そんなわけだから、昨日同様、アルジャーノンに寝室を使わせることになる。
それから宗史は、ソファに身を横たえ、目を閉じた。
(…………)
眠れない。
体は間違いなく疲れ果てている。昨日のあの騒動から、一睡もせずに動き回っていたのだから。だというのに意識が消えてくれない。
備蓄の中にあったワインのことを思い出すが、すぐに頭から振り払う。もともと寝酒の習慣はないし、こういう時のアルコールは逆効果だとも聞いたことがある。
手近なところに置いてあったリモコンを手にとる。
スマートテレビの電源を入れる。
動画配信サービスを呼び出し、自分のアカウントでログイン。おすすめタイトルの山をかき分け、目的の海外ドラマを呼び出す。現在シーズン6まで展開している人気シリーズ。少しずつ視聴しているので、まだシーズン3の途中までしか消化できていない。
部屋の照明はつけない。
隣の部屋に聞こえないように、音量は抑えめに。
そして、ぼんやりと画面を眺める。
『冗談じゃない、これ以上こんな茶番に付き合えるか!』
『おおトニー、待ってちょうだい、それは誤解なの』
何やら修羅場の最中であったらしい。画面の中で若い男が部屋を飛び出し、中年女がその背に追いすがる。これまでの展開が思い出せず、状況が把握できない。
けれど、劇中の二人の感情と、どうやら彼らは彼らの人生を精一杯に生きているんだなということだけは理解できた。そして、ストーリーの細かいところは追えずとも、宗史にとってはそれで充分だった。
──作りものの物語が、わりと好きだ。
宗史の自前の人生は、もうとっくに壊れている。
だから、だろうか。
こんなふうに、他人の人生をただ遠くから眺めている時間を、心地好いと思える。
『まさか、ジョーンズ、あの野郎!』
『おおトニー、待ってちょうだい、それも誤解なの』
画面の中で若い男が窓から飛び出そうとし、中年女がその背に追いすがる。
ぼんやりと、その画面を眺めている。なぜそんな状況になっているかは相変わらずよくわからなかったが。
──背後。扉の開く音。
滑りこむような、かすかな気配。
それは音もなく近づいてきて、宗史のすぐそば、二人掛けのソファの隣に座る。
ちらりと横目で確認すると、もちろん、表情を持たないぼんやりとした横顔が、画面の中のドラマを眺めていた。
「寝ろと言ったろ」
ぽつり、独り言のようにつぶやいた。
「はい」
ぽつり、独り言のように返ってきた。
「でも、気になった」
「なにがだ」
「あなたが、なにをしているか」
なんだそりゃ、と──
それ以上問いを重ねる気が起きなかったので、宗史はそれ以上何も言わなかった。隣のそいつも口を閉ざした。言葉のキャッチボールが止まった。
『や、やめろ、やめてくれ……』
『ああトニー、やっとわかってくれたのね、
画面の中で中年女が
宗史はぼんやりと、それを見ている。
人形のような動きのない横顔も、じっとそれを見つめている。
(……こいつの、この目)
気づいた。
液晶の中のドラマを見るアルジャーノンの目は、つい先ほど、ガラス鉢越しに金魚を見ていた目と、よく似ている。
確かにそこに、共通点はあるのだろう。どちらもアルジャーノンにしてみれば、透明な壁に遮られた、別の世界の生物だ。手を伸ばしても届かない、ただその指先を、冷たいガラスの感触が遮るだけ。
だからといって、アルジャーノンがそこにどういう感情を向けているかは──そもそも感情と呼べるような心の働きをそれが持ち合わせているのかまで含めて──わからないわけだが。
『おお、神よ──ようやく、あなたの意志を理解できました──』
『おおトニー、待ってちょうだい、それは誤解なの』
深夜、ひとつのソファに二人で座って、作り物の他人の人生を眺めている。
そうしているうちに、ゆっくりと。
宗史のまぶたに、眠気が下りてきた。
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試し読みは以上です。
続きは2022年9月1日(木)発売『砂の上の1DK』でお楽しみください!
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