二日目:彼女にはまだ名前がない(1)

  時折、思うのです。

  本当は、私に見えている世界のすべては、ベニヤ板とわらにんぎようでできていて。

  私一人だけがそのことに気づかずに、こつけいな人形劇の中を生きているのではないかと。

    ――さわいずり糸の城』



    (1)


 こうろうから借りたノートPCを立ち上げる。

 がちがちに固めた箱庭領域サンドボツクスを用意してから、USBメモリを差す。いちおう簡単なパスワードを要求されたが、総当たりブルートで破れる程度の単純なものだった。ツールを立ち上げ、二秒弱で突破する。

 いくつか並んだファイルのひとつ、『簡易報告書』と名付けられたものを開く。おそらくは会社の上層部に提出するはずの報告書だったのだろう、簡単なデータつきの様々な研究レポートが、そこにあった。

「おいおいおいおい……」

 この研究を焼くために、研究棟が燃えたのだ。さなくらけんが死に、真倉が倒れ、とうに目をつけられることになったのだ。

 昨夜、沙希未が持ってきたものだ。おそらくは、沙希未が今日研究棟を訪れることになった理由の、「お父さんの忘れ物」そのものだろう。話を聞いた時にもあきれたものだが、実際の中身がこれほどのものだとなると、もはや衝撃を受ける。

 セキュリティツールは当然のように沈黙している。ウィルスを含めた攻撃的プロセスが立ち上がる気配はまったくない。どうやらこれらは、おとりなどですらなく、本当に本物の、ただの機密書類なのだということらしい。

「こんなもんをご家庭に持ち帰ってたのか……」

 頭が痛くなりそうではあるが、まあ、あそこのセキュリティの甘さを今さら嘆いたところでどうにもならない。そして今は、そんなことに費やしていられる時間がない。

 切り替えて、中身に目を通す。


『わたし、は──なに──?』

 先刻にその一言を紡いだ後、真倉沙希未は──少なくとも昨日の夕刻までは彼女であったその人物は──もんに顔をしかめ、意識を失った。

 もう、熱は出ていなかった。

 そうはしばらくぼうぜんとその寝顔を見ていたが、我に返ってすぐに、事態の把握のために動き出した。

 直観が告げる『彼女はもう沙希未ではない』という結論を、もちろん簡単には受け入れられなかった。根拠は自分の受けた印象だけだし、あまりにこうとうけいがすぎるというか、現実的ではなかった。一時的な記憶の混乱だと考えるのが妥当、というかリアリティのある唯一の回答だと思った。

 だから、それを裏付けるような答えを、そこに辿たどりつくための手がかりを、求めた。


「……出所不明の謎の肉片」

 宗史は、生物分野に特に明るくはない。専門的な記述は読み飛ばし、理解できるところだけを追う。それでも、わかることは多い。

「コル=ウアダエ。……幽霊の心臓コル=ウアダエ?」

 変な名前をつけるものだと思う。読み進める。

 いわく、万能細胞のような性質を持つ。

 いわく、他の生物の細胞と溶け込むようにして融和し、一部となる。

 なるほど、実に商品価値のありそうな話だ。というか、書かれていることがほとんどSF映画の領域だ。実用化したなら、人類の未来にも大きな影響があるだろう。

 人の想像の及ぶ程度のことならば、人の誰かが実現できるはずだ──とは古いSF作家の言葉だったか。これが事実だというなら、会社の次期主力商品として期待するのも、専務派とやらが危険視するのも、つぶしに来るのも、すべて頷ける。

「あれが、そうか」

 思い出されるのは、あの実験室Cで見かけた、薄紅色のナニカ。うまくすれば人類の未来を担えたはずのそれは、たぶんすべて、灰になった。

「……ラットを使った実験には成功。その後の知能テストに変化あり……」

 使われたラットが『アルジャーノン』と名付けられていたと知り、小さく笑ってしまう。世界で一番有名な実験用ラットの名を、何のひねりもなくそのまま借りる。さすがに安易にすぎるだろうと思う。

 読み進める。アルジャーノン君こと問題のラットは、その後の知能テストで優秀な成績をたたき出した。単純に脳の能力が上昇しただけとみる研究者もいたが、レポートの作成者である真倉氏自身は、どうやら懐疑的な立場をとっているようだった。賢いとか愚かとか、そういう軸の問題ではなく、ラツトという生物にふさわしくない判断を下しているように見える、と。彼はそんなふうに考えていたようだった。

 ──これは、本当に、まだラットと呼べる生き物なのか?

 おそらくは消し忘れと思われるメモに、そんな一文が走り書きされてすらいる。

(ああ……)

 探していた答えが、そこにある。絶望的な気分で、天井を仰いだ。

 真倉健吾のこのは、つまり、正解だったのだ。

 あの謎細胞、コルなんちゃらを受け入れたアルジャーノンは、それまでのような実験用ラットではなくなっていたのだ。

 同じ細胞を受け入れた真倉沙希未が、それまでの真倉沙希未とは違う生き物へと変容してしまっているように。


 記憶転移、という言葉を聞いたことがある。

 内臓が──眼球やら肝臓やら心臓やらが移植された際に、移植元の記憶や感情が残っていて移植先の人間に影響を与える、という現象のことだ。そういうテーマのフィクションも、いくつか見たことがある。

 しかしあれは、あくまで架空の概念。

 現実にそのようなことは起こりえないとされているはずだ。

 確かに、現実にそういった事例がかずおおく報告されてもいる。が、医学的には、そのすべてが錯覚などの類だと解釈されている。臓器移植に至るまでの状況、および移植を行うという状況自体から生じるストレスが、そう感じさせているだけだと。


 ノートPCから顔を上げる。

 カーテンの隙間から、光が差し込んでいるのが見える。

 朝が来た。


    ◇


 寝室の扉を開く。カーテンから漏れる陽光を浴びながら、〝沙希未〟は、表情のない顔のまま、ベッドに半身を起こしていた。

 気配に気づいたかのように、こちらに顔を向ける。

 人形のようだという印象は、昨夜と変わらない。

 どう接したものかと、迷う。

「……僕の声が、聞こえているか」

 距離を空けたまま、問う。

「はい」

 ゆっくりと、娘のくびが、縦に揺れた。

「ことばを、理解できているんだな」

「はい」

 未知の生命体とのコンタクトが成立している。ああもう、この体験が既にSFだ。

「お前は、沙希未ちゃんでは、ないんだな?」

 しばらく待つ。

 答えはない。

「お前自身について、思い出せたことは、あるか?」

 黙り込む。答えられないのか、と思う。

 そのまま時間が経ち、宗史が次の問いをぶつけようとしたところで、女の口が開く。

「区別が、できない」

「それは……」

 言葉の少ない彼女が何を言わんとしているか、読み取るのは簡単ではない。

 考える。

 いまの回答をそのまま素直に読み解くならば──自分の中にある知識が、「思い出せた」ものなのか、それとも別の何かなのかの判別ができない。と、そんな感じになる。

 思い出す、とは、自分自身の記憶に対して使う言葉だ。だから、沙希未自身と、複数の主体の記憶が混ざり合う中では使いづらい、と。

「私は」

 ぽつり、ぽつりと、女の姿をしたそれは話す。問う。

「私とは、何、だ」

 言葉だけを取り上げれば、まるきり思春期の迷妄そのままだ。

 しかしこの場合、あまりにその疑問は重くて、そして入り組んでいる。

「……さっきまでと比べて、ずいぶんと滑らかにしゃべるようになってきたな」

 無表情のまま、少し考え込むような間。

「ここに」

 軽く握ったこぶしを、自分の胸もとに押し当てる。

から、少しずつ、借りている」

「宿主の記憶も読めるのか」

「少しずつ、ならば」

 宗史は考える。

 普通に考えれば、人間の記憶は脳に格納されているはずだ。そして思考にもまた脳を使う。沙希未の体の中にいるこいつも、おそらくは脳を借りて思考している。しかし、借り物の脳はあくまでも借り物、本来の持ち主と同じように扱えるわけではない。

 具体的には、無数の記憶を互いに接続しているシナプスを利用できないとか、そういうやつだ。記憶がそこにあるということを逐一確認し、手間と時間をかけて引き出さなければ個々の項目に触れられない。

 イメージとしては、巨大な事典を抱えているようなものだろうか。知識は確かにそこにあるが、いちいちページをめくらなければ読み取れない。

 読みとれば自分のもののように扱えるようになる、ということでもあるのかもしれない。時間の経過とともに、こいつは真倉沙希未の知識と経験をモノにしていく。

「さきみの記憶から、人間のの形を、学んだ。まだ未形成? 未完成? だが、真似て、いる」

(ああ、そこからの模倣だったのか)

 人ではないものが人の精神構造を自前で持ち合わせていないというのは、確かに道理。本来なら模倣しようと思ってできるものでもないだろうが、人の体をまるごと乗っ取ったうえでならば、ありえなくもないのかもしれない。

「お前の目的は、何だ。そのままその体を、完全に乗っ取る気ででもいるのか」

 その危険性は、あると思った。

 時間が経てば沙希未の記憶にんでいく、この推測が正しいなら、そのうち沙希未として振る舞うこともできるようになる。周りの誰にも気づかれず、その人生をまるごと奪うことも。

「私は」

 ぽつり、女の唇は、どこか気弱に答えをこぼす。

「わからない。私は、私を、理解していない」

 だから、自分自身の目的も、わからない。そう言外に付け加えた。

 まあ──それはそうか、と思う。

 自分というものの存在に先ほど初めて気づいたばかりの存在に、未来への展望を問い詰めたところで意味があるはずもない。

(ほんと、なんなんだよ、この展開……)

 どうあれ、いまこの場では、これ以上の問答に、意味はなさそうだ。

 そう結論づけたとたん、全身が疲労を思い出した。当たり前だ。昨日から走り回り、雨に打たれ、頭を抱え、その末に迎えたこの朝である。しばらく食事もしていなかった。これで平然としていられるほど超人ではない。

 何か腹に入れようと思い、立ち上がる。

 もともと不慮の長期滞在を見越した部屋だ、日持ちのする備蓄もそれなりに用意されている。色気も味気もあったものではないが、細かい注文をしていられる状況でもない。少し考え、壁際の段ボール箱からスポーツドリンクとゼリー飲料をいくつか取り出す。

 少し考えてから、

「お前も食べておけ。その体を衰弱させるわけにもいかないからな」

 言って、一つを投げ渡す。

 いまの彼女の体が食事を受け入れられるかは、正直わからない。しかし、リスクを恐れて絶食させ続けるわけにもいかない。だから様子見のつもりで、まずは消化器官に負担がかからなそうなものを与えた。

「食べ──る──」

「体調を維持するための栄養素を経口摂取だ」

 意地の悪い言い方になってしまった。が、もちろん女は気を悪くする様子もなく、受け取ったゼリー飲料をぼんやりと見つめている。

「────食べ、る──?」

 女の首が、わずかに傾げられた。

 指先が、パウチに触れる。

 押したりでたり、みこんだり。

 プラスチック栓にも触れた。押しこんだり、リズミカルに叩いてみたり。

 しばらくしてようやく、その栓が回せるものだということに気づいた。あるいは、沙希未の頭の中にあった知識をようやく掘り起こせたか。いずれにせよ栓が開き、中身があふれ出す。

 じっとそれを見てから、舌先で少しずつ、めとり始める。

 まるで、小動物のようだ、と──

 一瞬そう考えて、その直後、宗史は顔をひきつらせた。

 それこそハムスターか何かのようだと、可愛らしい仕草だと、そう感じていた。

 好意的な印象を、抱いてしまっていた。

 目の前にいるのは化け物で、人ではないうえ人智を超えた存在で、真倉沙希未の体を略取した害獣だ。警戒してもしすぎることのない相手だ。そう頭では理解している。理解しているのに、ちょっと愛らしい仕草を見せられただけで、敵意が薄れていた。

(冗談じゃ、ない)

 立ち上がる。

 こんな状況には、耐えられない。

 一刻も早く、どうにかしなければいけない。その想いが、疲れ果てた宗史の体を無理やりに動かした。

「──食べる──」

 小さくなにかをつぶやきながら、ゼリー飲料から口を離して、娘が宗史を見た。その視線を振り切るようにして、部屋を出る。

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