一日目:炎の中(5)

    (5)


 どうして自分は、こんな人生を送っているのだろう。

 江間宗史は、時々そんなことを考える。

 もちろん、最初からこんな人間だったわけではないのだ。少なくともあのころ、六年前には、宗史はまだ平凡な大学生だった。平凡ではあったが、他の人間よりも多少世間知らずで、正義漢で、しかも無駄に行動力があった。困っているひとを助けるのは正しいことだと信じ、しかも、できる範囲で実行していた。

 生活はやや苦しく、塾講師や家庭教師のバイトをいくつか掛け持ちしていた。その中で受け持った生徒たちの中に、真倉沙希未がいた。当時の彼女は十三で、中学生で、つまりまだ──多少大人びた考え方をする子ではあったが──子供だった。

 六年。

 それが長い時間だったのだと、沙希未を見て思い知った。十三の子供は十九になり、見てすぐにはそうと分からなかったほどに成長した。

 六年。

 子供が大人になれるだけの時間を遣って、もともと大人だった宗史は、ただ堕ちた。取り返しのつかない失敗を重ね、少しだけ世間を知り、ひとと関わることにおくびようになった。世間に対して胸を張れない技術と経験と実績を培い、日陰を選ぶようにして生きてきた。

 昔の自分とは、似ても似つかない人間になった。


    ◇


 寝室。

 やぼったい赤ジャージを着せられた、真倉沙希未が静かに眠っている。

 発熱は落ち着いたようだった。まずは安心する。

「…………」

 れいな子だと、改めて思った。

 顔立ちだけの話ではない。こうして静かな場で見ると、再会した直後とはまた印象が違う。透き通っているというか、はかなげというか。どこか触れがたい不思議な雰囲気が漂って感じられる。

 その顔を見ながら、ぼんやりと、先ほどのことを思い出す。

「……『江間先生』、か」

 六年前と同じように、この子は、宗史のことを呼んでくれた。現在のこの宗史を、六年前の江間宗史の延長上にいる同一人物であると信じて、接してくれた。

 たぶん、そのせいなんだろうと思う。

 なぜ現在の自分自身の生きる指針を曲げたのか。やるべきではないと百も承知の上で、自分はなぜ炎の中に飛び込んだのか。梧桐などという災害でしかない案件に近づいたのか。そうしてまで沙希未を死なせたくなかったのか。それらすべての理由だ。

 彼女が過去の自分を覚えていてくれたことが、うれしかった。だから、失いたくなかった。それだけだ。

「やっぱり、僕は、馬鹿だな」

 つぶやくように、自分をあざけった。そう悪い気分では、なかった。


 常夜灯の淡い光の下、沙希未のまつげが、かすかに揺れた。


 ゆっくりと、まぶたが開く。

 ああ、意識を取り戻したのだと思った。

 あんが心に満ちる。頬が緩む。

「沙希未ちゃん」

 名を呼んでから、もしかしてこれはまずいのかな、と気づく。

 いまの彼女は立派な大人である。六年前、中学生時代と同じように呼ぶのは、子供扱いをしているということになるのではないか。

 いや、まあ、いいか。開き直る。散々連呼しておいていまさらでもあるし、なんなら後で、どう思うのかを本人に確認しよう。

「あーっと……」

 考えながら、言葉を紡いでいく。

「少しややこしい状況になったんだ。混乱しているとは思うけど、まずは落ち着いて話を聞いてほしい──」

 青みがかったこくどうが、黒瞳が動いて、宗史を見た。

 そのまま、数秒を制止する。

 ゆっくりと、腰の力だけを使って、上半身を起こした。

「──沙希未ちゃん?」

 首が回って、宗史の姿を、顔の正面にとらえた。

 まるで、球体関節人形の駆動部分をひとつひとつ順番に操作しているような動きだった。何かがおかしいと、さすがに気づけた。

「沙……」

 気のせいだ、と宗史の心が叫んだ。いまはまだ寝起きで意識がはっきりしていないだけだ、事件のショックで混乱もしているんだ、すぐに元の彼女に戻るはずだと。

 冷たい汗が、頬を伝い落ちた。

「具合でも、悪いのか?」

「…………」

 返答は、ない。

 それどころか、反応自体が、ない。

 表情が動かない。目の焦点も合っていない。まるきり、本物の人形のように。

「もしかして、意識がはっきりしてない? もう少し寝ていたほうがいい?」

 うなずいてほしい、と願った。

 そういう、わかりやすい現実的な原因があるのだと思いたかった。

 しかし、そうはならなかった。現実的な原因による変化だと自分を納得させるには、目の前の娘のこの姿は、非現実的でありすぎた。

 この少女の雰囲気を、先ほど自分は、触れがたいものだと評した。どうしてその時点で気がつかなかったのか。それは文字通り、その気配が、人間のものからかけ離れてしまっているからだったというのに。

 長い髪は金を帯びてなびき、白雪の肌はどこまでも冷たく。淡い真珠の唇が小さく震えている。青みがかった黒瞳が、虚ろにこちらを見つめている。あやしげに、儚げに。

 目の前のこれは、本当に、人間ひとなのか。そんな簡単なはずの問いにすら、答えを見つけられない。

「君、は……」

 口の中に湧いて出た苦いつばを飲み下し、宗史は、尋ねる。


「君は、何だ?」


 数秒の──あるいは数分だったかもしれない──時間を隔てて。

 薄い唇が、ゆっくりと開いた。

「き、み──」

 耳元でささやくような、かすかな声。

 もちろん親愛の意図などではないだろう。どちらかといえば、はっきりとした声を出す方法がわからないから、意図せずそういう発声になったという風だった。

「わた、し──は──」

 まばたきのひとつもせずに、焦点の合わない目を、ただまっすぐにこちらに向けて。

「わたし、は──なに──?」

 まるで答えになっていない。そして同時に、これ以上なくわかりやすい回答となっている言葉を、小さな音にして吐き出した。

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