一日目:炎の中(4)

    (4)


 鍵を開けて、指定の部屋に入る。

 フローリングの1DK。ほとんど調度を置いていないせいで、実際の敷地面積よりも広く見える。かすかにほこりが臭ったのは、しばらく人の出入りがなかったせいか。

 軽く見まわして、目につく異常がないことを確認。空気を入れ替えようかと窓に伸ばした手を、すぐに引っこめる。状況が状況だ、少し慎重にいこうと思う。

 カーテンを閉めて、灯りをつけた。

「ごめん」

 傷を診ようと思い、小さく謝りつつ、血に汚れた沙希未の服をめくりあげる。安定した光の下で見た沙希未の脇腹は、もちろん、赤く血に汚れていた。

 そしてその下に、

「……ん?」

 傷口が見つからなかった。

 汚れをタオルでぬぐう。白い肌が露わになる。

 脇腹。具体的には、外腹斜筋の下部、鼠径部からへそ部のすぐ脇。血の広がり方からすると、この辺りに数センチ大の裂傷があるはずだ。なのに、見当たらない。内出血めいた薄紫色の染みが、わずかに見える程度。

 指先で肌を軽く撫でる。

 なんだろう、と思う。小さな違和感がある。少しだけ、硬い……ような気がする。

 指を滑らせ、腹のほうに触れる。やわらかい。脇腹に指を戻す。やはり硬い。炎症を起こしているだとか、筋肉が緊張しているだとか、とは少し違うように思えるが。

「う……」

 沙希未が、かすかに、苦し気な息を漏らした。我に返り、慌てて指を離す。

 多少の不可解は残れど、傷がないというのなら、それに越したことはない。

 負傷していたのは父親のほうだったのかもしれない。娘がその遺体にすがりついた時に血がついて、慌てていた自分が見間違えたとか。かなり無理のある考え方ではあるけれど、実際に傷が見当たらないのだから、それでよしとするしかない。

 沙希未の額に手を当てる。熱が出ている。

 精神的にも身体的にも疲労しきっているのだろう。傷のことはひとまず忘れて、早く休ませなければいけない。

 相手が若い女性だということはいったん忘れる。バスタオルを何枚かまとめてひっつかみ、気を失ったままの沙希未の全身をく。服を脱がせ、クローゼットにあった新品のジャージを着せる。

 寝室のベッドに横たえる。

 台所の棚を漁り、常備薬の箱を見つけた。経口の解熱剤を取り出し、コップ一杯の水とともに、再び寝室へ。

「……せん……」

 声が聞こえた。

 沙希未の手が持ち上がり、こちらに差し伸べられているのが見える。

 意識を取り戻したのか、と、ひとつ安心する。

「…………江間……せん……せ……」

「ああ」

 苦しそうな息の下からだが、名を呼ばれた。

「僕はここにいるよ。大丈夫だ」

 手を握り、声をかけた。

「おね……い……」

「ああ」

「たす、け……あ……て……」

「ああ、もちろんだ」

 力強くうなずき、請け負った。

 もちろん、こちらは最初からそのつもりだ。躊躇ためらいはない。

「君のことは必ず助ける。安心していい」

 沙希未はわずかに唇を歪め、何かを続けて言おうとして──

 目を閉じた。

 そしてそのまま、また、眠りに落ちた。

「沙希未ちゃん?」

 声をかけても、反応はない。

 呼吸は浅いが、安定している。用意した解熱剤をナイトテーブルの上に置く。今は心身を休めさせるのが一番だろう。

「おやすみ」

 部屋を出る。


    ◇


 壁のアナログ時計の針が、九時を回った。

 耳障りな音のインターフォンが鳴った。

 モニタをのぞいて来訪者の姿を確認する。銀色に染めた髪、浅黒く焼いた肌、色の濃いサングラスに派手な柄のシャツ。じゃらじゃらと無数に下げたチェーン系のアクセサリ。白い歯を見せて軽薄に笑っている。

『よっすオレですよ。陣中見舞いとか持ってきたから、入れてよ』

 知った顔と、知った声だ。宗史は扉を開けた。


「すげぇなあ。やっぱ江間サン、すげぇよなあ」

 を失ったかのように、その男、しのこうろうは「すげぇ」を連呼している。

 そのふざけたしやべり口は、先ほど電話口で聞いた、『おしゃべり屋』のそれである。

 色々な人と話し、色々な相談を受けて、時に色々な人を紹介したりもする。そんなあれこれの中で生活の糧を得ている。ゆえにこの男は『おしゃべり屋』を自称する。あまり人に好かれる性格ではないが、当人の要領のよさゆえか本気で嫌われることも少なく、ゆえにその人脈は薄くて細くて、そしてとても広い。

「いまどきガチでJK拾いました案件をやる奴、あんまいないよ? なんだかんだで犯罪だしリスキーだからね。刑法224条とか怖くない? オレは怖い」

「いろいろ誤解があるようだけど」

 どの誤解から解いたものか、少し考えてから、

「あの子は高校生って年じゃないよ。もう大学行ってるらしい」

 ズレたことを言ってしまった。

「そっかー。んー、小さいことみたいだけど、ジャンル的にはそのへん重要だよな。成人男性から見た、高校生と大学生の間にある大きな壁。やっぱりあれだよな、大学受験終わっちゃった後だと、青春っぽさが一気に消えちゃうもんな。若者と一緒に青春を取り戻したいってオジサンニーズには、大学生じゃ応えられないよねえ」

「君が何を言っているのか、僕にはいまいち理解できない」

「リアルでやったときに犯罪だってのもポイントだよなあ、背徳感は大事なスパイスだよ実際。実際の罪がどこに行くかはともかく、共犯関係になるわけだしな。これはでかいよ。大人同士じゃただのどうせいだし、なんていうか生々しくなっちゃうんだよね」

「できればそろそろ、現実の話を進めたい」

「オススメの本、いくつか紹介しようか?」

「いらない」

 軽く手を振る、

「話を進めよう。梧桐たちの様子、今どうなってる?」

「あれだけの大作戦の最中だからね、まだそっちに注力してる感じ」

 それはそうだろうな、と思う。

 研究棟を焼く、あのとんでもなく大雑把な破壊工作サボタージユは、依頼者側の強力ないんぺいを大前提としてしか行えない。不自然な防災設備の不調、不自然な出火と延焼、後から警察が調べればいくらでもボロが出てくるだろう。最先端研究の場だからなどの理由で、捜査それ自体を阻んでもらう必要がある。そのためにも、撤退前に、わかりやすい証拠はできるだけ処理しておかなければならない。

 怪しい人影を見たからといって、その追跡に割ける余力はそう多くないだろう。

「オレがここに来るときにも、特におかしな気配はなかった。当分は安心してよさそう。でも、時間ができたらすぐに捜し始めると思うよ、正体不明の火事場のスパイを」

「だろうね」

 それもそうだろうな、と思う。

 研究棟は燃えた。そこで進められていた研究は炎の中に消えた。それで梧桐たちの仕事は終わり──とはならない。

 燃える研究棟にわざわざ飛び込むような人間がいた。そいつはどうやら、研究施設侵入の術理と技術を持ち合わせているようだった。となれば梧桐たちの導き出した結論はひとつ、『研究データを持ち出された』だ。それは、施設ひとつをつぶしてまであの研究を止めたかった彼の依頼者にとって、都合の悪い事のはずだ。追っ手を放たない理由がない。

(実際、持ち出したわけだしな)

 宗史のズボンのポケットの中には、ひとつの、USBメモリが入っている。あそこから連れ出した際、沙希未が落としそうになったものだ。

「でまあ、いちおう言っとくけどね。あの子、早めに手放したほうがいいとは思うよ」

 だろうな、と宗史は思う。それは妥当な判断だ。

「ただの小競り合い程度ならよかったけどさ。派手に火をつけてまで消そうとした研究の関係者だろ? リスクが大きすぎるし、リターンがなさすぎる。『自主的に助けを求めてきた相手だけを、対価を受け取りながら助ける』がポリシーなんだろ? この状況に見合った金を、その子が払えるとも思えないけど」

「それはその通りだけど」

 宗史は首を横に振る。

「……本当にその通りだ。何やってるんだろうな、僕は。……でも、」

「わかってる、見捨てる気はないんだろ。いいんじゃねえの、たまには曲げてやったほうが、ポリシーの健康にもいいってもんだ」

 よくわからないことを言いつつ、孝太郎は肩をすくめる。

「いちおう言っとく必要があると思っただけだ。オレにゃ、江間サンの『見捨てられない』にとやかく言える資格はねえよ」

「そうか?」

「そうだよ。ったく」

 ぐるりと部屋を見渡して、

「素性は知られている前提で動いたほうがいい。当面はここで、二人とも静かにしていたほうがいいだろうね」

「まあ、そうだな。いま自宅に近づくのは楽観がすぎる──って、二人?」

「二人」

 それはそうだ。梧桐に追われる理由は、自分と沙希未の二人ともにある。身を隠すべきという事情も同じ。

「……そうか、二人か」

「んー? なに、気にしちゃう? そうだよねー江間サンも若い男だもんね、可愛い女と一緒に暮らすとなると、自分を信用できなくなっちゃうかー」

「そういう問題じゃない」

 わかってるだろう、と軽くにらみつけてやる。

「そりゃ、わかってるけどさ」

 軽薄な笑みを引っ込めて、孝太郎は、ややばつの悪そうな顔になる。

「まさか別に匿うってわけにもいかないでしょ。いくら江間サンが独りでいたいって言っても、この状況じゃしょうがない」

「そうだな」

 重い息を吐きだす。

 独りでいたい、というのは宗史にとって、それなりに切実な願いだった。しかし、いま優先すべきものは何かとなれば、考えるまでもない。

ろうじようできる最低限の備蓄は置いてあるけど、同居人つきで中長期となると、足りないものも出てくるかな。補給は信用できそうな知り合いに頼んでおくから、要るものあったら言ってよ」

「世話になる。いくらぐらいになる?」

「ドーイタシマシテ、あとで請求書にまとめとくよ」

 ひひ、と孝太郎は笑う。

 肩が揺れて、アクセサリがじゃらりと小さく鳴る。

「オレはね、今も昔も、江間サンをリスペクトしてっからね。『自主的に助けを求めてきた相手だけを、対価を受け取りながら助ける』ってアレもね。そりゃね、助けを求めてもらえた以上は、対価が期待できる範囲で手ぇ貸そうってもんだよ。それにさ」

 一拍置いてから、続けて言う。

「いつもは何でも一人でどうにかしちゃうようなソロプレイヤーが、わざわざオレを選んで頼ってくれてるんだからねえ。報酬関係なく、やる気も出るってもんだ」

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