翌朝、再び二台の馬車は走り出した。
ミスリルは嬉しげに、シャルとアンの間に座った。上機嫌で、喋りまくる。
「アン。俺が恩返ししてやれることがあれば、遠慮なく言えよ。けど雑用なんか、言いつけるなよな。もっと立派な恩返しをさせろよ」
「立派な恩返しねぇ。考えるけれど、どうせならばミスリル・リッド・ポッドの能力を使える恩返しを考えた方がいいよね。あなたは、どんな能力があるの?」
訊くとミスリルは待ってましたとばかりに、胸を反らす。
「俺の能力か? 驚くなよ。よく聞け。俺はな、ハイランド王国最北の巨大湖レス湖の湖水! ……の水滴が、葉っぱについて。その水滴から生まれたんだ」
「水滴から生まれたの? 妖精って、みんな水滴から生まれるの?」
アンは首を傾げる。するとミスリルは、ちっちっと人差し指を立ててふる。
「アンは、なんにもしらないんだなぁ。妖精はいろんなものから生まれるんだ。草の実や木の実、水滴や朝露や、石や宝石。もののエネルギーが凝縮して生まれる。ただエネルギーが凝縮するためには、生き物の視線が必要だ。妖精や人間や獣や鳥や。魚でも、虫でもいい。エネルギーは見つめられることで形になって、それが妖精になるんだ。妖精の寿命は、生まれる源になったものと、だいたい同じだ」
「で、ミスリル・リッド・ポッドは水滴から生まれて、シャルは何から生まれたの?」
問われたシャルは、ちろりとこちらを見ただけで、返事をしなかった。
かわりにミスリルが答えた。
「こいつは、見たところ黒曜石だ。貴石の妖精は、鋭いものを作る能力があるんだ。俺は水滴から生まれたからな、水を操る。それが俺の能力さ」
「水を!? それはすごいじゃない。見せて」
「おう!」
ミスリルは両手を胸の前に広げた。
小さな掌をじっと見つめていると、掌のくぼみに水がわき出す。
その水をミスリルは、まるで粘土をこねるように丸めて、ふわりと投げあげた。それがアンの手の甲にぴしゃりと当たって弾けた。わずかだったが、湖水の冷たさを感じる。
「すごい! 水を操れるなら、鉄砲水に襲われたとき、水の進路を変えられるんじゃない!?」
「恐ろしいこと言うなよ。できるか、そんなこと」
「じゃあ、なにができるの」
「今、見せただろう」
「え…………。あれだけ?」
「そうだけど……なんか、……文句あるのかよ」
がっかりして、アンは肩を落とす。ミスリルの能力は、たいしたものじゃないらしい。
するとシャルが、皮肉たっぷりに言った。
「小鳥に水をやる時には、役に立つな」
「ううう、うるさい!! なんだ、その言いぐさは。俺を馬鹿にしてるのか。そんな態度は許さないからな。ついでに言っておくが、シャル・フェン・シャル。おまえはアンに対する態度も、改めろ。失礼だ!」
「おまえのほうが、失礼だ」
シャルが冷たく言い返す。
「俺のどこが失礼だ」
「全部」
「なんだとぉ!?」
言い合う二人の妖精を横目で見て、アンは断言した。
「喧嘩しなくても、大丈夫よ。二人とも同じくらい、失礼だから」
アンは順調に、距離を稼いだ。
今夜。旅の四日目の宿泊地に決めた宿砦に到着できれば、ブラディ街道を四百キャロン進んだことになる。ブラディ街道の全長千二百キャロンの、三分の一だ。
太陽は徐々に傾き、山の端が輝くオレンジに色づく。
今夜も、おそらく問題なく宿砦に到着できるだろう。そう思っていた矢先だった。
強烈な斜光が荷台の背を押すように射していたが、ふいにそれが曇った。
シャルが空を見あげ、眉をひそめる。ミスリルもつられたように上を見て、顔色を変える。
「おい、シャル・フェン・シャル。こいつは……」
ミスリルが深刻な声を出すので、アンは首を傾げた。
「なに? どうしたの」
それと同時に、後ろをついてきていたジョナスが馬車の速度をあげ、アンの馬車と御者台を並べた。
「ねぇ、アン。アン! 上。見て」
怯えたジョナスの表情で、やっとアンは異変に気がついた。
ジョナスが指さした上空に目をやる。
ぎょっとなった。空が黒い。
先刻から陽の光が遮られていたので、雲が出てきたのだろうと思っていた。
しかし太陽の光を遮っていたのは、雲ではなかった。
何百羽という、荒野カラスの群れだった。黒い大きな鳥が群れをなし、鳴き声一つたてずに、彼らを追うように飛んでいる。
「これは……襲撃……」
噂に聞いたことがある。荒野カラスは、屍肉をあさる掃除屋だ。だがその餌となる屍肉がない場合、群れをなして生き物を襲撃し、殺して喰うことがあるという。
これに襲われれば、まず助からないといわれる。
彼らは鋭いくちばしで、最初に生き物の目玉を狙ってくる。動きを封じて、それから肉をえぐる。荷台の中に逃げ込んでも無駄だ。彼らには、知恵がある。荷台の天井板を辛抱強くつつき、穴を空けて侵入してくる。
空を埋める、真っ黒い鳥の群れにおののいた。
この大群に襲われれば、命がない。アンたちの手にはおえない。
アンはシャルを見やった。今回こそ、命じる必要がある。こちらも命がかかっているのだ。「羽を潰されたくなければ、荒野カラスから自分たちを守れ」。そう命じるべき時だ。しかし。
「シャル、お願い」
ついつい、言いかけた。が、「お願い」の言葉に、シャルの目がちらりと光る。「また、お友達ごっこをする気か?」そう、無言でなじられたように感じた。
それを受けて、アンは覚悟した。
「シャル。命令するわ。荒野カラスから、わたしたちを守って。わたしはあなたの羽を握ってる。意味は、わかってるよね」
そう命じたが、不安をぬぐえなかった。
シャルの羽を握りつぶすようなひどい真似を、自分はやりたくないと思っている。それをシャルに見透かされれば、彼は命令に従ってくれないだろう。
案の定。シャルの目がおもしろがるように細まる。
「いやだ」と言われれば、アンはどうすればいいのだろうか。胸元から羽を引っ張り出して、引き裂くふりでもするしかないのだろうか。
しかしシャルは頷いた。そして、
「馬車を止めろ」
ひとこと言い置くと、御者台を飛び降りた。慌てて馬車を止め、飛び降りたシャルをふり返る。光を集めた剣を掌に出現させながら、彼は背中越しに素っ気なく言った。
「荷台の中に隠れてろ」
──従ってくれた? どうして。
荒野カラスたちが、急停車した彼らに向かって降下してきた。
「アン!」
ジョナスも馬車を止めて、蒼白な顔で空を見る。
「ジョナスも荷台の中に入って! 早く!」
その声に、ジョナスは転げるように荷台の中に逃げ込んだ。
「そうか! これが恩返しってもんだ。俺も鳥どもを追い払ってやるぞ!」
ミスリルははたと手を打って立ちあがり、俄然やる気で腕まくりした。
アンは蒼白になった。
「無理無理無理! 死んでも無理だから、来て!」
「無理とはなんだ! 俺の恩返しに、けちをつけ……わぁ!」
しのごの言うミスリルの首根っこをひっつかみ、御者台から飛び降り、荷台に飛びこむ。
「出ていかないでよ。恩返しするために死んだら、わたしが助けた意味がない」
荷台の床に座り、ぎゅっとミスリルを抱きしめる。
「お、俺は、恩返し……を。……する……」
抱きしめられたミスリルの声は先細りし、その頰は徐々に赤くなる。ついには沈黙した。
アンは外の物音に耳を傾けた。
今まで沈黙していた荒野カラスが、ときの声をあげるように、一斉にギャアギャアと鳴く。
その声が頭上からどっと降ってくるような感覚に襲われ、アンは思わず両手で耳をふさいだ。
どかどかと、荷台に荒野カラスが体当たりをする音と振動がきた。
悲鳴をかみ殺すだけで精一杯だった。
──助けて。……シャル!
馬が怯え動揺しているらしく、荷台が激しく揺れる。
荒野カラスの鳴き声は、荷台を包むように襲ってくる。
体が震えるのを、抑えられなかった。縮こまって、動けずにいた。
するとミスリルの小さな手が、そっとアンの頰に触れた。
「怖がるなよ、アン。大丈夫だ。シャル・フェン・シャルは黒曜石だ。俺たちとは違う。傷つかないし、壊れない。妖精の中でも、とびきり強い」
かなりの時間が経ってから、ようやく、馬車に激突してくる衝撃の数が減った気がした。耳障りな鳥の声が減る。少しずつ、外が静かになってきた。
完全な静寂が戻った。アンとミスリルは、顔を見合わせた。
「終わったのかしら」
「さあ……わかんないけど」
アンは顔をあげ、ミスリルを床に置くと、立ちあがった。おそるおそる扉を開いた。
途端。目の前をどさりと、黒いものが落下した。
「わっ!!」
尻餅をついて、後ずさる。
荷台の屋根から滑り落ち、ステップの上に載ったのは荒野カラスの死体だった。それを確認すると、目を前方に向けた。
開いた扉の向こうに見えたのは、真っ黒な街道。
街道は黒い羽毛を敷きつめたように、カラスの死骸で埋まっていた。
その真っ黒な絨毯の上で、白い頰に血しぶきを浴びて、シャルが佇んでいた。
「……シャル」
呼ぶと彼は、アンに視線を向けた。
ぞっとするような、それでいてうっとりするような、鋭い目をしていた。その姿は、黒曜石から研ぎ出した刃そのもの。
手にある剣をふって消滅させると、シャルは無造作に、頰の血をぬぐった。そしてゆっくりと、黒い絨毯を踏んでこちらにやってくる。
へたり込んでいるアンを見ると、馬鹿にするようにくすりと笑った。
「腰が抜けたか」
「ち、違うわよ」
断固否定して立ちあがろうとしたが、足に力が入らずによろけた。
危うく荷台から転げ落ちそうになったところを、シャルが抱き留めた。
その拍子に、風になびいたシャルの羽が、ふわりとアンの頰に触れた。その絹よりもなめらかな感触に、ぞくりとした甘いものが背を走る。
見あげると、黒い瞳がアンを見ていた。思わず、見とれる。
吸いこまれそうな黒。なんて綺麗なんだろうと、改めて思う。見つめられると、こちらの体が溶けてしまいそうなほどの色艶。
「どうした、かかし。サービスをご所望か?」
甘い声で意地悪な質問を囁かれ、かっとなる。
「誰が!!」
あわてて身を離し、シャルに背を向ける。
「とにかく、あ、ありがとう。助けてくれて」
頰が赤らんでいるのを、悟られていなければいいと思った。
◆ ◆ ◆
「すごい数。これに襲われていたら、確実に命がなかったわね」
ドレスの裾をつまんで、荒野カラスの死体をまたぎながら、アンは御者台へ向かっていく。ジョナスも荷台から降りてくると、アンの隣に並んだ。
「ほんとうに、助かったね。アン。君がシャルを使役してるおかげだよ」
言われるとアンは、ちらりとシャルをふり返って、困ったような表情をした。
「え……うん。まあね」
再び歩き出したアンの後ろ姿を見て、シャルは苦笑した。
アンはシャルを使役しようと、精一杯強がって彼に命じた。
しかし。彼女の命令には、使役者の冷酷さがない。シャルの羽を握りつぶすと脅しても、彼女がそれを実行できないことが、シャルにはわかっていた。
だがシャルは、アンたちを守った。命じられたから従ったわけではない。アンが荒野カラスにつつき殺されれば、彼女が握っているシャルの羽も危うい。
だからアンを守ったにすぎない。
自分の命令の弱さと、それをシャルに見透かされていることに、アンは気がついている。自分の命令でシャルが動いていないことを、彼女は感づいている。
その辺りの勘は、良いらしい。
──俺の羽を抱いているんだ。しっかりしろ、かかし。
アンは使役者というよりは、お荷物だ。シャルの羽を抱き込んで離さないから、けして粗略に扱えない。側を離れられない。
シャルにしてみれば、鍵をなくして開けることができない、生きた宝箱を連れて歩いているようなものだ。
こんな頼りない娘が、どうしてたった一人旅をしているのか。不思議だった。