二章 ブラディ街道での再会④
壁の一方に取りつけられた作業台の上には、砂糖菓子を練りあげるための石板や、木べらや、
逆側の壁沿いには、
いつもと変わらない荷台の中だった。
「なにも……ない?」
おそるおそる、荷台の中に首を
「おい、おまえ!!」
キンとした声とともに、小さな
「きゃあああああああああああああ!!」
アンは悲鳴をあげながらも、棒きれを思い切りふり
こちらにまっすぐ飛んできた影に、見事にヒットした。
ふり抜かれた勢いで、影はそのまま荷台の外へ飛び、火の近くに座っていたシャルの後ろ頭に
いきなり背後から
激突した後、シャルの背後にぼとりと落ちた小さな影を、彼は
「これは、いやがらせか!?」
アンに向かって
「知らないわよ!! それが荷台の中にいたのよ」
「これが……?」
シャルは自分が摑んでいるものに、視線を向けた。そして
「放せよぉ、この
首根っこを摑まれてじたばた暴れているのは、
「放せぇ!」
「うるさい」
シャルがぱっと手を
「ちぇっ。乱暴な
アンは
妖精は、青い
「あなたが、荷台の中で暴れたのね」
「暴れたわけじゃないぞ。うたた
「はぁ……すごい飛び起きかただね……。それにしても、あなた誰? いつ、なんでわたしの馬車に入りこんだの」
「俺は、ミスリル・リッド・ポッド。おまえに恩返しをしに来た」
「恩返し?」
「昨日。おまえは俺を助けた。だから俺は、義理を果たしにきたってわけだ」
そう言われて、アンはやっと気がついた。
「あっ! あなた! レジントンで妖精
あの時は
妖精が首に巻いている羽は、アンが妖精狩人から取り
「そうさ。俺はレジントンの町でおまえの馬車を見つけて、もぐりこんだんだ。それもこれも、恩返しするためだ。すぐにでも、恩返しをしようと思ったんだけどな。俺はあの馬鹿にこき使われて、
「でもあの時、人間に礼なんか言わないって、言ってなかったっけ?」
「言った。けどおまえに助けられたのは、事実だ。俺は、人間みたいな不人情な生き物にはなりたくないから、
小さな人差し指を、びしりとアンに突きつける。指を突きつけられたアンは、
「えっと……。なんていうか。恩返しを期待して助けたわけじゃないから、恩返しなんかいいわよ。しかも嫌々ながらとか、死んでも礼は言わないとか。感謝されてんだか、されてないんだか、よくわかんないし……」
「こいつを助けた? お
シャルは
「だって見殺しにするなんて、出来ないじゃない。えっと、あなた、ミスリルだったっけ?」
「俺はミスリル・リッド・ポッドだ。略すな!」
「あっ、ご、ごめん。ミスリル・リッド・ポッド。とにかく、恩返しは必要ないから」
「そうはいくか。恩を返させろ!」
あまりの尊大さに、アンはどっと
「わたし、今まで妖精とほとんど
「さあ、恩を返させろよ!」
「でも、本当にそんな必要ないし」
「必要ない? ふざけるな! 俺は
「地獄ってなに!? なんか
「とにかく、恩返しさせろ。恩返しするまで、つきまとってやる」
「わかった! わかったから!! じゃあ、恩返しをお願いする! え~と、え~と」
アンはぐるりと周囲を見回して、ぽんと手を打った。
「そうだ! それじゃ恩返しに、馬車の
「馬鹿にするな! 命を助けられた恩返しに、そんなショボいことをさせる気か!? もっとすごい恩返しを考えろ!!」
「すごい恩返しって……なに」
頭を
「
あまりにもミスリルがうるさいので、シャルは本気とも冗談ともつかない冷めた口調だ。
それを聞いて、ミスリルが
「おまえ!! 同じ妖精のくせになんてこと言うんだ。ふん。おまえ、黒曜石か。俺が
「アンよ」
「アン。おまえが
「て……なんで命令してるの? あなたが」
「だから、くびり殺そう」
妙にきっぱりと提案したシャルに、アンは
「せっかく助けたのに、馬鹿なこと言わないでよ。とにかく、ね。あなたは自由なんだから、好きなところに行って、幸せに暮らしてほしいんだけど」
「好きなところへ行けだと!? 俺を追い
「そういう意味じゃないんだけど……。……なんか、疲れた……。わたし、もう寝たい……」
アンはぐったりして、ミスリルに背を向けて
「シャルごめん。砂糖
シャルが砂糖菓子でつられるかどうかは別として、そんなもので予防線を張るのは、なんだか情けない気がした。
しかし実際問題。彼に羽を取り戻され、いなくなられては困るのだから仕方ない。
「
シャルは
「おい、おまえら!! おい、寝るな、寝るな──!!」
耳に突き
「もしかして今夜、寝かしてもらえないのかなぁ~……」
自分の善行を、つくづく
◆ ◆ ◆
「やいやいやい! おまえまで寝るな!! 仲間だろうが」
「おまえみたいにうるさい仲間なら、いらない」
「ななな、なんだと!? なんだと──!?」
「恩返し? おまえは
羽は妖精の体の中で、最も
その痛みを
しかしミスリルは、へんと鼻を鳴らす。
「なに言ってやがる、痛い思いを忘れるもんか。だから俺は、人間に礼なんか死んでもいわないぞ。けど俺の羽を取ったのは、アンじゃない。アンは俺の羽を、取り戻してくれたんだ。人間でも
なにやら
しかしなにしろ、
「うるさい!」
手をあげて、飛びあがった
ギャッと悲鳴をあげて墜落したミスリルは、今度は
「暴力反対!! この妖精殺し! 仲間殺しー!!」
片羽を取られた妖精は飛べなくなる。しかし残った羽の羽ばたきと
ミスリルはその跳躍力を生かして、
騒々しさが増したので、これ以上手を出さないほうが
横になって耳をふさぐアンは、
アンはこの妖精、ミスリル・リッド・ポッドを助けたらしい。
呆れるほど甘い
アンは自分よりも先に、シャルにスープを
そのうえアンは、シャルに対して厳然とした命令を下さない。彼女の命令は、お願いの域を出ない。彼女が羽を傷つけたくないと思っているのが、ありありとわかってしまう。シャルを使役するという、決然とした意志が感じられない。
命じられるのと、お願いされるのは違う。
だから正直、
命じられてもいないのに、従うのは
迷ったすえ、
けして、アンの命令に従ったわけではなかった。従うには、彼女は甘すぎる。
なぜアンはこれほど、甘いのか。もしかして、
今夜はミスリルも喚いているし、アンから羽を盗むチャンスはなさそうだ。
──まあ、かまわない。
命じられることがほとんど無いのだから、気楽だ。おろおろするアンを見て、笑っていればいいだけなのだ。ほんとうに、甘い小娘。
──かかしの作る砂糖菓子は、さぞ甘いだろう。
ふと、そんなことを思う。