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「──この場を以て宣言する。私はユフィリア・マゼンタとの婚約を破棄すると!」
高らかに力強い宣言が響き渡りました。その宣言を告げたのはパレッティア王国の王太子であるアルガルド・ボナ・パレッティア様。
まるで陽光を思わせるような白金色の髪は王族によく現れるとされた色で、青色の瞳は穏やかな色合いに反して、強い意志を秘めて私を睨み付けています。
アルガルド様の口から紡がれたのは婚約破棄を知らしめるものでした。アルガルド様の宣言一つで、煌びやかなパーティーの場は瞬く間に祝いの場から弾劾の場へ変貌しました。
私、ユフィリア・マゼンタは驚きのままに呆然とする事しか出来ませんでした。恥ずかしながらも目を見開き、声も出せずに唇を嚙みしめる事しか出来ません。ただ信じられないという一心でアルガルド様を見つめる事しか出来なかったのです。
私はパレッティア王国のマゼンタ公爵家の娘。それ故に次期国王であるアルガルド様の婚約者として、次期王妃として今日までやってきました。……それなのに。
「……アルガルド様。何故、婚約の破棄を?」
ようやく絞り出せた言葉は、アルガルド様への問いかけでした。婚約者としては不甲斐ないばかりなのですが、私はアルガルド様から好ましく思われていませんでした。
それでも私達の結婚は国王によって定められたもの。国の為には必要な婚約なのです。だから私は、いつかはアルガルド様にご理解頂けると。そう思っていました。
正直な気持ちを話せば、国王の責務を背負う事になるだろうアルガルド様へ恋慕の情はありませんでしたが、その支えでありたいと己に誓っていました。それがアルガルド様の婚約者として、私がこの国で果たすべき役割なのだと。
そう信じて、たとえ冷遇されようとも気にする事はないとやってきた筈ですのに。
「貴様は我が婚約者に相応しくないと判断した。貴様がレイニへ行った非道の数々、よもや言い逃れはすまい!」
レイニ・シアン。そう呼ばれた少女がアルガルド様の傍にいる。彼女はシアン男爵家の娘ですが、最近まで平民として育った子でした。シアン男爵も元平民であり、功績を積み重ねて貴族の末席に連なる事を許された成り上がりの貴族です。
そんな彼女の容姿はとても愛らしいと表現すべきでしょうか。艶やかに濡れた黒髪は夜空の色のようであり、伏せがちなその目は愛嬌の良さを感じさせます。素朴でありながら目を離せない。そして目を向ければその愛らしさに気付く。その容姿と出自故に何かと注目を集める相手だというのは知っていました。
何故、私が彼女の事を知っていたのかと言うと私の婚約者であるアルガルド様が気にかけていたご令嬢だからです。元々、アルガルド様の婚約は国王陛下が求められた政略結婚でした。それ故なのか、私もそうであるようにアルガルド様からも恋慕の情を感じた事はありませんでした。互いに国を担う義務感と責任があるだけと言われれば否定出来ません。
恐らくそんな私達の関係が良くなかったのでしょう。シアン男爵令嬢は私にはない魅力を持っていました。
愛嬌の良さ、愛らしい少女としての可憐さや、つい見守りたくなってしまうような直向きさは正に彼女の美点と言えます。
そんな彼女の面倒をよく見ているのがアルガルド様だと、そう噂されるようになっても私は危機感というものを抱いていませんでした。シアン男爵令嬢はその出自故に、学院に馴染めない様子をよく見かけたからです。そんな彼女を気遣ってか、アルガルド様はよくお声をかけているようでした。それ自体は良いのです。ご学友を思う気持ちを私が咎める事が出来ましょうか。
ただ、それでも私とアルガルド様は婚約している身です。婚約者がいる男性への過度な接触を見て幾らか苦言を零した事もありました。彼女との接点はただそれだけです。だからアルガルド様の言う非道の数々というのに私は心当たりがありません。
「もしもレイニ嬢に対する苦言の事を仰っているのであれば、そこに彼女を害そうとする意志など私にはございません! そもそも何故このような事を、今この場で!?」
むしろ衝撃を受けてしまっていたのはアルガルド様の短慮な行いにです。私達の婚約は国によって定められたもの。一個人の意志で覆せるものでは無いのです。ましてや、このような祝いの席で宣言していいものでもありません。何故ならば、この夜会には臣下となる貴族達もまた集っているのですから。
そんな事をアルガルド様が理解出来ない筈もないのに、どうしてこんな行動を起こしたのかが私には理解出来ないのです。
「アルガルド様。もしやとは思いますが、この話は陛下に了承を頂いているのですか?」
「父上には後で承諾を頂く」
「何故、親が定めた婚約を貴方の一存で解消などと! ご自分が何をしているのか理解されているのですか!?」
「父上にも母上にも文句は言わせない! 私は、私の意志で己の道を定める!」
アルガルド様の反論に私は息を吞んでしまいました。本当にアルガルド様はどうされてしまったのかと、私はただ混乱するばかりで首を左右に振ってしまいました。
「それは守るべき節度があってこその話です! お考え直しくださいませ、アルガルド様! よもやそこまで盲目になられましたか!?」
「言うに事を欠いて盲目だと!? 盲目は貴様だと知れ、ユフィリア! 王妃の地位欲しさに目を覆う所業を繰り返す貴様に王妃の資格などない!」
「ですから、心当たりなど……!」
私が弁明しようと声を上げましたが、遮るようにアルガルド様が一喝しました。その目にはありありと私への敵意が込められていました。
「レイニに対する過度なイジメ、所持品の盗難や損害、更には暗殺の企て! その全ては貴様が裏で糸を引いている事は調べがついているのだ!」
アルガルド様から突きつけられた言葉に私は何の事なのか、心の底から理解が出来ませんでした。私はそんな事をしていない、と。そう反論しようとした時でした。
「証言します。普段からレイニ嬢に対する彼女の悪行の数々は我等が目にしました!」
アルガルド様の横に並ぶように男達が並びました。その並んだ姿に私は思わず歯嚙みをしてしまいました。
「ナヴル・スプラウト様、モーリッツ・シャルトルーズ様、サラン・メキまで……!」
並び立った方々はこの国でも注目を集める地位の子息様達でした。
ナヴル・スプラウト様は王都を守る近衛騎士団長のご子息です。好青年と呼ぶべき人です。陽の当たり方で黒髪にも見える深い緑色の髪色、蜂蜜色の瞳は今は鋭く、私を睨むように細められています。
横に並ぶのは神経質そうな青年。癖がついた銀色の髪に、妖しい色をした紫の瞳を持つ彼はモーリッツ・シャルトルーズ様。我が国の国家機関である〝魔法省〟の長官を務める伯爵家のご子息様です。
そんな二人から一歩、引くようにして立つ溜息を零す程に美しい彼はサラン・メキ。
大人しく落ち着いた色合いの金髪に赤茶色の瞳を伏せ気味にしている彼は貴族ではありませんが、大きな影響力を持つ商会のご子息で特待生として入学していました。
いずれも学院では注目を集める者ばかりで、息を吞んでしまいました。唇を嚙んでしまいそうになりながら私は彼等を睨むように見据えます。
彼等がアルガルド様に追随したのはわかります。彼等もまたシアン男爵令嬢と行動している所を度々目撃されていたのですから。ここに来てようやく私はレイニ嬢を虐めたとして私を陥れたいのだと理解しました。
「レイニは確かに平民上がりで貴族としての振る舞いが未熟な事もあるだろう。だが、それにしてもユフィリア嬢の𠮟責は度が過ぎているとしか思えない」
義憤に駆られたように強い口調でナヴル様が私を糾弾する。
「えぇ、えぇ。𠮟責というのにはあまりにも酷いと我等も日頃から思っていたのです。それに、自分の手は汚さずに取り巻きのご令嬢に嫌がらせを強要したとか!」
大袈裟な身振りを加えながらモーリッツ様が告げます。高みから私を見下ろすその瞳には明らかな蔑みが込められている。
「レイニもまた努力をしていたのに……幾ら身分の違いはあっても、流石にあんまりだ」
首を左右に振りながら残念そうに告げるサランに、一部同意するような声が紛れ始める。
それが切っ掛けだったのか、周囲から私へと向けられる視線に鋭い気配が増えていくのを私は感じました。そんな空気の変化に息を吞みつつも私は叫びます。
「私は、シアン男爵令嬢を指導しただけで傷を負わせようなどとした覚えはありません!」
「それが貴方の傲慢だと言うのだ! ユフィリア嬢よ! 由緒正しき公爵令嬢、誉れ高き次期王妃様! その身分に甘んじた貴方の心の甘えが咎を生んだのだ!」
非難するかのように叫ぶモーリッツ様の声が私の耳によく通りました。すると会場内から同調するかのように、そうだ、と続く声が嫌でも耳に入ってきます。思わず私は周りの声に信じられない思いで視線を巡らせてしまいました。
「それでも! それに私は他のご令嬢にそのような指示などしておりません! ましてやシアン男爵令嬢を貶めようなどという意図もございません!」
「見苦しいぞ、ユフィリア嬢! 貴方に指示されたと、そう涙を流しながら訴えた令嬢もいたのだぞ!?」
怒りに満ちた声でナヴル様が一喝します。私はそんな指示を出した覚えなどないのに。その訴えをした令嬢は誰なのかと問い質したいのですが、彼等が答えるとも思えません。
一体、何故このような事になったのかわかりません。ただ周囲には私への疑惑や義憤が向けられる空気が蔓延していきます。
広がり続ける空気に私はそれでもやっていないと、そう訴えようとしました。しかし、喉が引き攣って声が出ない。唇だけが言葉をなぞるように震えただけでした。
「残念だ、ユフィリア」
「アルガルド様……」
「今までの行いを悔い、レイニへと謝罪せよ! ユフィリア・マゼンタ!」
何を謝罪すると言うのか。私には、もうわかりませんでした。何が間違いなのかすらも。自分の無実を訴えなければとは思うのに、声は引き攣ったまま出てきそうにありません。
私は今まで様々な嘲りを受けてきました。次期国王であるアルガルド様の婚約者という地位は良くも悪くも人の注目を集めていたのですから。決して自分は弱いとは思っていませんでした。むしろ強くあろうとすらもしました。出来る事をこなして、皆の規範になろうと今まで自分に課してきました。
(でも、私は……本当に、皆の規範となる令嬢として振る舞えていたのでしょうか……?)
一度、疑問に思ってしまったら私の膝から力が抜けていきました。誰からも理解されず、言葉が通りません。どんな時でも、己が正しいと信じて振る舞えれば結果はついてくると思っていました。けれど現実は私の思うようにはなりません。
自分に不利な事はありました。陥れようとする悪意に立ち向かった事だって初めてではないのです。けれど彼等に悪意はなく、己の信念に沿っているとわかってしまいます。
それが私には理解出来ません。だからこそ衝撃を受けて立ち竦んでしまい、ただ何故と思う事しか出来ずにいます。そんな現実に足下が崩れ落ちそうで。
……そんな時でした。この場の空気を一変させる気配が忍び寄ってきたのは。
「……ん?」
その気配に気付いたのは私だけではなかったのでしょう。アルガルド様も訝しげに耳を澄ませ、その音の発生源であるパーティー会場の窓へと視線を向けたようでした。
それは、何と言えば良いのでしょうか。風を勢い良く裂いて突っ込んできそうな音というか、それに混じって聞こえて来る誰かの悲鳴というか。
「──ァァァアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!?」
悲鳴そのものでした。そして悲鳴だと認識した次の瞬間、窓が勢い良く破砕したのです。
「……は?」
私は力が抜けそうだった事も忘れて棒立ちになってしまいました。窓を粉砕した何かがその勢いのままに、丁度私とアルガルド様の間を勢い良く転がっていきます。
弾劾の空気は塗り替えられ、破砕された窓の付近から逃れた者も含めて、誰もが呆気に取られながら窓を突き破ってきた何かに視線を奪われていました。
「いたたた……制御失敗、まだまだ研究が足りないなぁ」
ぱんぱん、と硝子の破片を払って立ち上がるのは美しい少女でした。
身に纏うのは動きやすさを重視した上着とズボン。この社交の場においてどう見ても似つかわしくありません。その筈なのに、彼女はどこまでも魅力に溢れていました。
どこか幼げな顔は煤で汚れても、その気品を穢す事は出来ていません。活力に満ち溢れた魅力と例えるのが正しいでしょうか。私はそんな彼女の顔に奪われるように視線を注ぐ事しか出来ませんでした。
彼女は足下に転がっていた箒のような形をした、けれど箒とも言えない器具を拾い上げます。瞳は優しい新緑を思わせる薄緑色で、どこか間の抜けたような愛嬌を感じさせます。
そして、その髪の色には誰もが息を吞みました。それはアルガルド様とよく似た王族の証明と言える白金色だったからです。アルガルド様に比べれば、どこか柔らかな陽だまりを思わせるような色の髪を彼女は揺らしました。
「貴方は……!」
そんな彼女の姿を見て、震える声で反応を示す者がいました。それはアルガルド様です。
その表情は驚愕から憤怒へと変わっていきました。そんなアルガルド様の変化に、騒ぎの中心となった彼女は気安げに片手を上げてみせます。
まるで今までの緊張が噓だったかのように、明るい調子のままに彼女は口を開きました。
「あー、アルくん! ……これは、もしかしてお邪魔しちゃったかな?」
「ッ、姉上ッ!!」
どこまでも場に似つかわしくない彼女、パレッティア王国きっての〝問題児〟の称号をほしいままにする王女、アニスフィア・ウィン・パレッティアは爽やかに微笑みました。