プロローグ
「──あ、リュグの新作だ」
バイト先に向かう途中、
そこは駅近にあるビルの一階部分、お洒落な雰囲気の漂うランジェリーショップで。
休日の昼下がりに、ひとり街を歩いていたセミロングの髪の少女は、ショーウィンドウの中の下着に目を奪われたのだ。
「かわいい……」
店のマネキンが着けていたのは、鮮やかなブルーのランジェリーだった。
そのデザインは可憐にして美麗。
十代の少女にも、大人の女性にも似合いそうな絶妙なバランスで。
青を基調としながらも、ブラの肩紐とリボンはアイボリーとなっており、そのアクセントが柔らかな印象を加えている。
デザインの統一されたショーツのリボンも同様で、こちらも本当に可愛い。
「でも、お値段はかわいくないんですよね……」
値札を確認してしょんぼりと呟く。
なんというか、高校生にはなかなか手が出せないお値段だった。
同じ代金で今着ている春物のスラックスと
ただ、高めの価格設定には理由があって。
手がけているのが、コストより高品質を売りにしている会社だからだ。
ランジェリーブランド『
リュグの愛称で知られるこのブランドの下着は厳選された素材を使用し、全て国内の工場で生産されていて、デザインだけでなく着け心地にも定評がある。
高価であるにもかかわらず、特に若い女性に人気があり、澪こと
「いつかわたしも、こんな下着をつけてみたいけど……」
今の自分には高嶺の花がすぎる。
どんなに恋い焦がれても気持ちは一方通行だ。
「いったい、どんな人がこんなに素敵な下着を作ってるんでしょう……」
きっと、この下着が似合うような素敵な女性に違いない。
そんなことを考えながら先を急ごうとして、最後にもう一度だけ振り返る。
横目に映ったランジェリーはやっぱりキラキラと輝いて見えて、まるで丁寧に磨き上げられた、美しい宝石のようだと思った。
◇
「男の子って、やっぱり胸の大きな子が好きなのかな?」
週明けの昼休み、二年E組の教室でそんなことを口にしたのは友人の
同じ机を囲んだ彼女は小柄で短めのツインテールが可愛い女の子で、椅子に座ったまま視線を正面の澪に向ける。
「みおっちはどう思う?」
「そうですね。個人的には、女の子を胸の大きさで選ぶ男子は最低だと思います」
「おお……みおっち、けっこう辛辣だね……」
「でも、どうして急にそんな話を?」
その質問に答えたのは真凛ではなく、机を囲むもうひとりの友人で──
「なんかね、真凛ちゃんの好きな人がそんなことを話してたんだって」
着席していてもわかる長身と、ショートの髪がトレードマークの美人さん──
「ああ、なるほど。
「ちょっ!? 名前出さないでよ、みおっち! 誰かに聞かれちゃうじゃん!」
「おっと、これは失敬」
言われて口に片手を当てる。もちろん聞こえる声では話していないけれど。
友人が想いを寄せる瀬戸君はクラスメイトなのだが、今は教室にいないようで、落ち着きを取り戻した真凛が事情を説明し始める。
「ここだけの話なんだけどね。今年の新入生に
「つまり真凛は、好きな人が巨乳好きだったから落ち込んでるんですね」
「そうなんだよ~。これでも二年生になって少しは成長してるんだけどね……」
「前に聞いた時は、Bカップって言ってましたっけ」
話を聞く限り、瀬戸君が巨乳派であることはほぼ確実。
しかし真凛の胸は平均レベルで、適度に膨らんではいるものの、お世辞にも大きいとは言えないサイズである。
それで彼女は思い悩んでいたらしい。
「みおっちといずみんはいいよね。スタイルいいし、大人っぽいもん」
「わたしも泉ほど立派ではないですけどね」
「私だって、そんなに大したものでは……」
「でもいずみんはDカップでしょ? じゅうぶん大きいじゃん」
「私はそのぶん体も大きいから。真凛ちゃんみたいに小柄なほうが可愛いと思うよ?」
「えー? そうかなぁ……?」
納得がいかないといった様子で真凛がペタペタと自分の胸をさわる。
「ま、真凛ちゃん、あんまり教室でそういうことしないほうが……男の子もいるから……」
「おっと、いけないいけない」
泉の指摘を受けて真凛が胸から両手を離す。
すると、チラチラとこちらを見ていた男子たちが一斉に目を逸らした。
「みおっちも気をつけなよ? 男はみんなオオカミなんだから」
「ふふ、そうですね」
大人ぶった友人の言い方がおかしくて笑みがこぼれる。
明るくて元気な真凛と、優しくておっとりした性格の泉。
気心の知れた友人たちと談笑していると、教室の時計を確認した真凛が席を立った。
「もう昼休みも終わりだし、そろそろ準備しないとね」
「準備?」
「次、体育だよ? 早く着替えないと」
「あー……そうでしたね……」
澪の表情がわずかに曇る。
体育が嫌いなわけではないが、少し事情があってこの授業は憂鬱なのだ。
「みおっちも、たまには一緒に着替えようよ」
「えっと……」
真凛の言葉に一瞬、迷う。
けれど、この誘いに対する澪の返答は決まっていた。
「ごめんなさい、今日も別の場所で着替えるので」
「えーっ、またぁ!? 今まで一度も一緒に着替えたことないじゃん! 今日こそはみおっちの胸を拝んでやろうと思ってたのにぃ……っ!」
「まあまあ、真凛ちゃん。澪ちゃんもお年頃だからいろいろあるんだよ」
「むぅ……」
興奮する真凛を泉がなだめてくれる。
ふたりには悪いがこれはチャンスだ。
「それでは、またあとで」
なんとかその場を誤魔化して席を立ち、机のフックにかけていた鞄を手にした澪は、そそくさと教室をあとにした。
階段を下り、二階の渡り廊下を使って足を運んだのは特別教室棟にある被服準備室。
隣接する被服実習室はほとんど使用されることがなく、準備室も同様のため、隠れて事を済ますにはうってつけの場所だった。
それでも一応、周囲に人目がないことを確認してから中に入る。
しっかりとドアを閉め、部屋の中央に鎮座するテーブルの上に鞄を置く。
準備室には全身をカバーできる大きな壁掛けの鏡があって、その鏡の前に立った澪は慣れた様子で制服を脱ぎ始めた。
ブレザーは椅子の背もたれに預け、リボンを取って、スカートを下ろす。
ボタンを外したブラウスもまとめて椅子の座面に置いた。
「……わたしだって、本当は一緒に着替えたいけど……」
鏡の前に立つたび、そこに映った自分の姿にため息がもれる。
自分の体にコンプレックスがあるわけじゃない。
むしろ、容姿には恵まれているほうだと思う。
セミロングの髪は自慢のキューティクルだし、胸だって普通にある。
野菜中心の食生活によって得た無駄なお肉のない肢体はなかなかのものだ。
では、いったい何が問題かといえば──
「やっぱり、これは見せられないですよね……。こんな……くたくたにくたびれた下着なんて……」
澪の下着は、花の女子高生のイメージとはかけ離れたものだった。
胸全体を覆い隠すスポーツタイプのブラは可愛さの欠片もないし、ショーツも大きめで野暮ったい。
グレーの布地はすっかりくたびれて哀愁を漂わせているし、とてもうら若き乙女のものとは思えない残念すぎる代物だった。
「まあ、青春時代を共に駆け抜けた三年物だから仕方ないんですけど……上下セットでお値段、驚きの
そんな激安下着にデザイン性や耐久性を求めるのは酷だろう。
中学時代、ショッピングモールのワゴンセールで発見した掘り出し物だったが、時間の流れは残酷というか、さすがに寿命の限界を迎えている感が否めない。
「綿100%で肌触りはいいんですけどね……。さすがにこの下着を真凛たちに見せる勇気はわたしにはありません……」
これが真凛たちと一緒に着替えられない理由。
くたびれた自分の下着を見られるのが恥ずかしかったのだ。
「他の下着も似たようなのが二セットあるだけですし……新調するにも先立つものがありませんし……巷では『高嶺の花』とか『お嬢様っぽい』とか言われてますが、実際はワンコインのパンツを大事に穿き続けてるボンビーガールなんですよね、わたし……」
周囲には秘密にしているが、澪の家は貧乏だった。
少々家庭の事情があって、住まいは隙間風が厳しいボロアパート。
空いた時間は本屋のバイトをこなし、かなりの頻度で食事にもやしを出すくらいには切り詰めた生活を送っている苦学生なのである。
部屋着は中学の芋ジャージだし、美容院代と外出用の洋服代を捻出するので精一杯で、新しい下着を買う余裕などどこにもなかった。
「わたしだって、可愛い下着さえ持ってたら……」
たとえば先日、ランジェリーショップで見た下着のような。
ああいう可愛い下着があれば気兼ねなく更衣室を使えるし、
「──っと、早く着替えないと遅れますね」
もうすぐ昼休みも終わりだ。次の授業開始までそれほど余裕はない。
いい加減、ジャージを着ようと鏡から視線を移し、体を横に向けた時だった。
「……え?」
その瞬間、想定していなかった事態が起きて澪は全身を硬直させた。
振り向いた自分の正面、被服準備室のドアが開けられており、そこに制服姿の男子が立っていたのだ。
(な、なんでこんなところに男子が……?)
髪型は特徴的な天然パーマで、スクエアタイプの眼鏡をかけている。
そこはかとなく見覚えがあるような、しかし詳細までは思い出せない男子が何をするでもなく、無言でこちらを見つめていて──
(というか……今のわたし、下着姿なんですけど!?)
動作不良から復旧し、我に返った澪はあわあわと慌て始めた。
なにしろ本日の下着は綿100%のワンコインランジェリー。
とても人様にはお見せできないというか、ある意味、裸を見られるより恥ずかしいくたくたの下着姿なのである。
それをバッチリ見られてしまったのだからたまらない。
(いやいや待って? こういう時は見ないようにするのがマナーなのでは? 視線を逸らすとか、いっそ回れ右をして立ち去るとか!)
それが紳士的な振る舞いというものだろう。
(なのに、どうしてこの人はガン見してるんですか!?)
どういう感情なのか、彼は絵に描いたような真顔だった。
しかも想定外の事態はそれで終わらない。
真顔の男子が部屋に入り、ドアを閉めたかと思うと、そのままずんずんとこちらに近づいてきたのだ。
あまりの恐怖に「ひっ!?」と短い悲鳴を漏らしてあとずさる澪だったが、無情にもすぐに背中が壁に当たってしまう。
もうどこにも逃げ場がない──絶望的な状況に澪はその身を震わせた。
(もしかしてわたし……今からこの人に襲われちゃうんじゃ……?)
数分前、友人の真凛は言っていた。
男はみんなオオカミなのだと。
だから食べられないよう気をつけるがいいと。
こんなことなら真凛にオオカミの撃退法を聞いておくべきだった──そんなことを考えていると、すぐ目の前に件の男子生徒が立っていた。
「あ……」
泉より少し高いくらいの、たぶん、男性としては平均的な身長。
それでも澪にはとても大きく見えてすくんでしまう。
逆光のせいか眼鏡のレンズが光っているのも本当にこわい。
おもむろに伸ばされた彼の両手が無防備な肩に置かれ、女子とはまったく違う大きくて硬い感触に澪はぎゅっと目を閉じた。
「──ああ、ごめん。こわがらせるつもりはなかったんだ」
「……え?」
思いのほか優しい声に、おそるおそる顔を上げる。
「ここには忘れ物を取りにきただけで、すぐに出ていくから安心してほしい」
「は、はぁ……」
彼が視線を向けた先、部屋の隅の椅子に小型のタブレット端末とペンが置かれていた。
どうやらそれが忘れ物らしい。
「ただその前に、どうしてもキミに伝えたいことがあって」
「な、なんですか……?」
いいから早く手を離して退室してほしいのだけど──
そんな本音を呑み込んで言葉を待つと、彼はこちらの肩を掴んだまま、愛の告白でもするかのような真剣な表情で〝用件〟を口にした。
「よかったら、俺のパンツを穿いてくれませんか?」
「…………はい?」
初めて下着姿を見られた男子はオオカミなんかじゃなかった。
女の子に自分のパンツを穿いてほしいと迫る、ただの度し難い変態だった。