第一章 二人の出会い、全ての始まり(1)

 パラリと、書架の間に乾いた音が響く。

 椅子に座り、黒色の髪の少年が本を読んでいた。彼の周りは埃とインクの匂い、窓から降り注ぐ、日の光の暖かさで満たされている。無数に並ぶ本達の間で、少年は黙々と古いページをめくっていた。だが、不意に彼は手を止める。そこにはある一文が書かれていた。

『お前は虚ろな怪物、空っぽの人形だ!』

 ──パタリ。

 その台詞を最後に、少年は本を閉じた。頭を横へ振り、彼は細く息を吐く。

 ゆっくりと、少年は唇を動かした。どこか自虐的な響きをこめて、彼は囁く。

「空っぽの人形、ね」

 疲れた顔で、少年は自分の目の間を揉んだ。小さく、彼はため息を吐く。

 その時だ。後ろから、少年は勢いよく抱き着かれた。

「ユグロ・レン氏、捕獲ーっ!」

「はいはい、ベネ。いい加減にしような」

 振り向きもせずに、少年──レンと呼ばれた──はそう応えた。先ほどまで滲ませていた空虚さが嘘のように、彼はすばやく動く。閉じた本で、レンは蜂蜜色の頭を軽く叩いた。

 ベネという少女は頬を膨らませる。細く健康的な肢体を持つ彼女の頭からは、何故か獣の耳が生えていた。背後からレンに抱き着いたまま、ベネは訴える。

「断固拒否する。いい加減、になんてしないぞー。レンはこうでもしないと読書中は気づかないのだから仕方ないのだ。理は我にあり」

「今回は読み終わってたって」

 軽く、レンは本を掲げた。

 ベネは首を傾げた。髪と同色の目を、彼女はパチパチと瞬かせる。

「あれ、それって読み始めたの少し前じゃなかった? さすがに早くない?」

「読むのをやめた。諸事情でな」

「ほへー、珍しいこともあるもんだ。明日は槍が降るね」

「ベネ」

 そこで、レンは窓に視線を向けた。木枠で囲まれたガラスは分厚く、微かにだが波打っている。それを、彼はトントンと叩いた。少し愉快そうに、レンは続ける。


「もう降ってる」


 青空から、百の槍が降り注ぐ。

 誰かが、魔術戦を行っていた。


   ***


「早く、早く、行こう!」

「別に窓から見ればよかったのに」

「間近だと迫力が違うんだなぁ! 急ぐよ!」

 部屋を飛び出し、レンとベネは走っていた。彼らは書架の間に設けられた、木製の螺旋階段を駆け下りる。滑り降り防止に、金の手すりの上には何百体もの鴉の立像が等間隔に並べられていた。走る二人の周りには、巨大な本棚がそびえている。ここだけではない。

 ほぼ全ての部屋、全ての壁に本棚は設けられていた。

 また、螺旋階段の隣には黒に金字のプレートで、ある格言が掲げられている。


『人は誰しも物語を持っている』


 ここは『無限図書館』の異名を持つ、魔術学園だ。ただ、魔術師の学生を所属させているだけではなく、あらゆる魔術師の管理を行い、独立的権力さえ誇る施設である。その名に違わず、学園は至るところに本棚を有し、中に無数の本を収めていた。だが、『無限図書館』がそう名づけられたのには、別の理由があった。

(確か、ここに放り込まれる前に、師匠に教えられたんだったな……『無限図書館』が、『無限図書館』である理由……それは……)

 本の海に思考を引きずられ、レンは考えかける。同時に、二人は正門広場に駆け込んでいた。青空の下に、市松模様の煉瓦床が美しく広がっている。

 顔の前に手で庇を作り、ベネが高い声をあげた。

「あそこ! わー、次の決闘が始まるとこか! 連戦とはいやお盛んだねー。いてっ」

「そういう言い方を若い娘さんがしない」

「これでダメって、厳しすぎない?」

 頭を叩かれ、ベネは唇を尖らせる。厳しくないと、レンは応えた。

 その間にも、新たな一戦は始まりつつあった。

 観衆の間にレンとベネは身を滑り込ませる。なるべく、体を触れさせないようにするが、顔を見られると露骨に嫌な表情を返された。それは割り込みのせいではない。周りの反応は、二人の境遇に関係している。実力至上主義な学園の中で、レンとベネの地位は低い。

 それは、二人が落ちこぼれクラスに所属しているためだった。

 魔術師達にとっては、魔術が全てだ。それはどのような価値観よりも優先される。魔術師は単なる人を超える存在と見なされ、相応の力を振るうことも求められた。

 故に、力のない者は蔑視の対象だ。

 だが、周囲の反応を気にすることなく、レンとベネは観衆の最前線に出た。

 一人の男子生徒が、女子生徒と向き合っている。黒髪の男子生徒の方は知らない顔だ。だが、女子生徒の方は、決して交流が広くないレンにすら、見覚えがある人間だった。

 金髪の彼女を指差して、ベネが囁く。

「ねぇ、ねぇ、レン。あの子さ、アマリリサ・フィークランドじゃない?」

「そうみたいだな」

 淡々と、レンは頷いた。

 それに応えるように、周囲の生徒が力を込めて叫んだ。

「流石アマリリサ! 最強じゃねぇか!」

「入学試験で一位を取っただけあるなぁ」

「歴代最高得点だったんでしょ? やっぱり『図書館』持ちは違うわね」

 賛辞の嵐だ。その中でも、金髪の女子生徒は怜悧な表情を欠片も変えることはない。

 アマリリサ・フィークランド。

 それは今年の新入生の中で一番の有名人だ。

 ふたつ結びの長く美しい金髪に、翠の目を持つ美貌の娘。魔術の力に秀でた才女──そして、『図書館』持ちの名家の出身でもある。

「開示!」

 アマリリサが声をあげた。瞬間、彼女の周りには複数の。そのひとつひとつには、どれも数百を超える本が詰められている。対する男子生徒も同様に叫んだ。

「開示!」

 彼の周りにも本棚がひとつ展開した。そこには十数冊の本しか入れられていない。

 ベネが呆れた声をあげた。

「あー、この段階で勝負ついてるじゃん。所有本の数が桁違いすぎるよ。駄目、駄目」

「そうでもないぞ。書かれた物語の質にもよる」

「相当いいやつじゃないと、この差は覆せませんなー」

 しみじみと、ベネは言った。まあ、そうだなと、レンは頷く。

 だが、膝を抱えながら、ベネは続けた。

「それこそ、でも持ってれば簡単に覆せるだろうけどね?」

「お前な、それは持ち主が処刑されるやつだろう?」

「にひひひ、そーだ」

 首をすくめて、ベネは笑う。彼女なりの冗談だったらしい。だが、冗談として扱うには『禁書』の存在はやや物騒すぎた。それはあらゆる呪い、全ての災厄を集めた物語だという。どこにあるかも、本当に存在しているかもわからない、禁忌の存在だ。一般の学生が持っているはずもない。つまり、男子学生が劣勢を覆せる手段としては使えないということだ。醒めた目で、レンは戦う二人の本を見比べる。


 ──人は誰もが物語を持つ。

 魔術師にとって、それは例え話ではない。


 魔術師達は、己の精神世界に本と本棚を持つのだ。更に、望めばそれを現実世界に具現化させることができる。そして、具現化した本をどうするのかというと───。

「っ……これだ!」

 自分の本棚から、男子生徒は一冊の本を引き抜いた。

 ページをめくり、彼は書かれた物語の一節を

「『男は湖を覗いた。月光に照らされた水面は銀に輝いている。彼はそこに確かに見たのだ。己のあるべき場所に映る怪物の姿を』」

「……水と変身属性ね」

 アマリリサが呟いた。男子生徒の周りに水球が浮かび始める。空気中の水分が、彼の周りに集まっているのだ。同時に、男子生徒の姿は変形を始めた。皮膚が細かく裂け、肉が蠢き、鱗が張っていく。やがて一匹の怪物が完成した。蛇に似た異形は尾を煉瓦の上に打ちつける。彼は水球を吸い込み、鋭く吐き出した。針に似た水の槍が、アマリリサに飛ぶ。

「おいで」

 瞬間、アマリリサは本棚から一冊の本を浮かび上がらせた。

 流れるように、彼女はページを開く。アマリリサも書かれた物語の一節を詠唱した。

「『全ての害なすものは去れ』」

「……拒絶属性か。防御魔法としては最高だな」

 レンは呟く。アマリリサに当たる寸前、男子生徒の放った槍は霧散して消えた。ただの水滴に戻り、それは石畳を叩く。圧倒的な防御力に、怪物と化した男子生徒はたじろいだ。

 だが、対応の隙を与えることなく、アマリリサは詠唱を続けた。

「『彼女は女王。全ての王。数多の上に法を敷くもの。反逆者には鎖を。愚者には罰を。捕らえられし者に、拘束と女王に従う栄光を──』」

「終わりだね!」

 ベネが言った。空中から鎖が奔る。怪物と化した男子生徒の上に重い鉄の輪が幾重にも乗った。見る間に、彼は全身を縛りあげられる。怪物の姿のまま、男子生徒は床に跪いた。

 アマリリサは鼻を鳴らす。

 見事な勝利だ。群衆から歓声と拍手があがる。

 うんと、レンは頷いた。

 当然の結果だ。

 今の戦いのように、魔術師達は己の所有する物語の一節を、詠唱呪文として使用することができる。物語の内容によって、発動する属性や効果は変化した。

 故に、本の冊数が多い者ほど有利だ。

 本は当人が望み、しかるべき儀式を行えば、血縁に譲渡ができる。そのため、一族で代々受け継いできた蔵書群を百冊以上持つ名家の出は、『図書館持ち』と呼ばれていた。

 学園が『無限図書館』という異名を持つのは、『図書館持ち』の生徒を無数に所属させているからだ。ちなみに、レンとベネのような落ちこぼれは『図書館』を持ってはいない。

 本は持っていて、一冊から三冊程度だ。

『図書館持ち』に、それ以外の生徒が挑むのは無謀だ。

 今回の決闘は最初から結果が見えていた。だが、怪物と化した生徒は何を考えているのか、未だ納得ができないように歯噛みしている。

 屈み込むと、アマリリサは彼に声をかけた。

「少し経てば、その鎖は解けるわ。忠告しておくけど、水と変身属性は同時に使うには相性が悪い。せっかくの身体能力の強化を殺してどうするの。次に挑む時は学んできなさい」

 そう言い、アマリリサは己の本棚を消して踵を返した。彼女は美しい金髪を肩から払う。

「いやー、圧勝だったね! いいもん見れたよそろそろ行こうか……ってあれ、レン?」

 ベネが話し終える前に、レンは

 アマリリサは入学試験で、最高得点を弾き出した逸材だ。正道の決闘には慣れつつあるだろう。だが、そこから外れた実戦慣れはしていない。

「───ッ!」

「キャッ!」

 レンはアマリリサを突き飛ばした。続けて、彼は身をよじる。

 側を、水の槍が掠めて飛んでいった。まだ変身を解除していない、男子学生が放ったものだ。負けを認めることなく、彼は醜く顔を歪めている。

 瞬間、アマリリサは本棚をひとつだけ開示した。目にもとまらぬ速さで、彼女はページを開く。声高く、アマリリサは叫んだ。

「『彼に与えられし罰は、涸れた井戸の中で生涯を悔いることだった──』」

 男子学生の下に穴が開いた。ひゅーっと、彼は底に落ちる。多少は怪我をしたかもしれない。だが、治療属性の魔術で回復可能な範囲だろう。そう判断し、レンは脅威が去ったことに胸を撫で下ろした。周りがざわついている中、やったやったと、ベネは拍手をする。

 一方、アマリリサはレンの前に立った。さらりと、金髪を揺らし、彼女は深く礼をする。

 まっすぐに、アマリリサはレンに告げた。

「助けてくれてありがとう。お礼を言います」

 その声は硬い。また、表情は感謝を告げているものではなかった。

 戸惑いながらも、レンは応える。

「いや、別に……」

「それと」

 彼女は顔をあげた。レンは息を呑む。アマリリサの翠の目の中には、怒りの炎が燃えていた。まるで、手負いの獣のようだと、レンは思った。彼に向けて、アマリリサは告げる。


「あなたに決闘を申し込みます」

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