第一章 五年ぶりの夏(7)
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「──お邪魔します」
唯奈が納得するまで珈琲の試作に付き合った後、俺は一人で叔父さんの部屋にやってきた。
棚には叔父さんの趣味だった古いCDが並び、整頓された机にはデスクトップパソコンとプリンター、それとラミネート加工ができる機材が置かれている。恐らく小さめの張り紙やメニュー表などは業者に頼まず自分で作っていたのだろう。
「業務用のパソコンだろうし、触っても大丈夫だよな」
叔父さんの個人的なデータが入っていたら気まずいなと思いつつ、俺はパソコンを起動した。
だがすぐにパスワード入力画面が出て行き詰まる。
「まあ、そりゃそうか」
──唯奈ちゃんはパソコン触ってないって言ってたし、聞いても知らないだろうな。
なら、とりあえず王道のパターンで試してみるしかない。
まずは名前と誕生日の組み合わせ。
叔父さんとおばさんのものでは弾かれた。
「Yuina1212、と」
三回目に入力したのは唯奈の名前と誕生日──ログイン成功。
「……通っちまった」
ほとんどダメ元だったので、しばし呆然とする。
──まあ、唯奈ちゃんに激甘だった叔父さんらしいか。
セキュリティ的には問題があるけれど、心は温かくなる。映し出されたデスクトップの背景は喫茶店の窓から撮影したと思われる海の景色だ。
フォルダを開いてざっと確認してみたが、中身は喫茶店関係のデータばかり。叔父さんのプライベートを覗き見るようなことにならなくてホッとする。
インストールされていた画像編集ソフトはバージョンこそ昔のものだが、大学で使っていたものと同じで操作は問題なさそうだった。
──よし、やるか。
俺はさっそく黒塗りの品目を抜いたメニュー表を作成し始める。
せっかくなら単にメニューを抜くだけでなく、デザイン的にも良いものにしたい。
──さっきのオムライスとハヤシライスは、ランチタイムの目玉だよな。もちろん一番引き立たせるべきなのは、オリジナルブレンドの珈琲……。
自信のあるメニューは大きく、目立つように。かと言って喫茶店の品を損なわないように。
バランスを見極めつつ〝正解〟に近づけていく。
デザインは絵画よりも優劣を付けやすい。具体的な用途がある以上、明確な評価基準が存在するのだ。
ただ、真の正解に辿り着けるのは一部の天才だけ。
俺のような凡人は、試行錯誤で可能な限り正解との距離を縮めることしかできない。
それでも──天才に一足飛びで追い抜かれるこの徒労が、俺は決して嫌いではなかった。
「ふぅ……わりといいんじゃないか?」
久しぶりに自分でも納得できるデザインが出来て、俺は体を伸ばす。
画面の中にある新たなメニュー表は、喫茶アザレアという場所にとても馴染んで見えた。
続いてプリンターで必要な枚数だけ印刷。これで各席のメニュー表を差し替えられる。カフェインで頭が冴えていたこともあり、ついデザインとラミネート作業に没頭してしまった。
コンコン。
そこに響くノックの音。
「宗にぃ、こっちにいる?」
「ああ」
返事をするとドアを開けて唯奈が部屋を覗き込んでくる。
「お風呂沸かしたから、先に入っちゃってよ」
「──了解」
いいのか、と聞き返す言葉を呑み込んで頷く。一番風呂を譲ってくれたわけではなく、単に自分の後に入られるのが嫌なのかもしれないので、余計なことは言うべきではない。
喋らないホストは問題だが、喋りすぎるのも災いの元だと俺は知っていた。
作業は終わっているのでパソコンをシャットダウンして、おじさんの部屋を出る。
一階が店舗なこともあり、浴室は二階だ。だが何故か唯奈はそこまで俺についてきた。
「案内されなくても、さすがに場所は覚えてるぞ?」
「あ、うん。それは別に心配してないけど」
頷きつつも戻ろうとしない唯奈。
彼女はどこか気恥ずかしそうに視線を逸らすと、上擦った声で言う。
「せっかくだし……背中とか、流してあげてもいいよ?」
「へ? な、何で?」
いきなりの提案に激しく戸惑う。何が〝せっかく〟なのか分からない。
「えっと、お礼というか感謝的な意味で……そういうの男の人は嬉しいって聞いたし」
「──また変な気の遣い方をしてるな。別にそんなことをしなくても俺はいなくならないよ」
俺が嘆息すると、唯奈は複雑そうな表情を浮かべた。
「分かってる。〝責任〟を取ってくれるんだよね? でもそれはそれとしてさ、宗にぃは今のところただ大変なだけじゃん。それじゃあ、あたしが不安になるの」
彼女が何を言いたいのか、頭の中で整理しながら俺は答える。
「つまり……俺にリターンがない状況が、落ち着かないってことか?」
「まあ、そんな感じ。あのさ、宗にぃに助けてもらおうとした時、〝何でもするから〟って言ったでしょ? あれ、マジだよ? 嘘じゃないから」
俺をじっと見つめてくる唯奈の瞳には覚悟の色が滲んでいた。
〝何でも〟がどの程度のことを指しているのか分からないが、曖昧にできそうな雰囲気ではない。
「そこまで言うのなら……その方が楽になるなら、今度何かお礼をしてもらうことにするよ。ただ背中は流さなくていい。また別のことでな」
頷くがそこは釘を刺しておく。
「あ、そういうのはあんまり好きじゃないってこと?」
「いや──それ以前の問題というか。冷静に考えてくれ。唯奈ちゃんはもう中学生だし、さすがに一緒にお風呂へ入るのは良くないって分かるだろ」
ホストなら女性が見せた隙は逃さないが、今の俺は彼女の従兄としてここにいる。本当に小さな頃は彼女をお風呂に入れてあげたこともあった気がするが、この年で同じことができるはずもない。
「えっ!?」
しかし何故かそこで唯奈は驚きの声を上げ、顔を真っ赤にした。
「な、な……お、お風呂にまで入るわけないじゃん!」
「へ?」
今度は俺の方が戸惑ってしまう。
「あたし、ホントにただ背中を流してあげようかなって思っただけで……この格好のまま──服も脱ぐつもりなかったもん!」
「そ、そうなのか……」
確かに彼女は〝背中を流す〟としか言っていない。
「そうだよ! 宗にぃのえっち!!」
「──悪かった。大人びた唯奈ちゃんを前にして、俺の方が冷静さを失っていたみたいだ」
邪な想像をしてしまっていた自分を戒めつつ、俺は彼女に頭を下げる。
これも男女のやり取りに慣れてしまった弊害かもしれない。
「ちなみに……じゃあさ、ただ背中を流すだけならオッケーってこと?」
唯奈はまだ赤い顔で確認してきた。
「……しばらく考えさせてほしい」
どこにラインがあるか分からず、俺は答えを保留する。
「えぇー」
不満げに頬を膨らませる唯奈。
彼女との共同生活は思った以上に大変かもしれないと、俺は今になって感じていた。
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試し読みは以上です。
続きは2022年2月25日(金)発売
『中学生の従妹と、海の見える喫茶店で。』でお楽しみください!
※本ページ内の文章は制作中のものです。製品版と一部異なる場合があります。
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