一章 社畜から時を超えてあの頃へ(2)

    *


「…………んっ……う…………?」

 窓から差し込む太陽の光が俺の意識を覚醒させる。

 チュンチュンと雀の鳴く声が朝を告げ、俺は布団から起き上がる。

「あ……れ……? 俺は、確か……」

 ぼんやりした頭で記憶を探る。

 俺の名前は新浜心一郎で、ブラック企業に勤める社畜の三十歳だ。

 昨日は確か深夜まで大量の仕事を抱えて残業中で──

「そ、そうだ! かなり強いしんきんこうそくみたいなやつが来て!」

 あの痛みと命がなくなっていく感覚を思い出し、俺は完全に目を覚ます。

 これは絶対に死ぬと確信したけど……こうしている以上俺は生きているらしい。

 とすれば、ここはどこかの病院なのか?

「え……ここって……?」

 周囲に視線を巡らせると、この部屋が病室じゃないのは明らかだった。

 そして俺のアパートの部屋でもない。

「実家の……俺の部屋……?」

 大量のゲーム、アニメの主人公のポスター、すっかり物置になっている勉強机に漫画やラノベばかり入っている本棚……間違いなく俺の学生時代の部屋だ。

「…………いや、待て……そんな馬鹿な……」

 俺はその状況の異常さに気付き、かすれた声を出した。

 何故なら、この部屋はすでにこの世に存在しないはずなのだ。

 俺の実家は母さんの死後に解体され、とっくの昔に空き地になっている。

「なんだこれ……俺は夢でも見ているのか……?」

 ぼうぜんと部屋を眺めるが、ひどくリアルでとても夢とは思えない。

 しかも何故か、身体が妙に軽く全身に活力がみなぎっているような感覚があった。

「一体何がどうなって……なぁっ!?」

 困惑する視線を部屋の窓に向けた時、俺は頭が真っ白になった。

 何故ならそこに映っていた姿は、くたびれた三十歳の俺ではなかったからだ。

(な、ななな、何だこれ……!? お、俺の顔が……!)

 その姿を自分だと、すぐには信じられなかった。

 あまりにも若々しい……と言うかガキにしか見えない自分の顔を、震える手でペタペタと触る。白髪は一本もなく、荒れ果てていたはずの肌はツヤツヤだ。

 身長はクラスでも平均的であり、顔のレベルは、まだ仲の良かった頃の妹から『身だしなみさえちゃんとすればそこそこじゃない?』と言われた程度だが、ブラック生活で染みついた目の下のクマと血色の悪さが消えた分、別人のようにフレッシュに見える。

「この若さは……高校生ごろの俺……なのか?」

 ありえなすぎる事態に、いまだに理解が追いつかない。

 この状況に対する合理的な説明なんて、やっぱり夢くらいしか思いつかない。

 だけど……だけどもし……。

 これが夢でないとしたら?

「若い身体の俺に……もうこの世に存在しないはずの俺の部屋……まさか……」

 ラノベやゲーム好きな俺は、この状況を説明できる現象にすぐ思い当たる。

 いや……だけど、いくらなんでもそんな……。

「そ、そうだ携帯! ってうわっ!? 懐かしのガラケーだ!」

 勉強机の上に置いてあった折りたたみ式のそれをパカリと開けると、今日の日付が目に入る。そこに表示されていたのは──

「じゅ、十四年前……!? 俺が高校二年生の年!?」

 それを見て、俺の頭に浮かんだ仮説がさらに現実味を帯びる。

 タイムリープ。

 ここは過去の世界で、俺は一度死んで意識だけがここへやってきたという仮説だ。未来の経験と記憶を保持し、まるでゲームの古いセーブデータをロードしたかのように。

 もちろん到底信じられる話ではない。だが、それ以外に自分が若返っていたり、失われたものが存在している理由が説明できない。

「………………」

 妄想が具現化したような状況に呆然と固まる。思いついた仮説があまりにも荒唐けいで、社畜生活によって夢や希望を失った俺のキャパを超えている。

 そして、俺がどうしていいのかわからずに途方にくれていると──

「あら? 物音がすると思ったらもう起きてたの? 今日はずいぶん早起きね」

 ガチャリとドアが開き、部屋に入ってきたその人を見た瞬間──俺は若返った自分を見た時の何百倍もの衝撃を受けて固まった。

「かあ……さん……」

「? 何? まだ寝ぼけてるの心一郎?」

 俺の最後の記憶よりもはるかに若いその人は、もう二度と聞けないはずだった声で、俺の名前を呼んでくれた。

 生きている。

 生きて、しやべっている。

 俺への心配から倒れて、そのまま亡くなってしまった母さんが──

「か、母さん! うわあああああああああああ!」

「ちょっ、どうしたの高校生にもなって! 変なものでも食べたの!?」

 困惑する母さんにすがり付いて俺は泣きわめいた。

 涙は激情のままにどんどんあふれて、いつまでたってもれることはなかった。


    *


 あまりにも懐かしすぎる高校の制服に身を包んだ俺は、かつて毎日通った通学路を歩きつつ、さっきまで体感していた奇跡を思い出していた。

(まさかもう一度母さんに会えるなんてな……)

 母さんに再会して身体の水分を出し尽くすほどに泣いた俺は、しばらくした後にやっと落ち着きを取り戻して『母さんが俺のせいで死んでしまった夢を見た』と朝っぱらからの号泣の理由を取り繕った。

 それに対して母さんは『もう、縁起でもない夢を見ないでよ』と言いつつも俺の不安を払うように頭をぽんぽんとたたいた。

 その子どものころからのあやし方にまた涙が出そうになったが、再びこらえきれなくなる前に『もう、いつまでも夢なんかでメソメソしていないで、さっさと着替えて学校に行きなさい! 遅刻するわよ!』と活を入れられてしまった。

 そうして俺は、自室のハンガーにられていた学生服の懐かしさにしばし呆然となりつつもかされるままに着替えを済ませ、追い出されるように家を出たのだ。

 そして今に至るのだが──

(正直まだ混乱してるけど……これはもう、間違いないよな……)

 どれだけメチャクチャな話でも、生きている母さんを目の当たりにしては認めるしかない。ここは十四年前の世界で、今の俺は記憶だけが大人の現役高校生なのだ。

 その確信は、街を歩けばあちこちに見つかる過去の光景にどんどん裏付けされていく。

(すげえ……『昔』が溢れてる……)

 スマホがまだ普及していないこの時代に、街行く人々が手にしているのはガラケーだ。

 チャットアプリや高グラフィックな携帯電話用ゲームがまだないためか、歩き携帯をする人は社畜の俺のいた時代に比べてかなり少ない。

 コンビニにしても、吸収合併されて姿を消したはずのサーベルケーやゴゴストアなどが当たり前のように存在している。

(母さんに急かされて家を出たけど……街の光景が昔な事より、おっさんなはずの俺が学生服を着て登校している現実が一番信じられない……。というか俺今から本当に学校へ行って授業を受けるのか……? 冗談じゃなくてマジで……?)

 学校と言われても遥か過去の記憶すぎて、学生服を着て登校中の生徒に交じって歩いているのがとてつもない変態行為のようにすら思える。

 それでもこうやって登校のルーチンを実行できているのは、人生で多くの時を過ごした学生時代の習慣と、社会人として遅刻を強く忌避する心のおかげだった。

(ん? いや、ちょっと待て……ここが過去ってことは……)

 今更ながらその事実に気付いて、俺は思わず道の真ん中で足を止めてしまった。

(俺はこれから学校に行って……家に帰って……それを繰り返す生活がまた始まる……。明日あした明後日あさつても、この年齢から毎日を刻み直していく……)

 この過去世界が一夜の夢ではなく俺にとっての現実であるのなら、俺はここから十六歳として年齢を再度重ねていくという事に他ならない。

(つまり──もう一度、自分の人生をやり直せるってことなのか……!?)

 今体験している奇跡の価値を正しく認識し、俺はどうもくしたまま身震いした。

 人生やり直し。それは、未来で惨めに絶命する直前に渇望したことでもあった。

(……本当に……そんなことができるのなら……)

 このタイムリープの理屈も原因もさっぱりわからない。だけど、俺がこの胸に荒れ狂う『後悔』を抱えてこの時代に戻ってきたのなら──

(やることは決まっている……!)

 灰色だった俺の人生を変える。

 自分を鍛える努力を惜しまず、誰かと戦ってでも欲しいものへと手を伸ばす。

 後悔しかなかった過去の全てへ、絶対にリベンジする……!

(母さんの事だってその一つだ。今度の人生は……ちゃんとした道を歩んで絶対に心配はかけない。美味おいしいものをごそうしてあげたり旅行に連れて行ったりして、たくさん幸せになってもらうんだ……)

 母さんの事以外にも後悔は無数にある。というか俺の人生はありとあらゆる項目において後悔まみれである事に気付いて、我ながら己の一生のひどさに嘆息する。

 とりあえず、社員の人生を破壊するブラック企業には絶対入らないと固く誓う。

(あれ……? そう言えば……)

 未来世界──一度死んだ身としては〝前世〟とでも呼ぶべきものの最後の最後に、俺は何かを思い出したはずだった。

 悔いるべき何か、今際いまわの際にやっと自覚した『致命的な失敗』を。

 だけど、思い出せるのはそんな情報程度で、具体的に俺が最後に何に気付いて自分自身にあきれたのかが思い出せない。

 なんだか、極めて重要な事だった気がするんだが──

(まあ、おいおい思い出すだろ。それよりも今は十二年ぶりの学校だ)

 制服にそでを通して通学路を歩いていると、早朝の冷たくて清涼な空気が心地よかった。

 社会人だった自分が薄れていき、高校時代の自分が戻ってきているような気がする。

(当時は行くのがおつくうだった学校がなんか楽しみになってきたな。勉強もスポーツも何もかも頑張ろうって気になってる。未来があるってこんなに素晴らしい気持ちなのか……)

 何にでもなれる。どこにでも行ける。俺がそんな若さの価値をみしめていると──


「あ、新浜君。おはようございます!」


 不意に聞こえた涼やかな声へ振り返る。

 そこには、彼女がいた。

 俺がおっさんになっても忘れることができなかった、青春の宝石。

 あこがれの少女と時を超えてもう一度出会うことで──何も手に入らず終わったはずの俺の物語が、再び始まったような気がした。

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