第一章 祝福の鐘は丑三つ時に鳴る(3)

「……は」

 転生。

 放課後の通学路には、あまりにも不釣り合いな言葉だった。

 翠色の瞳に魅入られて、俺は小さく息を呑む。

「ええと……そっちの世界に、葉桜がいるのか?」

「ええ、その通り。私は葉桜様から遣わされただけです。あなたたちの世界の言葉で表現するなら、そうですね」

 少女は小さく首を傾げて、

「使者、とでもお呼びください」

 そう名乗った。

 不意に吹いた風が、彼女の銀髪をかき混ぜる。

「私は葉桜様の使いの者です。名前は名乗れません」

「葉桜、様?」

「私は葉桜様の命令で、葉桜様からの伝言を届けるためだけに、葉桜様のためにあなたに接触したのです」

「待て」

 俺は思わず、口を挟んだ。

「おかしい。葉桜が異世界で生きているなら、どうして代理が来るんだ? 葉桜はそういうことを他人に任せるような人間じゃない」

 俺との再会に、代理人を立てるような姉ではない。

「どうして葉桜が直接来ないんだ? というか……なんで帰ってこない?」

 異世界のことを信じたわけではない。たしかに少女は珍しい色の目と髪をしているし、改竄魔法だの恋人だのといった言動も不可思議だが、それだけで俺の姉が異世界に転生していたという証拠にはならないはずだ。

「葉桜が異世界にいるっていうのは、本当なのか? 本当なら証拠を見せてくれ」

「そう言うと思いました。華やかで派手な魔法でもお見せしたらよろしいのかもしれませんが、今はこれしか」

 彼女の薄い唇が、まるでそこだけ別の生き物のように蠢いた。

「我が【所有者】の【聖櫃】より《顕現》」

 凛として空気が震える。眩しい一閃が煌めいた次の瞬間、眼前に現れていたのは白刃だった。使者と名乗った少女は、その痩身のごとく細いシルエットの──剣を握っていた。

「こんな魔法でよければ」

 わずかに得意げな声音で言う。しかし俺は突如として現れた白銀の剣よりも、その剣の切っ先に目を奪われていた。

 使者のエメラルドグリーンの瞳が、俺の視線を追いかけて「……あ?」とポーカーフェイスを崩す。鋭く光る剣の先端に、名刺よりも小さいサイズに千切られた羊皮紙が刺さっていたのである。まるで差し出されるように風に揺れていた紙切れを手に取ると、そこには黒いインクで走り書きされた文字があった。

『良い子』

「…………っ」

 思わず紙を握り締める。見覚えがあったのは筆跡だけではない。ぶっきらぼうにも思える端的な言葉は、紛れもなく彼女のものだった。受け手に一切の解釈を任せた言葉足らずの一言は、俺がキスを拒んだことも、姉が生きていると信じていたことも、果てはただ今ここに存在することすらも肯定されたような気になってしまう。俺の思考を着々と埋める。

 真意が見えないのに全てを受け入れてもらえたと思わせてくれる、そんな優しくも無機質な言葉選び。

 間違いない。これは葉桜の言葉だ。

 おいかわざくらは、異世界で生きている。

「……信じる」

 俺が呟くと、使者はジトッとした目でこちらを──俺の手中の紙切れを見下ろす。

「ど、どうして……聖櫃と同体である私の目を盗んで、安易に異物を持ち込める……」

「は?」

「いえ、話を戻します」

 使者は諦めたように嘆息して、白銀の切っ先を地面へと向けた。

「私がこの世界で使える魔法は、二つのみ。その一つである認識改竄魔法は、あなたに弾かれてしまった程度のものです。しかし私には、葉桜様から特権が与えられています。私が葉桜様から与えられた特権は、あなたと葉桜様を繋ぐことです」

「待ってくれ」

「はい?」

「さっきから気になってたんだけど」

 おいかわざくらは異世界で生きている。

 そのことを事実と認めた上で、だ。

「様、って何。なんで葉桜のことを『葉桜様』なんて丁重に呼んでるんだ?」

「………………」

 その瞬間、恐ろしく冷めた沈黙が落ちた。

 ぺらぺらと得意げに語っていた使者が、口を閉じて苛立ちが混ざった目でこちらを見つめる。

 え、何。なんだこの沈黙は。

「私たちの世界、は」

 なぜか気まずい沈黙を破って、使者は唇を開いた。

「八つの聖園指定都市で成り立っています。それらの都市はたった一人の統治者を立てて、その年の全ての顕現を統治者にゆだねて政治を行っているのです。私はそのうちの一つである第八聖園指定都市〈ストレイド魔術学院〉の魔術師です。第八聖園指定都市〈ストレイド魔術学院〉は、魔術や異能を持つ、若者たちで構成された都市なのです」

 いきなり何だよと口を挟む隙もなく、使者はペラペラ喋る。

「葉桜様は四年前に、その第八聖園指定都市〈ストレイド魔術学院〉に現れました。元々の世界で自分が事故に遭ったことは覚えていらっしゃった上に、ご自分で『あら、転生?』とおっしゃったので、それ以降は異能者でも魔術師でもない『転生者』という肩書で学院に所属することになったのです」

 そして、と使者は言葉を切って、

「ちょうど今から二年前に、葉桜様は〈ストレイド魔術学院〉の前統治者を討ち破り、正式な支配者となったのです」

「…………」

 俺は、ゆっくりと天を仰いだ。

「……なんつーことをしてくれたんだ、葉桜」

「当初は『転生者』が統治することに反発もありました。肩書上は統治者になっても、反対勢力によってその統治権を行使することを妨害されていました。そのため正式に前統治者から全統治権を譲渡されたのは、今年になってからでした。おいかわざくら様は、今や私たちの都市の正式な支配者です」

 言葉を失う俺の前で、使者は淡々と続ける。

「そして私たちの都市で最も大きな力を得た葉桜様は、ついに彼女の念願を叶えるための一歩を踏み出したのです」

「一歩?」

 異世界の都市を一つ攻略しておいて、それを「一歩」とのたまう彼女。

「念願って何だ? こっちの世界に生き返ることとか?」

 そう尋ねた自分の声に、若干の期待がこもっていた。それに勘付いたらしい使者が、ほぅっと小さな溜息を漏らす。

「だったら、よかったのですが」

 不穏な前置きをする。

「他の都市をも凌駕する力を手に入れた葉桜様は、第八聖園指定都市に所属する〈ストレイド魔術学院〉の生徒たちに、一つの法律を改正することを認めさせたのです」

「法律改正?」

「〈ストレイド魔術学院〉の生徒たちは実力主義です。伝統ある法律を変えたいと最初に葉桜様が提案したときは、それはもう反乱もかくやというほどの反発があったのですが、葉桜様が法律改正の提案と同時に近隣の土地を〈ストレイド魔術学院〉の名の下で侵略した結果、『おいかわざくらには法を変えるほどの力がある』という認識が不動のものとなってしまったのです。二度目に葉桜様が法律改正を提案したとき、反対の声は一切上がりませんでした」

「本当に実力主義だな、そちらの世界」

 葉桜が生きやすそうな世界だ。そう思いながら、俺は首を傾げる。

「それで、葉桜の作った法律というのは?」

「葉桜様が変えた法律は、婚姻について」

 使者は、あっさりと言い放った。


「葉桜様の法律改正により、私たちの世界では血の繋がったきょうだい同士の結婚が可能となったのです」


「…………は?」

 呆気にとられる俺に対して、使者は鋭い視線を向けた。

「元の世界に生き返るなんて、とんでもない。葉桜様は誰に何と言われようと、どんな刺客を送り込まれようと、私たちの世界で永住するという決断を下しています」

 永住、という言葉がやけに強調される。

「新たな法律が提唱されてから、改正が実施されるまでにはラグがあります。聖園指定都市の法は、総じて第一聖園指定都市〈グラン・アリア〉の認可を得なければならないためです。あと数日後に法律は改正され、私たちの世界は葉桜様にとっての楽園に作り替えられます」

 そして、と使者は言葉を切って、次に放つ一言を強調する。

「しかもその楽園は、あなたのためだけに作られているのですよ」

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