第一章 祝福の鐘は丑三つ時に鳴る(2)

 通学路を、誰かと手を繋いで歩くのは数年ぶりだった。

 繋いだ手のひらから伝わる体温は冷たくて、まるで陶器の置物を触っているような感覚すらした。記憶の中で握ったことのある手は、もっと頼りない温度をしていた気がする。

 夕焼けに染まった通学路で、不意に恋人が身を寄せてきた。

「ねえ、私たち恋人ですよね?」

 鼓膜を震わせる甘美な声に、思考が溶ける。俺は首を縦に動かしていた。

「じゃあ、恋人らしいことしましょうよ」

 不意に、少女が俺の目の前に立つ。

 行く手を遮るように立ちはだかって、少女は俺の両手を掴んだ。エメラルドグリーンの瞳が上目遣いにこちらを見上げる。

 改めて真正面から見ると、その子は独特の空気感の少女だった。あまつかりようのような圧倒的なオーラを放つ華やかさとは裏腹な、ちょっと風が吹いただけで雪のように崩れていってしまいそうな儚げな印象がある。銀色の髪も白い肌も、触れただけで溶けてしまいそうだった。そんな頼りない白いシルエットと、その体躯を包む濃紺のセーラー服のコントラストが目に眩しい。

 すらりと長い腕が、俺の両肩に回された。華奢で細い胴体は、不用意に触ったらパキッと小枝のように折れてしまいそうで、俺は近づいてきた少女をどう扱ったらいいのか分からず棒立ちになってしまう。

「つれないですね」

 そんな俺を上目遣いに見やって、少女はくふっと微笑した。膝丈のプリーツスカートから伸びた片脚が、器用に俺の下肢へと絡まる。動作は甘やかなのに、その微笑には何故か挑戦的な色が宿っている。

「らしいこと、しましょうよ。可愛いカノジョが間近にいて、立ち尽くしたままですか?」

 恋人らしいこと。

 そう言うと、少女はぐっと俺の後頭部を掴んできた。意外なほど強い力で引っ張られて、俺の顔がぐっと押し下げられる。お互いの鼻がくっつきそうなくらい、顔と顔が近づいた。

「おねがい」

 魅惑的な甘い声で、少女は囁いた。声音は甘いのに、彼女の真剣な眼差しのせいで雰囲気だけは決闘を挑まれたような空気感である。

「キスしましょ?」


『他の子とキスしたら手から千切ってあげる』


「──…………え?」

 脳裏に甘やかな脅し文句が蘇った瞬間、霞が晴れたように脳が冴えわたった。

 我に返ったとでもいうべきか。急に、目の前の光景がクリアに見える。

「…………だ、誰だ?」

 目の前にいる銀髪の少女は、俺の恋人なんかではない。そんな当たり前の事実を、今更ながら実感する。

 こんな少女のことを、俺は知らない。

 ましてや恋人のわけがない。

「……あら。すごいですね、あなた」

 当惑する俺の眼前で、少女は数秒前の蕩けた表情とは一変した無表情でいた。硝子のように怜悧な瞳をこちらに向けて、

「なぜ、私の改竄魔法を解除できるのですか?」

「……は」

 今、何か聞き捨てならない言葉を聞いた。

「魔法?」

「魔力が認知されていない世界において、私の改竄魔法は魔術師側が解除するまで効力を保つはずです。彼女に『愛の力があれば暴いてくれる』と力説されたときは半信半疑でしたが、そんなことあります? あなた、とても気味が悪い人ですね」

 小さく笑う少女の言葉を、俺は「待て」と慌てて止める。

「さっきから、何……いや、待て。魔力とか魔術師とか、何を」

「何を言っているか、と? 何を言っているもなにも、事実を述べているだけですよ。こちらの世界に魔力がないというのは本当なのですね」

 少女はあっさりと答える。

「私は認識改竄魔法を用いて、あなたの私に対する認識を操作しました。ここで本当にあなたが私にキスでもしてくれたら、私は私の魔法の効力にかなり自信を持つことができたのですが、おかげさまで自信喪失です」

 ちっとも自信喪失してなさそうなあっけらかんとした調子で、少女は続けた。

「異世界の人間であるあなたと接触するためには、まず知人のふりをするのが最も効率がいいと判断しました。それを彼女に進言したところ、知人よりも距離感を詰めやすい恋人になることを提案されたというわけです」

 異世界?

 またとんでもない単語が出てきた。知らない少女を自分の恋人だと思い込んでいた時点で訳が分からないのに、これ以上の要素を追加されたら処理しきれない。

 まさか不審者の類なのだろうか、それこそ宗教勧誘みたいな?と思ったが、それにしてはあまつかりようが日常に馴染まない髪や目の色を見過ごして、カノジョがどうこうとはしゃいでいた理由が分からない。ただの押しが強い不審者だったら、そもそも俺や天束に本気で「恋人」と誤解させるなんてできるはずがない。

「私の魔法は、特定の範囲にいる人間の認識を操作できます。認識を改竄することで、対象となった人間がとある人物に対して認識している関係を誤認させることができます。認識へと介入する魔法を、本来では魔法の存在を知らない非魔術師が解除できるわけがないのですが──」

 なるほど、と少女は意味深に頷く。

「さすがは、あの方が特別視するだけあります」

 俺が口ごもっていると、彼女は「失礼します」と一歩踏み出してきた。雪のように白い顔がぐっと近づいてきて、その左右で輝くエメラルドグリーンの瞳が爛々と俺を射すくめた。

 少女は、尋ねてきた。

おいかわざくらという名前に、覚えはありますか?」


 その名前を聞いた瞬間、俺は銀髪の少女の胸倉を掴んでいた。


 忘れるわけがない。その名前を。

「葉桜の何なんだよ、お前」

「どうして知ってるんだ、と聞く前に関係性を追及しての嫉妬ですか? なんで私が間男のような扱いを受けなければならないのですか」

 淡白な表情のまま不躾を指摘されて、俺はゆっくりと手を放す。そして聞き捨てならない自分の一言を謝罪した。

「……初対面の人間に手を出した上、『お前』と呼ぶ不束者で失礼しました」

「はい? ……ああ、別に。どうでもいいです、そんなこと」

 ほどけたタイを結び直す少女を見つめながら、俺は嘆息した。

 葉桜は、俺の三つ年上の実姉だ。

 生まれた瞬間からすぐそばに存在していた、おいかわざくらという女。

 その名前を聞いた瞬間に、魔法や異世界といった単語たちの真意を確かめることが二の次になる。

「そっちこそ……葉桜を知っているのか?」

 少女は意外そうな表情を浮かべた。質問には答えてくれない。

 焦りから軽く舌打ちをして、俺は質問を重ねた。

「葉桜はどこにいる」

「言わないのですね」

「は?」

「いえ。どこにいる、と聞くものですから」

 少女は、平然と言い放った。

「生きていたのか?とは言わないのですね」

「…………っ」

 後ろ手に手を組んでいてよかった。そうじゃなかったら、確実にまた粗相をしていた。

 言わない。

「言うわけない。だって、葉桜だから」

 きっぱりと断言した俺に、少女は「そうですか」と淡白に相槌を打つ。

「それでは私たちの認識を照らし合わせましょうか。あなたのお姉様は、こちらの世界で行方不明になりましたね」

 生きていたのかと問わないのか、と意地の悪い質問をしたわりに、死んだというのではなく行方不明と表現する彼女であった。


 おいかわざくらが高速バスの事故で行方不明になったのは、四年前。

 たしか葉桜だけが遠縁の親戚一家に招かれて、一人でバスで向かうことになったのである。一緒に行ってもいいかと尋ねた俺に対して、葉桜は一瞬だけ困ったような表情をしてから優しく微笑んだ。

『ねえ、わきくん。約束よ。毎日ちゃんとメールちょうだいね。おはようとおやすみ、どっちも。みんなには秘密。それがお姉ちゃんとあなたを繋ぐ命綱になるんだから。切らないで、約束よ』

 葉桜にそう囁かれ、軽く小指と小指を絡められて指切りをさせられれば、なんだか重大なミッションを課せられた気分になってしまう。健気にこくこくと頷いた俺は、さぞかし葉桜の理想通りの反応をしてしまったのだろう。葉桜が未練の無い足取りで家を出てしまって、そのことがいつまでも心残りなのだ。

 葉桜が乗り込んだ高速バスが事故に遭ったという報せが入ったのは、その翌日のことだった。

 高速道路で対向車と正面衝突して、そのまま車体ごと崖の下に落下したと。

 次々と死亡者の名簿が作られていく中で、おいかわざくらの名前はついぞ挙がってこなかった。死体が見つからなかったのである。両親はかなりショックを受けて、しかし葉桜の死を受け入れて、死体が無くてもせめてと彼らなりに弔った。

 しかし、死体は無かったのだ。

わきくん』

 それだけで、確信してしまう。だって。

『命綱を切らないで』

 葉桜は死んだわけではない。

 行方不明になっただけなのである。

『約束よ』


「ええ、生きていますよ」

 やっぱり、と思った。

 動じない俺を不審に思ったのだろう。銀髪の少女は、訝しげな眼でこちらを見上げる。

「どうして驚かないのですか?」

「葉桜が、俺との約束を反故にするような人間とは思えないから」

 しかし、それだけで充分なのである。

 端的な回答に、銀髪の少女は「そうですか」と肩をすくめた。きつく背中で手を握り締めたまま、俺は唇を噛み締める。

「葉桜はどこにいる?」

 尋ねるまでもなく、俺は理解していた。

 改竄魔法という言葉。魔術師だと名乗る少女。

「いや、聞き方が違うか」

 葉桜の死体は見つからなかった。

 高速バスでシートベルトをしないような人間ではない。バスが落ちた場所は分かっていて、シートベルトをしていた他の乗客は車内にいたのに、おいかわざくらだけがまるで煙のように消えてしまっていた。

「どこに行ったんだ、葉桜は?」

 まるで魔法のように、おいかわざくらは消失したのだ。

「ええ。今、想像された通りです」

 銀髪の少女は、淡白な声で言った。

おいかわざくらは、あなたたちが言うところの『異世界』へと転生していたのです」

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