第一章 祝福の鐘は丑三つ時に鳴る(1)

「頼む、匿ってくれ! 天使に殺される!」

 素っ頓狂な悲鳴と共に図書室に入ってきた男子高校生たちは、手前のカウンターにいた図書委員の女子の先輩をガン無視して、奥で書架の整理をしていた俺に向かって叫んだ。

 もうその時点での態度がクソ気に食わなかった俺は、顔見知りだったその男子集団に向かって端的に返す。

「帰れ」

「おい待てよ、男なら味方してくれるだろ?」

「変な連携に巻き込むなよ」

「くっそおおお裏切りやがって! ここは図書室だろ、思考と価値観の自由が保障された場所じゃないのか!」

 何としてでも図書室に押し入ろうとする集団が入ってこないように、俺は腕に抱えていたハードカバーの書籍たちを自習用テーブルに置いて、入り口の前に立ちはだかった。今日当番の図書委員は、俺以外が全員女子である。男女比が一対九の委員会に入ると、俺みたいな頼りない棒きれでも防波堤にならざるを得なくなる。

「……囲碁部だよな?」

 集団の中にいたクラスメイトに一応確かめると、俺に見つめられた彼はコクコクと激しく頷いた。彼の背後には三年生の姿もあるが、どうやら俺がいることで彼が交渉役に押し出されたらしい。

「もうバスケ部も倒されて後がないんだ! なあ、笈川は『ポスターくらい書き換えればいいじゃん』派閥の人間か? もう別にポスターなんかどうでもいいんだよ! これは男の尊厳を賭けた戦いになってるんだ!」

「男が尊厳の二文字を持ち出すときはろくなこと言わねぇんだよなぁ……」

 図書室の扉が、勢いよく開いた。

 悠然と入ってきたその人物に、水を打ったように静かだった図書室が沸いた。自習中だった生徒も一人残らず、男子も女子も関係なく、一斉に破顔して歓声を上げる。一方で囲碁部の部員たちは「ひ」と一様に息を呑んで青ざめる。

 現れたのは、すらりとしてモデルのようなシルエットの少女だった。カラフルなバッシュの紐を指に引っ掛けて、小脇に碁盤を抱えている。

「さんきゅー、同志」

 からっと笑って、彼女は琥珀色の瞳を嬉しそうに細めて俺を見た。

「思考と価値観の自由が保障された場こそ、性根を塗り替えるのに相応しいじゃんねー」

 彼女の名は、あまつかりよう

 圧倒的な存在感を背負うその少女は、「天使」の異名を与えられていた。

「天使」という呼び名の由来は、彼女が有名なのはその容姿のせいだった。手入れの行き届いた明るい髪に、眩しい飴色の大きな瞳が印象的なその美貌の噂は、校内だけではなくこの地域の学生たちに知れ渡っていた。そもそも天束が入学する前から「○○中学校の『天使』をどこの高校が得るのか」という噂がされていたくらいである。得る、とかいうトロフィーみたいな言い方をされていた彼女は、地元から遠く離れたこの高校に入学してからも、相変わらず周囲から「ぼくの天使。」という二つ名で呼ばれている。

 しかし、入学してから一年間。とにかく天束は軽やかに文武両道をこなした。「勉強会しようよ涼ちゃん教えてあげるよ」と近づく上級生たちを学年一位の実力テストの答案で黙らせ、「このシュートが決まったら付き合ってよ」というサッカー部エースのシュートをゴール付近でディフェンスしきって告白を拒否し、毎日のように校門で天束を出待ちしていた「自称・芸能関係者」の不審者たちの排斥を学校側が手伝ってくれないと知るや否や、校門の前で一一〇番して警察を呼んで教師たちを慌てて飛んで来させ──など、とにかく天束にまつわる伝説は絶えなかった。

 そして、去年の生徒会選挙。

 立候補も選挙活動もしていない一生徒だったはずの天束は、開票してみたら何故か圧倒的な票数を獲得していた。

 そんな異例の当選に、他の立候補者はすっかり萎縮してしまった。結果、天束が「じゃあ責任取りますかぁ」と、あっさりとそのまま生徒会長を引き受けたという。何でもありである。

 さて、そんな無敵の生徒会長・あまつかりようがどうして囲碁部を追い詰めているかというと、それは先週の第一回学園祭実行委員会で勃発した公式ポスター戦争が発端だった。

 部活動の部長会議で決めた公式ポスターは、我が校の制服を着た男子生徒が力強く空を見上げている絵にキャッチコピーを添えたものだった。

 そのキャッチコピーは、『少年たちよ! 今こそ踏みしめよう、僕らの軌跡を』というものだった。実行委員会でそのポスターを初めて目にしたあまつかりようは、真顔で言い放ったという。

『なんでポスターに「少女」も「私」も居ないの? ここ、女子が生徒会長やってる学校だよ?』

 ……ぶっちゃけ、この天束の意見に対しては賛否が分かれる。

 そんな些細な言葉選びに突っ込むなんて揚げ足取りだという意見と、言われてみればそうだ「少年少女」とか「みんな」とかにすればいいだけなのに、という意見。

 しかし天束がその直後に付け足した言い分で、ちょうど半々くらいだった賛否は圧倒的に「天束派」へと転んだ。

『てか私に投票したくせに、ここでポスター直したくないって言ってる人たちは何がしたいわけ? キャラクター人気投票のノリで正規の候補者たちを差し置いて私を当選させるの、本っ当に不誠実』

『天使』が真顔で言い放つ「不誠実」の一言はかなり迫力があって、その意見で「言い方くらいどうでもいいじゃん」派だった生徒たちの大多数が改変賛成派へと転んだ。

 しかしそれでも変更を渋ったのは、ポスター案を作成した部長会議のメンバーたちだった。特に男子部員が多い部活動の部長たちは、頑なに「そんなの変える必要ない」と言い張っていた。おそらく、ここで変更を認めたら自分たちが「あまつかりようにキャラ人気投票した不誠実な人間」というレッテルを貼られる……という引っ込みのつかなさもあったのだろう。

 だから素直に連中が賛成派に回れるように、慈悲深いあまつかりようは「じゃあ普通に殴り合って勝った方が勝ちねー」という提案をした。翻訳すると、「それぞれの部活動の競技で勝負をして、私が勝ったらキャッチコピーを再考しろ」ということである。

 そんなこんなで、その「殴り合い」が開始されたのが一週間前。下校時刻まで可能な限りの反対派部活動に勝負を挑み、才色兼備を絵に描いたような美貌の才媛は次なる獲物として憐れな囲碁部の胸倉を掴んだというわけである。


「次、なんか手ある?」

 図書室の自習テーブルの一角を陣取って囲碁部の部長と対決をしていた天束は、爽やかに対戦相手に尋ねる。噂を聞きつけて図書室に集まってきたギャラリーは、囲碁部の部員以外は誰一人として囲碁のルールが分からなかったが、天束と対戦していた部長の無言が何よりの返事である。

 こんな制圧を続けていたら、生徒会長としての支持率なんて駄々下がり──と考えるのが普通だが、そこはあまつかりよう。すらりと椅子から立ち上がった彼女は、項垂れていた部長の顔を覗き込む。

「私すっごい強いでしょー?」

 得意げなその笑顔に、青ざめていた部長もとい囲碁部一同の頬が緩んだ。我先にと天束の周りを取り囲み、「すごいよ!」「うちの部においでって」「女流棋士になろ!」と懸命に勧誘を始める。

「私に負けたは放っておいて、みんな解散しよ! そろそろ下校時間だしね」

 わぁっと沸き立つギャラリーの熱い眼差しを背負いながら、『ぼくの天使。』ことあまつかりようは軽やかに手を叩いた。


   ***


「うわぁー残業してる」

 下校時間が過ぎて、三十分が経った頃。

 すっかり無人になった図書室で書架整理の続きをしていたら、そこにあまつかりようが現れた。見回りをしていたのだろう。大きな鍵束を持って、俺の姿を見つけて困ったように笑った。

「仕事の邪魔して悪かったよぉ、図書室で変なことして」

 全然そんなつもりではなかったのだが、天束の言い方に違和感があったので思わず聞き返す。

「変なこと?」

「そうだよ、もう二度とやらない。だってダルいもん」

「…………」

 俺の手からあっさりと本の山を取り上げて、天束は肩をすくめた。

おいかわわきくんだよね、二組の。知ってる? 宗教勧誘が狙う家って、玄関が汚かったり郵便受けが郵便物でいっぱいになってたり、そういう『隙』のある家らしいよ。そういう細かいところにまで労力をかけられないほどに追い詰められた心の弱さに付け込むんだって」

 同級生の気安さのせいか、天束は本を棚に戻しながら流暢に語った。

「私は自分の住んでるマンションのエントランスに、虫の死骸一つも放置したくないの。でもマンションなんだから、他の住人も掃除を手伝ってよって思うのね。だから」

 肩にかかった柔らかな猫っ毛をふわりと払いのけ、天束は猫のように笑った。

「一度は私が掃除したんだから、あとは当番制にしたい気持ち。私がこんな些細なことで徹底的に戦ったから、他の子たちがもっと戦いやすくなるといい。あとは自由に戦ってくれ、みんな」

 物騒にも聞こえることをぼやいて、天束は不意に俺を見上げた。

「てかカノジョさん、待ってたよ」

「…………は?」

「あ、もしかして急にカノジョさんの話したから照れちゃった? ごめんってばー。笈川くんって女子の先輩と仲良くしてるからそういうイメージなかったけど、だったんだね」

 とっさに固まってしまった俺は、さぞかし本気で照れているように見えたのだろう。天束はその綺麗に整った顔をにやにや崩す。

「カノジョさん待たせちゃ悪いでしょ。笈川くんの仕事が遅れちゃったのは私のせいだし、あとはやっておくよ。ついでに図書室の鍵も生徒会室に返しておくから、ね?」

「いや、それは──」

「いいってば」

 問答無用に近い視線の圧が、俺を射抜く。

「君が帰らないと私も帰れないの。ね?」

 ダルいとか当番制とか言うわりに、頑ななほどに律儀である。

「助かる、天束」

 ありがとうでもごめんでもなく、端的に感想を述べながら図書室の鍵を渡してやると、嬉しそうに目を細めた。

 廊下に出てから、俺はふと訂正し損ねた一言を思い出して小首を傾げた。

「カノジョ? 誰のことだ、それ」

 しかし、こういうものは訂正すればするほど「照れるな、照れるな」と肘で小突かれてしまうような話題なので、最速で事実を確認したかった俺は人気のない廊下を急ぐ。

 西日がたっぷりと差し込む眩しい昇降口に、その少女は立っていた。

「あっ」

 足早に駆けてきた俺を見て、彼女は頬をほころばせる。

 ぼんやりと、改めて西日を浴びる彼女を見つめる。大きく見開かれた瞳は、宝石をそのまま埋め込んだような翠色だった。それだけではない。ゆったりと背中に流れるストレートヘアは、雪よりも眩しい銀髪だった。およそ人間離れした瞳の色と髪の色に似つかわしく、その双眸も人形のように端正に整っている。

 触れたら溶けてしまいそうな繊細な容姿の少女は、その細いシルエットを紺色のセーラー服で包んでいた。見たこともない制服だ。

「…………えっと」

 しかし、それ以上思考は続かなかった。すっと差し出された白い手に、意識が吸い込まれていく。

「帰りましょう」

 ぼんやりと濁った頭で、俺はおずおずとその手を握った。俺に手を握られて、少女は満足そうに微笑む。

 その笑顔を見て、確信した。

 そうだ、俺はこの子の恋人だった。

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