第一章 祝福の鐘は丑三つ時に鳴る(4)
脳裏に、懐かしい映像がちらつく。
賑やかな屋台に、人混みの喧噪。暗い夜空に眩しく弾ける花火。そんな火花よりも眩しい紅みがかった切れ長の瞳。俺の唇を塞いだのは、黒いレース地の手袋に包まれた細い手だった。
『
『だってお姉ちゃんと結婚するものね』
空いっぱいに広がる大輪の花よりも幻想的に微笑まれて、その上で断るなんて選択肢はあり得なかった。そんなこと俺にはできない。
だから、念を押した。
『それ、嘘じゃないって言って』
そう答えた。
『ちゃんと本当のことにして。約束して、葉桜』
葉桜は約束を反故にしない。俺が招いたことだった。
約束をさせたのは、俺だった。俺が指切りのために小指を差し出した。
だから葉桜は、異世界に転生してまずその願いを叶えようとしたのだろう。俺が求めたことを実現させようとして、世界の方を捻じ曲げてしまったのだ。
「とにかく、正式な法律改正を経て私はこちらの世界に送られることになりました。私は葉桜様に、とある勅命を与えられたのです。私があなたの恋人として現れたのは、葉桜様からの命令でした。葉桜様以外の女性に対して、あなたが目移りしないか確かめるための試験だったのです」
さっきの唐突なキス要請は、葉桜からの試験だったのか。おそらくあそこで俺が「やったぁしようキス今すぐしよう」とノっていたら、葉桜を大いに失望させていたに違いない。
「あなたはその試験に、見事に合格してしまいました。お姉様に操を立てて、キスを拒んでしまいましたね。葉桜様は喜ぶでしょう」
不意に使者の白い手が眼前へと差し出された。
「弟くん」
エメラルドグリーンの瞳に見つめられる。
その白い唇がぱかっと開かれた。
「結婚してください」
プロポーズとは思えないほど淡白な口調で、
「あなたのお姉様と結婚して、あなたのお姉様が支配する異世界へと行き、お姉様と一生一緒にいてください」
使者は軽く片膝を折って、切々とした声色を絞り出した。
「お願いです。私たちの支配者の願いを叶えてください」
俺は
小学生の時分から、いつも未知の世界に誘ってくれる葉桜が好きだった。
そう、俺はそんな葉桜のことが好きなのだ。俺の記憶の中にいる葉桜の一挙手一投足が大事で、何一つ忘れたことなどない。
だけど──
「……え、なんで」
俺が絞り出したのは、単純な疑問だった。
「なんで俺が譲らなきゃいけないんだよ」
「……はい?」
その瞬間、使者がぞっとした表情をした。まるで世界の終わりを告げられたような顔だった。
「な、なんとおっしゃいました? 今」
「どうして葉桜と結婚するという約束に、『ただし異世界に行かなければいけない』っていう条件が勝手に付け足されてるんだ?」
「は?」
「こっちの世界で結婚できないから、結婚できる世界を新しく作ってそっちで結婚する? 違うだろ、当初の約束と全然違う。俺が葉桜と約束したとき、『別の世界で』という条件は無かったぞ。何だその後出しは、どうしてハードルを下げるんだ」
「下……っ!?」
使者がギョッとして、大きな瞳が零れ落ちそうなくらい目を見開いた。
「ま、待ってください弟くん! 私の言ったこと聞いてなかったんですか? あなたのお姉様は、あなたと結婚するために私たちの都市を支配して結婚制度を変えたんですよ? それのどこが『ハードルを下げた』になるんですか!」
「だいたいそれも何なんだよ、そっちの世界にとって葉桜は支配者なんだろ?」
「ええ、そうです。知らない人はいない、私たちの都市にとっての象徴です。皆が崇拝し畏怖する御方です」
つまり、みんなの葉桜ということだ。
葉桜が向こうの世界にいる限り、俺だけの葉桜ではないということだ。
「お、弟くん?」
もう俺は、結婚という枠に入れられるだけでは満足できない。そこまで堪え性のない俺を育てたのは葉桜だ。別に俺は、葉桜さえいればいいというわけではないのだ。
「俺は全部を取り戻したいから」
どうして異世界に葉桜を奪われなければいけないんだ。
俺は「結婚」するために、葉桜と一緒に下校する日々を諦めたわけではない。本当は交通事故から軽やかに生還した葉桜に、おかえりを言って喜んでもらうはずだった。朝起きてから夜寝るまで
どうして、そんな。
たまたま葉桜が異世界に行ったからという理由だけで、俺が待つことを諦めてそちらの世界に行かなければならないのか。葉桜を俺の日常に取り戻すということを諦めなければならないのか。
何一つ変わらない世界が、一番幸せだったのに。
「可能なら今すぐ葉桜に伝えてくれ。俺が葉桜のプロポーズを呑んだのは、実の姉と結婚できないことを知らないくらいの子供だったからじゃない。そのくらい不可能なことでも、葉桜と一緒なら絶対にできると確信してたから承諾したんだ」
何一つ諦めない。絶対に譲らない。
「近道をするな、一言一句すべての約束を守れ。俺は約束を守っていただろうが」
「お願いです、それは」
使者は死人のように顔を青ざめさせていた。色を失った唇がわなないて、声を絞り出す。
「言わないで──」
「俺はそちらには行かない。葉桜、あなたがこちらに帰ってこい」
使者は、その瞬間に絶句した。
たっぷりとした間を取って、使者は言葉を選んでいるようだった。くっと軽く唇を噛み締めて、絞り出したその言葉は。
「残念です」
冷たい感触が、首筋に当たる。
「……は」
白銀の剣の先が、俺の頸筋に押し当てられていた。
「ダメだったのですよ、絶対に」
こつん、と。
凍り付く俺の革靴の爪先を、少女のチョコレート色のローファーが突く。
「絶対に断ってはいけなかったのです。葉桜様のためにも、あなたのためにも」
後ずさりしかけた俺は、その言葉を聞いてぴたりと体の動きを止める。
「私があなたを殺すことになってしまうから、それだけは、絶対に」
俺は眼前の剣を見つめながら、細く息を吐き出した。か細い溜息は微かに震えている。夕日を眩しく反射させる剣は、細筆でまっすぐ引いたように細く長い刀身だった。少女の銀髪と同色の刃が、一分の揺れもなく俺の喉を狙っている。
「それも葉桜の命令?」
「まさか。こんなこと知られたら、私が葉桜様に殺されます」
「じゃあ、どうして俺を殺そうとしてるんだ? 葉桜への反乱か?」
「反乱、ですか」
そうかもしれません、と使者が呟く。
「不思議ですね、弟くん。どうして動じないのですか?」
どうして?
そう言われても。
「だって、お前の背後にいるのって葉桜なんだよな? だとしたら、俺に危害が加えられるわけがないというか」
「馬鹿ですか?」
白い刃の切っ先が、喉元の皮膚を軽く撫でた。爪先を押し当てられた程度のピリッとした痛みが走る。
「あなたが無事でも、世界の方が壊れてしまったら元も子もないでしょうが」
「……は?」
そのときだった。
空に、亀裂が走った。
「…………っ」
俺とほぼ同時に空を見上げた使者が、息を呑む。
稲妻よりも歪な形をした割れ目の奥から、白い光が覗く。使者が身をのけぞらせると、俺の肌から彼女が手にしていた剣の刃が離れた。その瞬間に、空はいつも通りの景色になった。
唖然とする俺の反応を見て、使者が一言。
「見えました?」
「何だ、今の」
「そうですか。剣の先端が触れていたことで私と繋がっていたから、見えたのですね」
「だから、何だ今の」
「葉桜様です」
端的に答えて、使者は剣を持っていた手をパッと開いた。
「仕方ありません」
白銀の剣が消失する。
「戻りますよ、弟くん。あなたのせいで世界が危ない」
意味の分からないことを呟いて、使者は学校へと踵を返した。