翌日、担当交代の時間が来たため雪那の側から離れたわたしは、次の仕事に向かう前に手近な一室に入る。しっかり鍵をかけて、懐に仕舞っている小さな手鏡を取り出す。
「蛍火」
小さく呼びかけると、ほどなくして鏡が淡く光って通信が繋がり、神子長の服を一分の隙もなく着込み、相変わらずの完璧な笑みを浮かべている蛍火が映る。
蛍火との三日に一度の定期連絡だ。『如何お過ごしでしたか?』という蛍火の言葉を受け、わたしは雪那の勉強の様子を見ていて問題なさそうだと思った反面、会議での臣下からの扱いがどうにも腹立たしく感じることを語る。
「わたしにとっての蛍火みたいに、一人でも心強い味方がいてくれたらと思って、昨日少し瑠黎と話した」
『おや、私のことを心強いと思ってくださっていたとは』
面白がるような蛍火の口調に、わたしはしまったと思うが、別に蛍火に言ったところで今さら恥ずかしがるようなことでもない。
「心の底から思っていたわよ」
わたしも微笑んでしれっと言ってやると、蛍火は『それは、光栄です』と一礼した。その声が若干揺れたように聞こえて、珍しい、照れ隠しだろうかとにこにこと口角が勝手に上がってしまう。
『瑠黎が私のように側にいれば、安心して離れられますか』
「大分安心するわ。でも、雪那の余裕には繋がっても自信にはならない」
笑顔を消し、わたしは考え込む。もっと肝心な部分──王としての自信を持たせることは、国内の者ではどうにもできない。誰も、雪那と同じ立場の人間がいないのだから。
もしもこの国と恒月国の国交が回復して、雪那が紫苑と会う機会ができたら……。
『紫苑様ですか』
心を見透かしたような蛍火の言葉にびくっとする。知らず知らず口にしてしまっていたらしい。「ああ、うん」とよく分からない返事をしてしまうが、蛍火に気にした様子はない。
『即位式で、使者と上手く繋がりを作ることができればいいですね。王は即位式には来ませんからね』
「うん。……まあ、国としても今の国交断絶状態を解消したいみたいだから、」
隣国であり大国の恒月国は、第一優先で臣下共々交渉を試みるだろう、と続けようとした口を閉ざす。部屋の外を誰かが走って行った。過ぎ去ったと確認してから話そうと耳を澄ますと、また小走りで部屋の前を何名かが通り過ぎるのが分かる。
何かあったのだろうか……?
蛍火に目で合図してから外の様子を窺いに行くと、内容までは聞こえないものの、早口で潜められたような話し声が遠ざかっていく。わたしは、不審に思って眉を寄せた。
王宮の廊下は緊急時くらいしか走ることを許されていない。彼らの走っていった方向は……と考えはっとする。雪那の部屋がある方向だ。
「ごめん蛍火! また後で」
嫌な予感に駆られ、鏡を胸元に仕舞い、わたしは急いで部屋を出た。
小走りの女官の後を追うと、雪那の私室の隣の部屋に入った。扉からそっと中を窺うと、室内は不穏な空気で満ちていた。
室内を見回すと、人が集まっている部屋の隅に瑠黎を見つけた。他の神子と話している瑠黎は無表情だが、どことなく険しさをはらんでいるように見えた。
「何かあったのですか」
声をかけると、瑠黎と、彼と一緒にいる神子がわたしに気がついた。一緒にいる神子は、現在雪那の側にいるはずの神子だ。瑠黎が王の側に戻るよう言いその神子が退室するや、瑠黎が軽く身を屈め、わたしの耳元に顔を寄せる。
「陛下の毒味役が死にました」
瑠黎が小声で教えてくれたことに、頭を殴られたような感覚がして、わたしは目を見開いた。毒味役が死んだ。つまり食事に毒が盛られていた。──雪那の命が狙われた、と思い至り、冷水を浴びせられたような心地がした。
「雪──陛下の耳には」
衝撃を受けている場合ではない。弾かれたように、瑠黎の真剣な表情を見上げる。
「まだ入っていません」
毒味はこの部屋でされ、別室にいる雪那の許に運ばれる。そのため雪那は目撃しておらず、まだ耳にも入れられていない。
すかさず、わたしは瑠黎に真剣な声音で囁く。
「それなら耳に入れないようにして」
「それは」
瑠黎はわずかに眉間に皺を寄せる。瑠黎の言いたいことは分かったから、先に言う。
「彼が知る必要のないことだと思っているわけじゃない。今、悪いことを耳に入れるのを避けたいの。命を狙われるって普通経験しないことよ。その恐怖は、雪那が少しずつ前向きになってきている今邪魔にしかならない」
せっかく一歩ずつ前に進めるようになったのに、もう二度と立ち上がれなくなってしまうかもしれない。恐怖は、容易に他の感情を飲み込んでしまう。
「……分かりました。私が可能な範囲では力を尽くしましょう」
受け入れてくれた瑠黎に、わたしはほっとして、ありがとうとお礼を言った。
雪那の様子を見に行きたいのは山々だったが、当番が終わったわたしが顔を出せば、雪那が不審に思うかもしれない。
毒味役が食べた料理を聞き、机の上にあるそれを注意深く見てみたが、見た目にはさすがに毒が入っているようには見えなかった。ただ、酸っぱい料理なのかつんとした匂いの中に、微かに鼻をつく匂いがした。
「ちょっと聞いていい?」
次に、部屋から出たばかりの廊下で、室内を怖々と見て身を寄せ合っている女官に声をかけると、二人の女官が強張った顔でわたしを見た。それぞれ、容藍、珠香という名の十六歳の娘だ。雪那の側に仕える者の名前と顔はわたしも把握していて、話したこともある。
「料理が厨房から運ばれてから、ずっとここにいたわよね」
「は、はい」
容藍は声を上ずらせ、わたしが出て来たばかりの部屋にちらりと目を向けた。
「誰か、料理に触れたり、何か入れるような動きをした人を見かけなかった?」
「ここにいたのは知っている者ばかりです! 誰かが毒を入れたなんてこと……」
容藍は青ざめた顔で、頭を振った。
「本当に知っている人だけだったのね? ここで見たことのない人はいなかった?」
「それは……」
「いなかった、と思いますが、……私達も気をつけて見ていたわけではありません」
口ごもった容藍の代わりに答えるように、珠香が言った。しっかりした印象の女官だが、彼女の顔も青ざめて声が震えていた。人が死んだのだ、動揺するのは当然だ。
「後で何か思い出したことがあったら教えて」
誰か一人でも何か見ていないかと焦る心を必死で抑え、居合わせた者達に同じような質問をしてはそう言い残して回ったが、不審な動きをしていた人物を見た人間はいなかった。
結局何も分からず、一旦神子の宮に戻ろうと一人になったところで、こみ上げる感情に人気のない廊下の隅で思わず顔を覆う。
──どうして、雪那の命を奪おうとするの……!
弟をどこかの部屋に隠してしまいたい感情に駆られる。けれど彼は王だから、そうするわけにはいかない。いや、そもそも王でなければ命を狙われることなんてなかったのに!
一度王に選ばれてしまえば、王になる道しかないから、と見ないふりをしていた感情が溢れ出してくる。なぜと神に問いたい。なぜ弟を王に選んでしまったのか。理由があって王に選ばれることは知っているけれど、本当はいつも頭のどこかで思わずにはいられない。あの子に元の人生を返して欲しい──。
『花鈴様』
蛍火の落ち着いた声がして、乱れていた思考から、意識が引き戻される。どこから声が、と一瞬思って、胸元に仕舞っている鏡からだと気がつく。近くの誰もいない部屋に入り、鏡を取り出すと蛍火が映っていた。
「途中で放り出してごめん、蛍火」
蛍火に心配させないように、焦りを胸の奥に押し込んで表情を取り繕ったが、蛍火はぴくりと眉を動かす。
『……西燕国王の毒味役が死んだようですね』
どうやら瑠黎との話をしっかりと聞かれてしまっていたらしい。わたしは取り繕うのを諦め、「うん」と低い声で言う。
「誰があんなことを……」
気持ちを無理矢理落ち着けても、怒りを拭い去ることはできなかった。
雪那を殺す理由のある人間──雪那を良く思っていない人間の仕業だと考えると、雪那を王と認めていないかのような態度を取る派閥のことが思い浮かんだ。
ただの臆測で、証拠はない。もっと大事になる前に、証拠が見つかって首謀者が捕まればいいが……捕まるだろうか? わたしが部屋の周囲の者に話を聞き回っていた一方、刑部の者が現場を取り仕切っていた様子を思い、いや期待できないと内心首を振る。
即位式が近いから暗殺を企てたのだとしたら、傍観している場合ではない。
『まさかとは思いますが、ご自分で調べようなどとお考えではありませんね?』
考えを固めたところで言い当てられて、思わずびくりとする。
「そのまさかだとしたら?」
『やめてください』
蛍火が厳しい表情で即座に言うので、わたしは「どうして?」と首を傾げる。
『王の暗殺未遂ともなれば、然るべき者達が仕事をするでしょう』
蛍火の指摘に、わたしは首を横に振る。
「蛍火、今のこの王宮の状態でどれほど彼らが信用できると思う? 実際、毒味役が死んだ現場で彼らはその場にいた者に何も状況を確かめることなく、いいのかと確認したわたしに『毒が盛られていた料理に関わった者は捕らえましたから、大丈夫ですよ』って言ったのよ」
調査しようという気が感じられなかった。
「これから万が一調査に動いたとしても、首謀者が地位のある人間である可能性を考えれば、妨害されると思った方がいいわ。今の王宮は、王のためにまともに動いてくれる者がいるって期待できるような状態じゃない。たとえ犯人が捕まったとしても、本当の犯人か疑いたくなる状態よ」
蛍火は頭痛でも堪えるように額に手をやり、『どうしてそんな状態なのか……』とぶつぶつ言っている。
『それで、具体的にどうなさるおつもりですか?』
「そうね……まずは毒の入手経路から辿って、駄目だったら怪しい人間を探ってみようかと思ってる」
怪しい動きをしていた人物の目撃証言があればいいが、先ほどの感触では難しいだろう。
「動機があるとすれば、雪那を王と認めていない憲征殿の派閥……そういえば」
彼らと親しい貴族が、まだ首都に到着していないという話が今になって気になった。怪しもうとすれば全てが怪しく見えてくるものだ。考えすぎであればいいが、少し気になる。
「病欠で首都に来ていない者が四人いるから、念のため彼らが本当に病気なのか調べておきたいけど……」
王宮内だけならまだしも首都外までとなると馬を使ったとしても時間がかかりすぎる。かといって他に協力を頼める者もいない。
『では、そちらを花鈴様がしてください。王宮内の調査は私がします』
「え? どうして蛍火がするの?」
頭を悩ませていたところで、思いがけない言葉が聞こえてきたではないか。発言の意図が分からず、鏡の向こうの蛍火を見つめる。
『毒殺が謀られるような危険な場を、あなたにうろうろさせるわけにはいきません』
「危険な場を蛍火にうろうろさせる方がよくないわよ。大体、わたしが狙われているわけじゃないから、わたしが危険な目に遭うことはないわ」
『私は、万が一にでもあなたを死なせたくありません』
強い口調で言われた。黒い目に浮かぶ感情はわたしの発言への少しの怒りと、それから。
思わず、言葉もなく鏡の向こうを見つめると、蛍火はばつの悪そうな顔で目を逸らした。
死なせたくない──わたしは一度死んでいる。かつて蛍火と長く時を過ごした『睡蓮』は死んだ。
前世の死に際に見た蛍火の表情を思い出した。蛍火はいつも冷静で、千年間、動じた様子を見たことがなかった。そのときも彼には自覚がなかったのかもしれない。わたしだけが見た表情。あのとき、蛍火は泣きそうで、今にもくずおれそうな表情をしていた。手を伸ばして、大丈夫だと伝えたかったけれど叶わず、前世でわたしはそのまま死んだのだ。
蛍火はあのときと同じ目をしていた。
「蛍火」と呼ぶと、目を逸らしていた彼がこちらに向き直る。わたしは、蛍火を安心させるために微笑んでみせた。
「わたしは、雪那を死なせたくない」
先ほどまで胸の中で渦巻き、燻っていた感情が、再び落ち着く感覚がした。なくなったわけではない。けれど、感情に揺さぶられることはなくなった。
王になる弟のために力を尽くすと決めた。彼が俯くのなら前向きになれるように言葉をかけ、彼が命を狙われているのなら阻止するのだ。
「狙われているのはわたしじゃなく、雪那よ。それにわたしが王宮でしたいことは調査だけじゃない。蛍火、あなたは三年、わたしにここで力を尽くす権利をくれたんでしょ?」
蛍火はますます眉を顰めた。そして、十数秒の沈黙の後、口を開く。
『何が狙われているのは自分ではない、ですか。どうせ、自分の命が狙われていたとしても決めたことは譲ろうとしないでしょうに。あなたは手の届く面倒ごとに、ことごとく手を伸ばす』
蛍火がため息をついた。さすが蛍火、よく分かっている。
「蛍火も、結局理解して許してくれるでしょ?」
蛍火がじろりと睨んでくるが、わたしは微笑んで受け流してやる。
「ということで、わたし一人で大丈夫だから」
改めて宣言した、のだが。
『馬鹿ですか?』
突然罵倒され、わたしは戸惑って目を大きく瞬く。
「馬鹿って何よ」
反射的に一言文句を言うが、蛍火は呆れた顔をした。
『私の心配と花鈴様が一人で調査を行うことはまた話が別です。なぜ一人で調査する前提なのです?』
理解に苦しむ、といった風に蛍火は言う。
「失礼ね。蛍火に頼むわけにはいかないわ。蛍火は内界をまとめる神子長だし、神子にしてもらった時点で十分協力してもらった。それ以上は頼みすぎよ」
『頼みすぎかどうかは私が決めることです。そして私はそうだとは思いません。花鈴様、困ったことがあるのならもっと頼ってほしいのですが』
「でも……」
わたしは躊躇うが、それ以上言う前に蛍火が続ける。
『首都外も含めるとなれば、一人では手に余るでしょう。私に申し訳ないと思っているのであれば見当違いです。今あなたにはもっと気にするべきことが他にもあるでしょう? ここまで言えば、どうすることが最も良いかお分かりですね?』
確かに雪那の側をあまり離れたくないのが本音だ。それら全てを汲み取り、蛍火は手伝うと言ってくれているのだ。
「……蛍火、首都外にいる貴族の調査をお願いしてもいい?」
蛍火は満足そうに微笑み、鏡の向こうで一礼する。
『承りました』
するべきことは決まった。わたしは表情を引き締める。
「雪那の命が狙われている以上、事は一刻を争うわ。雪那の即位を阻む目的なら、きっとまた命を狙われるはず」
『即位式まで、あと一月を切っていますから、それほど時間はありませんね。……そろそろ即位式に向けて他国の使者がやってくる頃ですか』
「そうね」
いくつか今後のことを取り決めて、蛍火との通信を切った。
まずは王宮内で調査できる時間を作るために瑠黎の協力を取りつけよう。一刻も早く雪那のために解決を、と気合を入れる。
けれどそれから七日経っても事態は一向に進展をみせなかった。