各国の使者を迎える準備が進む謁見の間を眺めながら、わたしは一人ため息をついた。
あれから毒の出所を探るため地道に聞き込みを続けたが、ついに進展と言える進展が何もないまま、使者を迎える日が来てしまった。
この数日で分かったことといえば、使用された毒の種類くらいだ。毒味役の女官の死体を検めた検死官の話によると、独特の鼻をつく匂いから、毒自体は砒草という植物から取れる即効性の高いものと判明したそうだ。入手が難しく、解毒剤にも今は流通していない植物が必要なため解毒はほぼ不可能だという。
しかし犯人特定につながる情報はなく、厨房や当日の現場に居合わせた者達からも有力な情報は得られなかった。
それでもなんとか明日には、毒味役死亡の件で投獄されている者と会えることになったので、何か情報が掴めればいいのだけれど……。
「では陛下、決まったお言葉だけをかけてくだされば問題ございませんので、くれぐれも失態はされませんよう」
耳に入ってきた言葉にそちらに目を向けると、憲征が小声で雪那に言い含めていた。
いよいよ使者との謁見が始まるらしい。わたしも気を取り直して、背筋を伸ばす。
謁見の間の最奥、階段の上の玉座には雪那が座し、右手には瑠黎が控えている。階段下には神子が並んでおり、わたしもその中に紛れるようにして立っていた。
神子から五人分程度の空間を空けた反対側には重臣が、壁際には衛兵と女官が規則正しく並び、仰々しい様子だ。各国の使者達は、順にこの謁見の間に通される。
玉座に座る雪那は、見るからに緊張した空気を醸し出していた。初めて、他国の公的な地位にある者と会うのだから、無理もない。
雪那を見守りながら、わたしは懐かしさを覚える。前世のわたしが即位した際は、不安を押し隠して、背筋を伸ばして今雪那が座っている玉座に座っていた。少しでも力を抜けば震えそうになる手を握り締めて、使者を呼び入れるが良いかという重臣の問いかけに、硬い頷きを返したのだ。そうして、一層高まる緊張と闘っていた──。
「恒月国の使者ご一行をお迎えいたします」
扉の近くにいる者がはきはきとした声で告げた言葉に、我に返った。
謁見の順番は、王の在位年数が長い順だ。
恒月国──現在存命中の王の中では、最も長い時代を築く王が統治する国だ。農業や漁業は普通だが、商業が盛んで、工芸などのより質の高い物を売るための技術が際立っている。他国との貿易に積極的で、近隣諸国の中では群を抜いて栄えている。様々な国の技術や文化が入り交じり、国内の建物等が独自の変化を遂げているのも特徴だ。
前世でわたしがお世話になり、一番関わった国でもある。
最後に見た恒月国の景色を思い出す。変化を好む『彼』の治める国だ、二百年も経てばきっと景色は変わっているだろう。
漆黒の髪に、誰よりも強い意志を感じさせる紫色の瞳。
不意に思い浮かんだ姿に会いたいと思ったけれど、会いたくない、と相反する思いがすぐに顔を出し俯いた。
どのみち、会いたいと望む資格なんてわたしにはない。
恒月国の使者一行が謁見の間に入り、雪那の許に進み跪く。その様子を懐かしさと寂しさを感じながら眺めていた──のだが、ふと使者の中の一人に視線が吸い寄せられる。
よく見えないが、服装は恒月国の高官の一人といったところか。使者の代表は先頭にいる者だが、一行の半ばにいるその人物からなぜか目が離せなくなる。俯いているため、茶色の髪くらいしか窺えないが……。
顔を上げるようにという重臣の一人の声かけで、使者一行が全員面を上げる。わたしが何気なく見ていた者の顔も控えめに上がり──わたしは息を吞んだ。
現れた瞳は、鮮やかな紫色だった。無表情でいると見る者に威圧感を与えるほど、凜々しく整った顔立ち。
紫苑だった。染めているのか鬘なのか、茶の髪からは予想できなかった人物の登場にわたしは大きく目を見開き、凝視した。
そしてほぼ同時に、無視できない存在に気づいた者がいた。
「……恒月国王?」
思わずといったように声をこぼしたのは、雪那の側で控えていた瑠黎だった。
瑠黎の声は、静寂が保たれていた室内ではよく響き、一気にざわめきが広がっていく。使者が前を通り過ぎても、真っ直ぐ前を見たまま微動だにしなかった者、顔を伏せていた者も含め、誰もが恒月国の使者一行を見た。特に、瑠黎が見ている男を。動じなかった者はたった一人だった。
「いえいえ、ここに王がいるはずがありません。この人は──」
「宗流、いい」
紫苑の隣にいた男が立ち上がり前に出てきて誤魔化そうとしたが、紫苑がその肩に手をかけ、下がらせる。
「瑠黎、なかなか目がいいな」
この場の全員の注目を集めていることなどまるで意に介していないように、彼は笑った。
直後、場が慌ただしくなる。使者の中に王がいるなどと聞いていないのだから当然だ。他国の王ともなれば最上級の待遇で迎えねばならないが、宮の準備は整っていない。
だが、きっとこの瞬間、西燕国の誰よりも動揺していたのはわたしだろう。まさか、こんなところで再会するなんて。
「西燕国王、突然の訪問となり申し訳ない」
進み出て来た紫苑が、玉座に向かって声をかけると、雪那がびくりと震える。
「恒月国王──」
雪那は何とか受け答えしようとしたが、言葉が上手く出てこないようで口をぱくぱくさせる。謁見で使者にかけるお決まりの言葉は毎日練習していたが、予想外の展開だ。
雪那が困ったようにわたしを見るのが分かる。そして、そんな雪那の視線を追って、強く澄んだ紫の瞳がわたしを捉えた。
紫の目が驚きに見開かれ、その唇が「睡蓮」と、かつてのわたしの名前の形に動いた。
とっさに俯いて床を見つめる。それからどれくらいの時間が経ったか分からない。気がつけば恒月国の謁見が終わっていた。
次の使者が入室する前に、わたしは逃げるように足早に謁見の間を出た。紫苑に会うわけにはいかない。大体、即位式には王は来ないはずなのに、どうして紫苑がここにいるのか。思考はろくに回ってくれないが、とにかくぐずぐずせずに、神子の宮に引っ込んでしまおう。
今いる廊下を抜ければ神子の宮だ。もう入り口は見えていた。あと少しと安心して駆け抜けようとした直後、曲がり角にいるはずのない姿を見つけて足を止めた。
「どう、して」
紫苑が息一つ切らさず、衣服も乱さず、立っていた。まずい、とわたしは無意識に踵を返したが、ぐっと腕を掴まれる。
「どうして逃げる」
驚きと、焦りと、あと何かの感情が滲んだ声が言った。よく通る低い声に、体がびくりと跳ねた。
引き寄せられ、眼前に迫った目と目が合い、わたしはまた動けなくなる。その眼差しは、わたしに逃げることは許さないと告げていた。強い意志と感情を宿しているときほど、鮮やかさを増す綺麗な紫の瞳。
「本当に、睡蓮なのか」
紫苑の目に惹きつけられていたわたしは、前世の名前で呼ばれて我に返る。ろくに動かない頭を懸命に動かし、この状況での最適解を絞り出した。気づかれないように小さく息を吸う。
「恒月国王様ですね。どなたかと間違われているようですが、わたしはこの国付きの神子の花鈴、と言います」
表情筋全てを総動員して微笑み、目を逸らさないように紫の目を見て、首を傾げる。こうなればしらばっくれるしかない。
ごめんなさい、紫苑。今世ではあなたに関わる気はないの。それに、わたしはもう睡蓮じゃない。だからこそ、もう同じ立場で話すことはできない。
「な、にが間違いだ」
紫苑は、吐き捨てるように言った。表情が険しくなる。
「その顔、声。何よりも逸らすことを許さないその澄み渡った眼差しを俺は知っている。どこが違う」
あまりにも真っ直ぐ向けられる瞳に心がざわつく。けれどそんなことはおくびにも出さず、わたしは鉄壁の笑みを貼りつけて淡々と返した。
「そう言われましても、わたしはあなた様とお会いしたことなどありませんので。どなたか、お知り合いと似ているのかもしれませんが、人違いではありませんか?」
他人の空似だと、欠片くらい疑ってみたらどうなのか。
しかしどんなに頑なに否定しても、やはり紫の瞳は一切揺らがなかった。そんな様子に苦い気持ちと懐かしさがこみ上げる。鋭い直感も、自分に自信があるところも──紫苑は、本当に変わらない。
「人違い? 俺も死んだ人間が目の前に現れれば普段なら他人の空似だと考えるだろうな。だが、今、お前を前にして別人だとは欠片も思えない。どうしてそこまでして否定する、睡蓮」
──やめて、お願いだからその名前で呼ばないで。
紫苑に前世の名前で呼ばれる度、心が揺さぶられる。前世に置いて来た感情が、引きずり出されるような気がして、苦しい。
わたしは花鈴。睡蓮は死んだ。紫苑とは関わらない。……揺らぐな、貫き通せ。でないと後悔する。
「人違いです」
声を振り絞り、真っ直ぐに目を見返して、わたしは同じ言葉を繰り返した。
瞬間、腕を掴む力が強まった気がした。そして、紫色の目に怒りとも悲しみともしれない複雑な色が浮かぶ。その目に気をとられていると、体がぐっと重くなる。水鏡を通り抜けて西燕国に来たときと似た感覚に、はっと顔を上げた。
「……待って!」
神秘の力を使うつもりだ……! だが、わたしが悟ったときにはもう遅かった。
◆ ◆ ◆
続きは本編でお楽しみください。