早速次の日から神子としての生活が始まった。
国付き神子の仕事は、即位式や内界が絡む儀式の取り仕切り、内界や時には各国に繋がる水鏡と祭壇の管理など多岐にわたる。中でも最も重要な仕事は、国の地下の特別書庫に保管される記録作りだ。この記録とは、派遣された国で起こった重要な出来事──内乱、王の暗殺未遂等も記すが、特に国を作る王の行いを重視して記す。神が選んだ人間の統治者が、いつ、どのような判断を下し、それが国をどのように変えたのか。人柄は記さず、ただ国の変化の事実だけを記すという。
神子は、派遣された国の王に仕える形を取るが、彼らは決して王の臣下ではない。仕えるのはあくまで神であり、神の代理人として、神が選んだ王の時代を見届ける。神は神子を通して、王を見る。そのため、王が活動している時間帯は必ず一人は神子が側に控えることになっている。
わたしが与えられた仕事は主にこの、王の観察とその記録だ。事情を知る瑠黎による采配だが、わたしが来てから雪那が失踪しなくなったというのも大きいのだろう。雪那や周囲の様子を把握できるのはありがたい。
「なぜ、他国との国交はなくなってしまったんだろう? 王が不在だったから?」
わたしが王宮に来てから早五日。勉強部屋で、真剣な顔つきで教師の老人の話を聞いていた雪那が言った。
「陛下もお察しの通り、先々代王、千年王の時代にはいくつかの国との国交がありました。国交は、三つの機会を経て途絶えることになったと言われています」
教師は三本の指を立てる。
「まず一つ目が、千年王が崩御した際、二つ目が王不在の百年間に、国交のあった国の方から切られたと言われています。大抵は五年もあれば次の王が選ばれますが、我が国は違いました。王のいない国は衰える一方ですから、見限られたのでしょう。そして最も決定的だったのが三つ目で、先代王の政策によるものです。先代王は農民の地位を向上させるため、自国の中で需要と供給全てを完結させようとなさったそうです。他国からの輸入なしに自給自足をするために、最も欠いてはならないものが食料で、それを作っているのはもちろん農民です」
雪那の表情がわずかに曇る。役人を目指し勉強していた彼には、その考えがどれほど愚かなことか分かったのだろう。
「政策は失敗に終わり、国を乱したことから先代王は討たれました。ですが、その政策による影響は今も尾を引いています。一度こちらから切ってしまった他国との繋がりは、次の王が立たなかったこともありこの百年そのまま切れた状態です」
そしてそれ以来、初めて立つ王が雪那だ。その縁を取り戻すも切ったままにするも雪那次第、と教師は言外に言った気がした。
わたしは、雪那の横顔が窺える位置の壁際で、ひっそり授業風景を見守っていた。雪那は学校に通っていたとき、こんな表情で授業を受けていたのかもしれない。再会したときの様子と比べると随分落ち着いて来たようでほっとする。
と、完全に弟の授業見学の気分になってしまっていたところで、気を取り直す。
記録係をやってみて大変だと思うのは、記録すべきか判断に迷う出来事が起こった際にその全てを記憶しておかなくてはならないことだ。彼らは、担当の時間を勤め終えたあと、神子の宮で記録を行う。時には、国の情勢が変わったきっかけとして何年も前の出来事を遡って記録することもある。
前世わたしが王であったとき、いつも蛍火が側にいた。治世の半ばからの記録はほとんど蛍火がしていたのではないだろうか。
前世で蛍火が同じような景色を目にしていたかと考えると、少しだけ思うのだ。わたしの治世の後半、蛍火は何を思い、何を記したのだろうかと。
「疲れた?」
授業の時間が終わり、雪那に声をかけると、雪那は首を横に振る。
「学ぶことは好きだから」
調子が戻ってきたようで、良かったと微笑む。勉強も概ね順調で、取り立てて問題はなさそうだ。
「じゃあ、次は会議ね」
次の予定を口にした瞬間、雪那の表情が曇った。何が雪那にそんな表情をさせたのか、その答えはすぐに分かった。
〇 〇 〇
現在の雪那は正式な即位前ではあるが、すでに全ての最終的な決定権を持っている。多くの決裁書類への署名をしなければならず、国の在り方を決める会議へも出席しなければならなかった。
会議は無難な議題から始まり、自然ともうすぐ執り行われる即位式の話に移る。
即位式は、国付きの神子が九割方仕切る。ただの人間が内界に行き、神に拝謁し、王という人とは一線を画する存在に生まれ変わる特別な儀式は、内界の領分だ。だが、王が国に戻ってから行う即位式と前夜の宴の準備は国と協力して行う。
「ところで麓進殿が親しくされている延史殿がまだいらしていないとか。もう即位式まで一カ月を切っているというのに」
財政を管理する戸部の長官である文耀が、いかにも心配しているといった口調で口火を切った。即位式に向け国内の貴族が一カ月前には全て集まるはずが、いまだ王宮に着いていない貴族がいるらしい。「そういえば琅軌殿も来ていない」などと、合計四名の名前を出した文耀に、引き合いに出された司法を司る刑部の長官・麓進が不快そうに顔を歪めた。
「それが何か?」
麓進の気のない返事に、場の雰囲気が一気に悪くなった。
「このまま間に合わないようであれば大問題では? ──陛下」
文耀が、部屋の一番奥に座する雪那に話題を振る。
「即位式には他国の使者も訪れます。万が一自国の貴族が揃っていないと知られれば、陛下が臣下を御すことができていないのだと判断されてしまうでしょう。そうなれば、他国との溝は深まるばかりです。そのようなことになる前に、即刻強制召集をかけ、間に合っても間に合わなくとも厳罰に処すべきです」
雪那は困った顔をして、すぐには判断が下せない様子だった。
「待たれよ」
麓進の隣から憲征という国の祭祀や他国との外交を担う礼部の長官が、厳めしい顔をして雪那を見る。
「陛下はこのようなことが判断できるほど、政治のことも王宮の規律の在り方に関してもお分かりではないでしょう。元は農民ということもあり、決裁書類への署名一つをとっても、まだ一つ一つ物事をお聞きになっている状態と存じます。内情を知りもせず、軽々しく臣下を罰するものではありません」
「無礼ですぞ、憲征殿。出身はどうあれ王。判断は陛下にしていただくのが道理でしょう」
「その判断を誤れば、先代王のようになるのだ。特に陛下は先代王とご出身が同じであらせられる」
三人の臣下が語気を強めに話し合っているが、睨み合っているのは彼らだけではない。それらのやり取りを見ていたわたしは、これが雪那が萎縮している原因かと眉を顰める。
瑠黎によると、この国には現在、雪那に対しての態度として二つの派閥があるという。一つ目は、甘い汁を吸うために雪那が頼りない王であってくれた方がいいと考える文耀派。二つ目は、農民出身の雪那が王に相応しくないと考える憲征派だ。
文耀派は、一見すると雪那の王としての体面を思っての物言いに聞こえても、違うのだ。他の臣下より有利な立場に立とうと、王の発言を誘導しようとしている。
もう一方の憲征派は分かりやすく、今のように丁寧な口調で正論を言っているように見せかけ、雪那の出身を引き合いに出して、判断を任せるべきではないと主張する。
雪那を真に王として扱っていないのは同じだが、二つの派閥の意見は事あるごとにぶつかり合い、会議が中々進まないのが現状らしい。今も敵対派閥の人間を蹴落とす機会を互いに虎視眈々と狙っているように見える。
二つの派閥の対立に、雪那は困った様子を隠し切れていない。期日を越えても到着しない臣下は罰するべきだが、罰の線引きは慎重にしなければならない。
不安そうな雪那と目が合い、わたしは微かに頷く。すぐに結論を出せないときは、臆せずに一度仕切り直して、判断は次の機会にと伝えるのも手だと先日話したばかりだった。
意を決した雪那が、静かに息を吸い、口を開いたとき。
「まあまあ、落ち着かれよ、両人」
雪那が言葉を発する前に、別の臣下が声を上げた。雪那に判断を任せるよう提言していた文耀が不服そうながらも口を閉ざす。一方、憲征は、
「叡刻様」
とその男の名前を呼び、同じく口を閉ざした。
「その者達のことだが、体調が優れないようで、首都へ来ることを控えているそうだ。どうやら一人から風邪のようなものが移ったようだと言伝があった。病を王宮に持ち込むわけにはいくまい?」
待ったをかけた臣下は叡刻という。どちらの派閥にも属さない彼は言い争う者達の上に立つ宰相だった。彼は二人の臣下に笑顔で言い、雪那に対して恭しく頭を下げる。
「わざわざ陛下が懸念されるような話ではございません。病が治り次第参るようにさせますので、今はどうかお許しください」
その言葉に、雪那は少し考える素振りを見せた後、「分かった」と叡刻に首肯を返した。病であれば仕方ない、と判断したのだろう。
ひとまずそれ以上議論が白熱することはなく、ほっとする。いつもこの様子なのであれば雪那の心労も重なるばかりだろう。
本当に雪那には味方がいないと実感して、ため息をつきそうになった。これでは雪那が自信をなくすのも無理はない。雪那にも、前世のわたしにとっての蛍火のように絶対の信頼をおける存在がいたらいいのに……。
夜、神子の宮にある記録をつけるための部屋前の廊下で瑠黎を待つ。瑠黎は、仕事終わりに必ずこの部屋の前を通る。飾られている白い花を眺めて待っていると、昨夜見た夢をぼんやりと思い出した。
『睡蓮は、本当に花が好きだな』
優しい声が、耳に蘇る。
「花鈴?」
その名前に、物思いに沈んでいた意識がはっきりとする。左手の方に目をやると、瑠黎がいた。
「まだ残っていたのですか、何か今日中にしなければならない仕事が?」
「いえ、瑠黎様を待っていました。少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
「構いませんが……」
もう夜も遅く、神子は各々の部屋で就寝している。瑠黎は他に人がいないと把握するや、控えめな声で「あの……」と言う。
珍しい。いつも微笑んでいる蛍火とは対照的に、無表情が標準装備の瑠黎は、少し困ったような表情を浮かべていた。わたしは「何でしょうか?」と首を捻る。
「それです。丁寧にして頂いている手前恐れ入りますが、できれば人の目がないときには呼び方と話し方を気楽にして頂けると……」
とても歯切れ悪く、瑠黎が言うではないか。
神子としての生活を始めてからは、ぼろが出ないように「瑠黎様」と呼び、話し方も立場相応にしていたのだが、瑠黎にとっては居心地が悪いらしい。蛍火も同じようなことを言っていた。
「分かった。瑠黎、今日もお疲れ様。お茶淹れるから、飲みながら少し話さない?」
「私が淹れます」
「まあまあ、わたし淹れるの上手いから。それにわたしが巻き込んじゃったせいで、瑠黎には本当ならかからなかった手間をかけさせてるもの」
笑顔で押し切ったものの、瑠黎はただ座っているのも落ち着かないらしく、お茶を準備しに行くわたしについてくる。蛍火なら「そうですか」と悠々と座って待っているところだ。
「瑠黎と、一度落ち着いて話をしてみたいと思って」
一室に入り、お茶を飲み一息ついたところで話を始めると、瑠黎が茶杯を置き心なしかより姿勢を正す。
雪那の味方になり得る人物として、最初に思いついたのが瑠黎だった。
筆頭神子は、王の臣下ではないが王の最も近くにいる存在だ。かつて蛍火がわたしを支えてくれたように、彼が雪那の味方になってくれれば心強い。けれど、瑠黎は雪那をどう思っているのだろう。
王に無関心な神子もいるが、彼はきっとその類ではない。前世、一国の王と内界の神子という関係で顔を合わせていたとき、無表情とは裏腹に、瑠黎は挨拶だけでなくわたしと雑談もする仲だった。
では今、雪那に対してはどうか。わたしが神子としてこの国に来た日、雪那について聞いたとき彼は言葉を濁した。あれは、雪那の現状が思わしくなく、姉であるわたしに言うのを躊躇ったからだ。でも、あのとき瑠黎は状況を口にしただけで、彼自身の考えはまだ聞いていない。
「瑠黎は、今のこの王宮の状態をどう思う?」
臣下が王を侮り、王が実権を握れていない王宮についてだ。瑠黎は少し考える素振りを見せて答える。
「即位前から不穏な状況です。花鈴様は当然ご存じかと思いますが、王が長い時代を築くには、臣下を始め民に認めてもらわなければなりません。かつて似たような状況の国で国付き神子をしたこともありますが、ここまで王が蔑ろにされてはいませんでした。今の西燕国は王にとっては治めるのが難しい環境だと思います」
瑠黎の答えに、わたしは「うーん」と内心唸る。これは、もう少し突っ込んで聞いてみるべきだろうか。
「瑠黎は、雪那のことをどう見てる?」
瑠黎は唐突な問いに「どう、と言われましても、まだ陛下のことをそれほど存じ上げていません」と真面目な答えを返してきた。
「存じ上げなくても、印象はあるでしょ?」
促せば、瑠黎はまた考える様子になる。さっきより時間が長い。
「そう、ですね……。周りの臣下の態度を覆すには、少々、気が弱くていらっしゃると感じますので、そのご気性が邪魔をしそうだと思います。おそらく……」
「長い時代を築くのは難しそう?」
わたしは微笑んでいたけれど、瑠黎はわたしを見て、気まずそうに目を逸らした。現在の王宮について話していたときは単に事実を話しているつもりだっただろうに、わたしに対して、弟の時代は長く続かないと言ってしまったようなものだ。
これから雪那が現状をひっくり返していくのだから、わたしに対して申し訳なさそうにする必要なんてないのに。ただ、これではっきりしたことがある。
「わたしは気にしてないから大丈夫。だって、瑠黎がそう思うのは雪那自身を見た結果というより、これまでの歴史からそう推測できるからでしょ?」
「……そう、ですが」
瑠黎は、わたしの話の目的が読めないのか、今度は若干困惑した様子になる。
「うん、そうよね。わたしが過去に見てきた感覚から言うと、筆頭神子は、王をどうせ最後には討たれる人間って冷めた見方をしてる傾向があるし」
わたしがさらっと言ったことに、瑠黎はわずかに目を見開いた。どうやら、図星だったようだ。
「それは……仰る通りかもしれません」
瑠黎はそっと目を伏せる。
「どの国の王も、──賢王と称えられ、民を正しく導いていた時期が何百年続いたとしても、最後には民を不幸にし、討たれる歴史しかありませんでしたから。特に筆頭神子になる神子はいくつもの国で、その終わりを必ず見ています」
王は、不老だが不死ではない。神は国に必要な王を選ぶが、王を守りはしない。選ばれた王が玉座に座り続けるかどうかを決めるのは民だ。
民に望まれない王はいずれ討たれ、死して玉座を空ける。そのような王の代替わりには、必ず理由がある。民にそうさせるようなことをしたのだ。
「そうね。ねえ、気がついている? 今瑠黎が雪那自身の印象として言ったのは、『気が弱い』だけ」
瑠黎は、はっとした顔をした。
「私が、陛下ご自身を見て判断していないと仰りたいのですか」
わたしの言いたいことが分かったようだ。わたしは深く頷く。
瑠黎は、雪那本人を気の毒に思っているのではなく、そういう状況だと理解しているに過ぎない。きっと無意識だったのだろう。けれど今からでも雪那自身を見てくれるようになったなら、雪那の味方になってくれる可能性は大いにある。
「推測が当たる可能性が高いことは理解しているわ。でも、本当はどうなるか分からないじゃない? 同じ王が一人もいないように同じ国は一つもないし、絶対に民を不幸にするとは言えない」
そうではないかと瑠黎の反応を待つ。瑠黎は何かを考えるように、しばらく目を閉じた。そして開いた瞳は、再度わたしを映す。
「そうですね、過去にたった一人だけいました。全ての国を含め、そのような終わり方を迎えなかった王が一人だけ」
注意深く見なければ感情が分かりにくい目は、そこになかった。ありありと、郷愁、憧れ、そんな感情が浮かんでいた。
瑠黎がそんな表情をした理由は分からなかったけれど、前世のわたしのことを言っていることは分かった。
「でも前世のわたしも、最初は今の雪那と同じだった。蛍火だって冷めてたし、わたしをいずれ討たれるような王になるって見てたと思う。言われたこともあるしね」
何と言われたのかと、問いかけるような視線と沈黙を受けて、わたしは教える。
「瑠黎は知らなかったかもしれないけど、わたしも元は農民で王になってね。雪那には多少の知識があったけど、わたしには学が一切なかった。勉強なんてしたことがなかったから。だから、わたしはがむしゃらに勉強して、少しでも早く使い物になるようにって必死だった。でも、中々上手くいかなくて」
当時を思い出して、わたしは苦笑した。即位した当初の、思い出したくもない苦労と苦難に満ちた日々を。
「『傍から見ていてみっともないほどに空回りしていますよ。自分の能力以上のことはできようがないのですから、潔く諦める方がいっそ清々しいと思うくらいです』……わたしには、遅かれ早かれ討たれるんだからって聞こえたかな」
そう言われて、虚しさと寂しさを感じた。臣下にも味方がいなければ、一番側にいる神子もそんな態度では仕方ないと思う。幸い、人の努力をみっともないとは何だという憤りが上回って、ますます勉強に熱が入ったのだが。もっと心が弱っていたときに言われていたら、心が折れて、わたしの時代は数年で終わってもおかしくなかった。
「蛍火様が、睡蓮様に、ですか? 想像できません」
瑠黎は信じられないといった様子だ。
「結局わたしが変わらず努力し続けていたら、蛍火が協力してくれるようになったの。わたしの粘り勝ちね。……そうやって、蛍火は結局千年側にいてくれた」
長すぎる歳月を共に生きてくれる存在が側にいると、それだけで支えになったりする。いくら臣下が入れ替わり、初めましてから関係を築こうと、神子だけは長く側にいて、一度築いた関係が白紙に戻ることもない。
「瑠黎に、雪那の味方になってほしいと言うつもりはない。神子にそんな義務はないし、神子だって一人の人間で、王との相性もある。過去にはそりが合わなくて国付きを辞めた神子がいることだって知ってる。でも、せめて推測じゃなくて雪那自身を見て判断してほしい」
神子の役目は、国の行く末を記すこと。けれど王の理解者にだってなれるはずなのだ。
そして、わたしは雪那が本当は強くて、今のこの国を変えていけるような考えを持っている子だと知っている。だから瑠黎が雪那自身のことを見てくれるなら、きっと心配はいらないだろう。
わたしが話を始めた理由を悟り、瑠黎は真顔で応じる。
「……心に留めておきます。私が陛下のことを知らないことは事実ですので」
「ありがとう」
この場はその言葉を聞けただけで十分だ。わたしは柔らかく、本心から微笑んだ。
「いいえ、お礼には及びません。私の方がお礼を申し上げたい気持ちです」
「どうして?」
瑠黎にお礼を言われるようなことなど全くしていない。むしろ結局こちらが要望したくらいなのに、と不思議な気持ちで瑠黎を見る。
「蛍火様が、筆頭神子として千年もの間睡蓮様に仕えていらっしゃったことを、当時の私はとても尊いことだと感じていました。それを今、思い出しました」
瑠黎は目を伏せ、過去を懐かしむような眼差しをした。そして確かに、微笑んだ。