一章②
「やはり睡蓮様ですね」
神子は、国付きと呼ばれ各国に派遣されている者以外は、内界と呼ばれる特別な地に住まう。特別と言われる
その内界へと、わたしは蛍火に連れて来られ、蛍火の私室だという部屋で
「……そうだけど」
油断していた。まさか王宮で蛍火に再会するとは夢にも思っていなかった。
各国の王宮には十人前後の国付き神子がいるが、王の崩御と共に全員国から去り、次の王の時代に向けて新たな神子が来る。だから不老の神子とはいえ、前世で国付きの筆頭神子だった蛍火はもう西燕国にいないと
「前世のことを覚えていらっしゃるのですか」
「わたしも驚いたと言うか、訳が分からないんだけど……
「……ええ、そうです」
蛍火は、
「しかし、まさか、再び睡蓮様と言葉を
呟き、にわかに蛍火は膝をつき、
「
「やめて、蛍火。頭上げて」
わたしはしゃがみこみ、深々と下げられた頭を上げさせ、見えた顔を
「わたしはもう王じゃない。蛍火がそうやって頭を下げる必要はないわ」
王であったわたしは死んだのだ。現在は、先ほどのようにわたしが
「……それは、そうですが」
「立って。ほら」
両手を取って、蛍火を引っ張る。大人の男を立たせるような力はないので、立ってともう一度言えば、蛍火は
「久しぶり、は久しぶりね。わたしにとっては十七年
生まれ変わって十七年。前世で死ぬときまで、ほとんど毎日顔を合わせていた
「蛍火にとっては──」
かつてのわたしが死んでから
「二百年ほど経ちましたか」
蛍火は、何でもないような様子で、わたしが言わなかった先を口にした。
外見の年の頃は二十代半ば程度に見える蛍火の全く変わらない容姿は、かつてのわたしが死んでから一日たりとも時間が経っていないかのような
「驚かせちゃったね」
「それはもう驚きましたよ」
「でも、蛍火はわたしが生まれ変わることは知っていたのね」
蛍火は前世を覚えているのかと聞いてきたが、わたしの存在自体に驚いたようには見えなかった。
「はい、世に言われていることがあるでしょう。人間は死ねばまた新たに生まれる、と。あれは本当ですよ。ただし前世の記憶は
「そう」
新たに生まれた理由は予想していた通りだが、記憶に関しては蛍火も分からないのか。
「それで今回の人生、いかがお過ごしでしたか」
蛍火は視線だけでわたしの姿を上から下までまんべんなく見た。わたしの
「国の
前世の
「ではなぜ首都にいらっしゃるのです? 先ほど正門で何やら
首都から遠く
「それは、事情があって……」
わたしは衛兵としたやり取りを思い出して、ため息交じりに答えた。
「弟が王に選ばれたから会いに来たんだけど、取り次いでもらえなくて」
「弟君が?」
蛍火は驚いた顔をした。
一方わたしは、あることを思いついた。蛍火に
とはいえ私的な理由で頼んでいいはずはないのだが、背に腹は代えられない。弟の様子は一刻も早く確かめておきたい。
「蛍火、再会したばかりですごく
「何ですか?」
蛍火が、
「王になる弟に、会えるように協力してほしい」
わたしは、
内心では緊張している。今のわたしはただの平民だ。蛍火は、知り合いとはいえ資格を持たない者を、立場を利用して王宮の奥に入れるような人間ではない。それでも、可能性があるのなら頼みたい……。
「会ってどうするつもりですか?」
「弟の現状を知りたい。あの子が今、どういう風に過ごしているのか。もしも困っているようなら助けになりたい」
「私が断れば、どうしますか」
衛兵に
「……時間がかかっても、
官吏になるためには、最低でも六年、専門の学校に通わなければならない。ただでさえ門戸が
前世で王の経験があり、その手の改革を行ったとはいえ、官吏の道は厳しい。
けれどどれだけ時間がかかろうが、大変だろうが、
その言葉を聞いた
「この国には、農民でも官吏になれる制度がありましたね」
「ええ。家族として会えないなら、その方法で会いに行くわ。それに弟が困っていたら、助けてあげられるもの」
昔は貴族しか官吏になる資格がなかったが、前世王であったわたしが変えた。
わたしに王として政治ができるのなら、もっと才能があり要領のよい者であれば農民でも官吏になったっていいはずだ。適性があるのならそれを発揮してもらった方がいい。農民に生まれたから、どんなに才能があっても死ぬまで農民であるべきというのは不平等だ。
そうして作り上げた制度は二百年経ったこの時代も健在らしい。どの程度わたしの知っている通りに機能しているかは
蛍火は今、その制度が
「……二百年前、最後にあなたの口からこう聞いた記憶があります。『
二百年前に死に
「それは、王にならないというだけでなく、かつて送るはずだった人生を思い
蛍火の問いかけに、わたしはふっと
「だからよ、蛍火」
わたしは、
「確かにわたしは今普通に生きたい。前世と似たような
弟のことがなければ、王宮に近づきたくなかったのも本音だ。たくさん笑った思い出もあるけれど、思い出したくない
だから、弟が王に選ばれていなければ、大切な家族である弟の幸せを見守りながら年を取り死んでいく、そんな人生を送っていただろう。
「でも、弟が王に選ばれた。今弟が困っていて苦しんでいるとすれば、わたしだけ村でのうのうと生きることなんてできない。弟に会いに行けて、助けになれるなら、わたしはわたしの望みを曲げても構わないわ」
衛兵から聞いた話の
農民出身で王宮に顔見知りは当然おらず、
「あなたは、相変わらず『家族思い』でいらっしゃる……」
蛍火が、苦いものでも食べたような声で
「わたしは、弟に幸せに生きてほしいの。
たった一人の大切な家族だ。幸せに生きてほしいと思う。王の道の厳しさを知っていれば、同じ思いをしてほしくないと思うのは当然だろう。わたしの
「王の側に連れて行って差しあげます」
「ありがとう!」
ただ、蛍火がすぐに
「でも、本当にいいの? 蛍火に得はないでしょ?」
「もちろん、条件があります」
やはり、無条件とはいかないか。わたしは居住まいを正す。
「あなたには神子の印をつけさせていただきます。代わりに、もしも弟君が本当に助けが必要な状況だった場合、神子として側にいることができるようにしましょう。ただし、それも期限は長くて三年程度。その間に王の側につきっきりでいなくてもよくなるように準備をしてください」
前半の内容も気になったが、三年という指定にわたしは
「それはありがたいけど、三年は短すぎる。それなら自分で官吏になって会いに行って側にいるわ」
「官吏になってどうするのです? 王経験者が官吏になり、政治に
「そこまで手を出す気は──」
「何より、できるだけ早く会いたい理由があるのでは?」
それは、そうだ。六年を挟むより、今すぐ様子を見に行きたい。
「それなら家族として時折会えるように三年で整えればよろしい」
「そうは言っても……」
もう少し長くならないかと
「……ねえ、そもそもわたし、神子になれるの?」
王は
「今の睡蓮様には神秘の力はありませんので、正式な神子になることは
ではどういうつもりかと、わたしは目で蛍火に問う。
「神子にするというのは神子の印だけつけ、
「……老いを
蛍火から
官吏にならずに、神子に成りすまして側にいるようにと蛍火は言う。かつては別の時代を築いていた者が今の時代に深く関与するのは、神子としては望ましくないことなのだろうか。
神子は記録者だ。元王であるわたしの政治への関与は、他国の王に助けられるのと同様には見られないのかもしれない。
「じゃあ、それでお願い。……でも、神子の印をつけるっていう条件はどういうことなの?」
「睡蓮様、あなたは死ぬ直前に私と
「……覚えているわ」
「そのとき知った内容を、神子
蛍火は、真剣な表情で言う。
「それは……軽々しく言えるような内容じゃないって分かるけど、神子の印とどう関係があるの?」
「神子の印は、神子が神と
神が、それは他言してはならぬことだと定め、蛍火の口を
「分かった」
どうせ
「では
「? うん」
「神子の印を刻みます」
服に
理由が分かって、蛍火と同じように左肩の辺りまで服を下げると、蛍火は自らの服を直し、わたしの肌に
「ここでできるの?」
「神に代わり印を
そういえば、内界に移動して来たとき、
神子長とは、神子の中で一番上の地位に当たる。前世では西燕国の筆頭神子だった蛍火は、わたしの死後、内界に
「青?」
蛍火が
「
しばらくして戻って来た蛍火は、わたしに神子の服を
部屋に一人になり、服を
「神子長になる前の蛍火の神子の印の色、見てみたかったかも」
それは、どのような青をしていたのだろう。今わたしの肌に乗るこの色より、ずっと濃かったに
「……睡蓮様は、二百年
わたしは顔を上げて、「え?」と
「生きてるはずない、とまでは思ってなかったけど……神子を
かつて長く生きた身でも、二百年は長いと知っている。神子は王と違って自分の意思で辞められる。千年という長い間、わたしと時代を共にした彼が神子を辞めるには、あのときがちょうどいい区切りに思えた。
「私自身、神子を辞そうかと考えたことはありました。千年仕えたあなたがいなくなられたのは大きいことでした。しかしまだ生きるべき理由が残っていましたので」
まだ生きるべき理由とは何なのか、気になってわたしが聞こうとしたとき、
「恒月国の王、紫苑様もまだご存命ですよ」
唐突に出された名前に、思わず動きを止めた。
紫苑の生存は知っていた。現在最も高名な王だと言われており、
紫苑。今世で初めて名前を耳にして、意志の強い
扉一枚、
「はい。私も二百年ろくに会っておりませんが」
「紫苑が生きているとしても、今のわたしが紫苑と会うことはないわ」
他国の王である彼と
服を着替え終え、部屋の外に顔を出し、「終わりました、神子長様」と声をかけると、蛍火は
「人目があるときはそう呼んでいただく
「気持ち悪いって何よ」
まったく、相変わらず
「それならわたしの方もお願いなんだけど、花鈴って呼んでくれる? 弟の前では絶対に」
弟が
「では、行きましょうか」