恒月国の首都は、活気に満ちていた。最も賑やかな通りには衣服から食べ物まで、様々な商品を取り扱う店が立ち並ぶ。その中でも、露店がずらりと並ぶ区画に足を踏み入れると、多種多様な衣装を着た人々が行き交い、異国の空気が色濃く感じられた。
「別嬪なお嬢さん、見ていかないかい? あんたにぴったりの綺麗な布があるんだ」
露店の前を通り過ぎようとした睡蓮は、「そこの翠緑色の服を着たお嬢さん!」という声が耳に飛び込んできて、思わず自分の衣服を見下ろした。もしかして、と思い声のした方を振り向くと、露店の商人が真っ赤な布を両手で広げて、大きく頷いた。
今の睡蓮は簡素な作りだが質のよい衣服を着て、後頭部の高い位置で長い髪を一つにまとめた十七歳の少女の姿をしている。確かにお忍びで遊びに来た良家の子女に見えたとしてもおかしくはない。
「すごく綺麗な色ね。でも、ごめんなさい、今手持ちがないの」
お金がないと断ると、「それならまた今度寄ってくれ」と言われ、睡蓮は「……そうね」と寂しげな笑みを返し、予定通り王宮に向かった。
王宮に着くとすんなりと中に通され、いつも彼を待つ露台に案内された。先ほどまで歩いてきた通りを頬杖をついて見下ろしながら、街中で耳にした異国風の旋律を上機嫌に鼻歌でなぞる。賑やかな喧噪が蘇るようで、ふっと口元が緩むのが分かった。
いつ来てもこの国は活気と笑顔であふれている。そんな街並みを一望しながら彼を待つこの時間を睡蓮はことのほか気に入っていた。
ふと思い浮かんだ待ち人の姿に、鼻歌を止め、手元に視線を落とす。
──こんな国を作れる彼ならば、違う選択をしたのだろうか。
「相変わらず、調子外れな鼻歌だな」
不意に後ろからかけられた声に、睡蓮は肩をびくりと揺らした。
「紫苑」
振り返ると、待ち人である男、紫苑が露台に入ってくるところだった。背が高く、体格がよい。黒色の髪は短く、名前と同じ紫の目は少々目つきが鋭いが、端整な顔をしている。二十代半ば程度に見えるが、この恒月国の歴とした王だ。
「調子外れは余計なんだけど。紫苑、これ、何の歌か知ってる?」
「元を知っていたとしても、睡蓮を一度介すと原形なんて留めていないんじゃないか?」
「知らないなら知らないって言いなさいよ」
からかうような言葉に、一言余計と睨むと、紫苑はくつくつと笑った。
軽く漏れる楽しそうな笑い声に、睡蓮も顔をほころばせる。同時に感じた心の軋みには素知らぬふりをした。
「で、何の歌なんだ」
「表通りを歩いていて聞いたの。他国の商人が多い通りだったから……他の国から入ってきたのかもしれないけど、その辺りで流行ってるんじゃない?」
「へえ。じゃあ、俺は聞き逃していたのかもしれないな」
視察と称してよく街に下りている紫苑なら知っているかと思ったのだが、知らなかったようだ。逆に興味深そうな顔をしている。一商人のような恰好をして街に下り、気軽に民と言葉を交わす紫苑に、度々臣下は頭を悩ませているようだが、何も紫苑は遊びに行っているのではない。王になって何年経とうとも、民の暮らしを把握してこそより良い国が作れると言い、定期的に街に下りているのだ。
そんな紫苑が王だからこそ、恒月国は物見遊山客や商人など他国からの人間を多く受け入れ、常に新しい風を取り込み、緩やかに変化し続けている。まるで時が止まっているかのように、数百年もの間何も変化のない自分の国とは大違いだ。自分が作った国とは──。
「今度、何の歌か確かめるために一緒に街に行くか」
え? と思わず睡蓮は声を漏らした。紫苑はどうだと首を傾げている。その、今度があると疑わない様子に胸が苦しくなる。
懸命に微笑み、ぎこちない口でそうねと言いかけたとき、紫苑が「でも俺が睡蓮の国に行く方が先かもしれないな」と言った。
「在位千年の式典が近いだろう?」
睡蓮が、ここ恒月国の隣の国、西燕国の王になってもうすぐ千年になろうとしていた。見た目は即位したときの十七歳のままだが、年齢は見た目通りのものではない。紫苑もまた、すでに四百年の時を生きる王だ。
神に選ばれた王は不老の身を与えられ、玉座を降りる日が来るまで生き続ける。けれど在位千年に達する王は歴史上、睡蓮が初めてと言われている。
「ああ、そうだったわね」
式典の話が出るのは予想していたため、思いのほか自然に相づちを打ててほっとする。
紫苑はその反応に、呆れたような顔をした。
「おい、まさか忘れてたとか言うなよ?」
「やっぱり来るの?」
「当たり前だろ。睡蓮には即位してからずっと世話になっているからな」
当然のように「待ってろよ」と紫苑が笑ったから、睡蓮も目を細め微笑んで「待ってる」と言葉を返した。その後も他愛ない話をしながら、睡蓮は痛む胸をそっと押さえた。
──ごめんね、紫苑。初めてあなたに嘘をついてしまった。
そして、在位千年の記念日に至る三日前、睡蓮は西燕国の自室で一人の男と向き合っていた。神に仕える神子であることを示す、青い衣に身を包んだ男の名は蛍火。千年間側近として睡蓮の側で支え続けてくれた存在だ。
「本当にこのまま、よろしいのですね?」
「……うん、いいの」
見飽きるほど見慣れた蛍火の手には、陶器のように真っ白で滑らかな刃を持つ変わった短剣が握られていた。儀式用だというそれは不思議なほど美しい。
綺麗な顔に無表情を貼りつけた蛍火の手を両手で優しく包み、睡蓮は心からの笑みを浮かべた。
「蛍火。千年間支えてくれてありがとう」
きっと、彼がいなければこんなに長く王として立ち続けることはできなかっただろう。蛍火には本当にいくら感謝しても足りない。
己の運命を完全に受け入れている様子の睡蓮に何を思ったのか、複雑な表情を浮かべた蛍火が「……もしも」とそっと口を開いた。
「……今一度、人生を与えられたとするなら、あなたはどう生きたいと望みますか」
そんなことを聞いて、どうすると言うのか。
死んだ人間は神の手により魂を浄化され、新たな体でまた生まれ変わると言われている。真実は誰にも分からない、言い伝えのようなものだ。それに、もしも本当に生まれ変わったとして、それはもう『睡蓮』ではない。
睡蓮は一瞬苦笑したものの、蛍火との最後の会話だと思って律儀に考えてみる。自然とふっと笑みが消え、視線が下がる。
「普通に、生きたいかな。王にはならない、普通の人の幸せがほしい」
もうこんな苦しい思いは嫌だ。
蛍火が感情の読み取れない静かな声で、「そうですか……」と言った。
それで今度こそ最後だった。蛍火が無言で、白い刃の先を睡蓮に向ける。
「さようなら」
睡蓮は、目の前にいる男と遠く離れた国にいる人、そして自分の国に別れを告げ、目を閉じた。良いことも、楽しい時間もたくさんあった。普通の人生を送っていれば、出会うこともなかった人にも会えた。
「わたしの時代はもう終わり」
太古の昔、地上全てと人間は、神により治められていたという。
あるとき、神は大地をいくつもの国に分け、それぞれに人間の王を立てた。やがて国々には人間が作った身分ができたが、神は身分によらず王を選び、選ばれた王には神から不老性と『神秘の力』と呼ばれる特別な力が与えられた。治世が長くなるほど増すその力は、使い方を心得ると瞬時の移動を可能にし、大地を豊かにすることができた。
神は王を選ぶが、選ばれた王が認められるかは民の判断に委ねられている。
国を良く治める王はまさに神のように崇められるが、国を傾ける王は民の糾弾に遭い、死をもって玉座から降りる。そうして神の次の選定を待つ。
神から人間へ大地の統治が移り、幾千年、西燕国に一人の女王が立った。
彼女は西燕国本来の穏やかな風土を取り戻し、農耕に力を入れると共に、身分による職業の選択の枠組みを撤廃した。改革は成功を収め、彼女は千年という破格の長さの時代を築いた。大きな政策はそのたった一つだったが、彼女が支持された最も大きな要因は神に与えられた神秘の力による御業だったという。
しかしその女王は、在位千年に至る直前、王位の返上を神に認められ自害したと言われている。
彼女の死後、王の呼称を『千年王』、その王が治めた長きにわたる安寧の時代を『千年王国』として、西燕国のみならず多くの国にその名が轟いた。
『西燕国千年王記』