四月(二)その3

  ◇◇◇


『わたしね。モデルになりたいの』

 そう言って笑う光理は、思わず見とれてしまうほど綺麗だった。

 もしあの時カメラを持っていたのなら、きっとシャッターを切っていたに違いない。

 だけど俺はその願いに即答できなかった。

 別に光理の願いを否定したかったわけじゃない。

 ただ俺は、俺にしてはあってはならないことに、自信がなかっただけだった。

 結局のところ、俺にできることは限られている。

 写真を撮る。それだけ。

 ただ、だからこそ俺は迷っていた。

 根本的な問題として、そもそも俺はカメラの腕がよくない。こうして写真部に所属してカメラを手にしているが、それはただの成り行きというやつだ。

 だからこそ迷う。

 本当に俺でいいのだろうか? もっと別の人に頼むべきではないか?

 そんな思いが、俺を縛る。

「どうかしたのかね?」

「ああ、いや……」

 雪那に声をかけられてふと我に返った。

「ふむ。悩み事かね」

「大したことじゃない。それより写真の確認は終わったのか?」

「いや、まだだが」

「ならそっちを早くやっちまえよ。雪那が終わらせないと俺もいつまでも帰れないからな」

「君にしてはずいぶんとトゲトゲしい物言いじゃないか。それではなにかありますと言っているようなものだぞ?」

 底意地悪そうに笑う雪那にしかめっ面を返してそっぽを向く。我ながら幼いと思わなくもないけど、雪那の前ではつい気が抜けてしまうのだ。

「ちっ」

 つい舌打ちしてしまった。

 俺の心底嫌そうな顔がお気に召したのか、楽し気に笑う雪那が写真の確認に戻る。

 その横顔を眺めて、改めて思う。

 やっぱこいつ小さいなー。

 ヒールがやけに高いローファーは余裕で校則をぶっちぎっている。そこまでしてもまだ背が低いという印象を受けるぐらいには小さい。

 あの妙に芝居がかった喋り方も威厳を出すためらしいけど、女子の中でも高い方になる声にはまるで似合っていない。

「不快な視線を感じる……」

 慌てて目を逸らした。こいつどんな勘してんだよ。

 仕方がないので、雪那の方を見ないように気を付けて窓の外をぼーっと眺める。

 入学式を終えた新入生たちがめいめい帰路についている。なかには友達グループらしきものも散見できた。

 これから人気が少なくなっていくだろう。だけど俺はまだまだ帰れそうもない。

 写真部の仕事として依頼されていた入学式の写真を渡すために部室に来ているが、雪那がそれを確認し終えるには当分かかりそうだ。

「うぉっ」

 窓に反射して、雪那がまだ俺の方を訝しむような目で見ていることに気づいてしまった。

「あー、そういえばさ。なんで始業式のあとに入学式をやるんだろうな? 俺らはともかく普通の生徒は今日休みだろ? 始業式で学校が始まったかと思えば次の日にはもう休みってするぐらいなら、いっそ先に入学式にして次の日を始業式にした方が連休も増えるしよくないか?」

 追及を避けるように適当に話題を振ったはいいが、適当すぎた。そうだね、としか言いようがないだろこんなの。

「ふむ。他校についてはともかく、我が校に関して言えば、元々は在校生も入学式に出席していたからだろうね。もっとももう何十年も前の話だが。その頃からの流れで今も始業式が先なのさ」

「へー。流石は理事の娘ってか」

 思いのほかしっかりとした回答が返ってきた。

 が、聞いておいてなんだが超どうでもいい豆知識だ。解説してくれた雪那には悪いが、特に感想はない。

「そういえば君、光理君と知り合いだったのかね?」

「いや、昨日……あー、知り合ったばかりだけど。雪那こそ知り合いだったりするのか?」

 厳密には一昨日なのだが、そのあたりを説明するとややこしいことになるので誤魔化す。

「ん? 私か?」

「昨日、聞く前から名前を知っていただろ?」

 写真部として学校行事に関わってきたこともあり、名前は知らないが顔は見たことあるという同級生が多い。そんな俺だがあいにくと光理にはまったく見覚えがなかった。

 だから雪那も似たような理由で偶々光理のことを知っていたのだろうと予想したが──

「ああ。彼女は有名だからね」

「有名?」

 意外な答えが返ってきた。

 俺が言うのもなんだが、学校モードの光理は地味だ。目立つタイプじゃない。有名という評価からは程遠いと思い込んでいた。

「堤君のご実家は地元では有名な資産家だよ。華蔡にも結構な金額を寄付してくれているはずさ」

「ああ、なるほど。そういう方面か」

 納得。

 雪那は華蔡高校の理事の娘だ。良くも悪くもそういう話が耳に入るのだろう。

「ということは、あれか。お嬢様ってやつか」

 一つ、堤光理という人物を知るためのピースが手に入った。

 光理は自分が好きなものを否定されることを嫌っていた。

 俺はそれを学校で教師に目をつけられるという意味で捉えていたが、きっとそれは間違いだった。

 そもそも華蔡高校の服装規定はゆるい。もうゆるゆるだ。それは目の前の雪那を見ればわかる。

 学校指定のものではないセーター。短くしたスカート。ヒールが高いローファー。そのどれもが校則で定められた服装から外れている。

 そしてその雪那が特に嫌われていないのに、光理が派手な格好をしたぐらいで嫌われるはずもない。

 片や理事の娘。片や高額寄付者。

 どちらも敵に回したくないという意味では似たようなものだ。

 つまり光理が否定されることを恐れていたのは教師なんかじゃない。

 恐れていたのはきっと──。

「ん? これは?」

 雪那の手がちょうど俺と眠夢が写った写真のところで止まった。思考を切り上げる。

「ああ、ごめん。それは個人用」

「まったく。兄のカメラを使うのは構わないが、データは分けろといつも言ってるだろう」

 データを管理する手間を省くために使用するSDカードは分けることになっているのだが、ついつい忘れがちだった。なにせこのカメラを預かるようになってから、俺が個人的な写真を撮ることなんて滅多になかったのだ。それなら分ける必要がない。

「知り合いかね?」

「妹だよ」

「ああ、なるほど、これが君の…………」

 雪那はこの学校で唯一、俺と眠夢の関係を知っている人物だ。どうして知っているのかは長くなるので割愛する。まあ、ちょっとしたきっかけがあっただけだ。

 食い入るように見る雪那に、なんだか気恥ずかしくなってきて先を急かす。

「もういいだろ? どうせそれは使えないよ」

「ふむ。まあ、妹君の話はあとでゆっくり聞かせてもらうとしようか」

「はいはい、あとでな、あとで」

 これは写真部ではよくある光景。

 教師や生徒会などから仕事を与えられ、俺が撮ってきて、雪那が確認する。

 この数か月、ずっと繰り返してきたことだった。

 そして俺はなんだかんだ言っても、この時間を気に入っている。

 今となってはもう自宅ですら気の休まる場所でなくなった僕にとって、唯一「兄」でなくてもいい場所で。俺がまだ僕だった頃のことを知る雪那になら尋ねてもいい気がした。

「なあ、雪那」

「なんだね?」

「僕に……人が撮れると思うか?」

「なんだね、藪から棒に。……まあ撮れるか撮れないかというなら撮れるだろう。現にこうして人を撮影している」

 そういって雪那が見せてくるのは俺と眠夢が写った写真だ。他にも初登校に緊張する新入生なんかの姿もある。

「まあ、そうなんだけどさ」

「もしそれが我が兄のように、という意味なら無理だろうな」

「…………そっか。そうだよな」

 能力を否定されたはずなのに、どうしてだかとても安心した。

 部長は、しゆう先輩は、師匠は、すごかった。

 この部室にいくつも飾られている盾やトロフィーは、そのほとんどが師匠のものだ。

 きっと、あの人なら迷わなかった。受けるにせよ断るにせよ、すぐに決断したはずだ。

 だけど曲がりなりにも師匠から一年学んだはずの俺はこの体たらくだ。

「君。またなにか厄介ごとを抱え込んではいないかね?」

「カカエテナイヨ?」

 目が泳いでしまった自覚があった。雪那が見透かしたようにため息をつく。

 まあ雪那にばれるのはしょうがない。なにせ一年前、カメラを手にすると決めたときの僕をその目で直接見ているのだ。

 それが情けなくて。だけど安心する。

「やれやれ。君は変わったように見えて変わらないな。去年、この部室のドアを叩いたときのままだ」

「ははっ、あの頃のままか」

 懐かしいような懐かしくないような。そんな泥の安堵はすぐに覆された。

「だからもう君は決めているのだろう? ならそうしたまえよ」

「いや、それは──」

「いいかね。おおかた君はまたあのときのように事情があって撮影しなければならないのだろう? ならもう君が出す答えは目に見えている。そうして悩むだけ無駄というものだ」

「無駄って……」

「撮りたまえよ。たとえ我が兄には劣る腕であろうと、頼られたなら動くのが君だろう?」

 確信を秘めた瞳に射抜かれた。

 なぜだか居心地が悪くて取り繕うように言葉を重ねる。

「そんな簡単に言うけどな。前回とは違うんだ。今回求められているのは純粋に写真の出来栄えで、ただ撮ればいいってもんじゃない」

「それでも君が頼まれたのだろう?」

「それは……そうだけど」

「助けない理由を探すのは君には似合わない」

「…………」

 言葉を失う。

 なんという無様。俺は自信のなさから目を背けるために断るための言い訳を探していたことにさえ気づいていなかった。

「はぁ……。まあいいさ。好きにしたまえ。どちらにせよ、これは写真部に持ち込まれた依頼ではないのだから私が口をはさむような問題でもないだろう」

 絶句する俺から視線を外して写真の確認に戻る雪那。

 確かにこれは俺の問題だ。雪那に背を押してもらおうというのは甘えすぎている。

「ん? これは?」

 雪那の目が一枚の写真に止まった。

「ああ。えっと、それは……」

 しまった。一昨日撮った光理の写真を入れっぱなしだった。

 光理の正体について俺が勝手に話すわけにもいかない。なんとか誤魔化さなくては。

「コンテスト用かね?」

「は? あ、ああっ! そうそうコンテスト用コンテスト用」

「君……。まさかとは思うがコンテストのことを忘れていたわけじゃないだろうね?」

「まさか! 忘れるわけないだろ?」

 雪那の勘違いに乗っかるために、できるだけ心外そうな顔を作って笑い飛ばす。

「ふむ。やはりさっきの悩みの答えは出ているのではないかね?」

 でもどうやら雪那にはお見通しだったようで。

 意地の悪そうな笑顔を見せる雪那から、バツが悪くて目を逸らした。

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