起 安い矜持と甘い誘惑〈2〉

 ところで、彼女の誘惑の中で実のところ一番“そうできたら確かにどんなにいいだろう”と刺さったのは、学校のことだった。

 願わくば一日中、文机で創作に煩悶していたい。傑作の誕生に邁進することこそ作家の本懐だ。……これは、別に、入学当時にやらかした変人挑戦ムーブ、通称【夜明けのケンタウロス】事件でクラスどころか全校生徒と疎遠になり、二年になった今でも口伝で伝えられた顛末が、風化するどころか尾鰭が付いて後輩に拡散されたおかげで友情のドーナツホール現象が起こったことには起因しない。しないから。しないから!

 そも僕は、さる相手に『大学卒業までを経験して社会性を磨くべし』と契約書に判まで押させられている。変人は目指したいが、かといって迂闊で不審なサボりは死に繋がる二律背反の状態なのだ。

『成人もしていない尻青の分際で、専業気取りなことを仰いますね、明日木先生。失礼ながら百年早い望みかと。……おや、怒りましたか? 悔しいですか? それは結構、適度な発奮・意地・熱気、どれも傑作の助けになります。では、現状を覆したいのなら、十万部は売り上げてから出直してくださいますように』

 ぐうの音も出ない指摘を受け、枕に滂沱の涙を受け止めてもらった思い出を忘れまい。

 そんなわけで、学校にはちゃんと出席し、授業の時間はノートを取りつつも思考の半分ほどは新作のネタ出しに割いている、のだが……。

(……ああ、もう……)

 ただでさえ専念しきれていない思考に、今日は別の雑念がある。

(……惜しい……惜しかった、かなあ、ひょっとして……)

 後からいちいち悩むのは、悲しいかな毎度のこと。原稿も修正が効かない段階になってから『もっとうまい書き方があったんじゃないか』と鬱るのがザラだが、本日の迷いはあの女についてだ。

 片意地をはって格好ばかりつけたせいで、青い鳥を逃し続けたのが新井進太朗の人生だった。アイディアが出ない苦しみに苛まれ続けていると、どうしても今朝の決断が後悔に変わろうとする。

 あれは間違いじゃなかったか? 目の前の傑作を書かないことは正しかったか?

 一度もろくに売れたことがないくせに【好きな創作を貫くのが素晴らしい】なんてこだわりに執着するのは、ひょっとして、滑稽すぎるんじゃなかろうか……?

 それに、何よりだ。

(揉めた……もしかしたら、いや、二つ返事で絶対揉めた、あの乳をっ……!)

 悶々とする。紙に押し付けたシャーペンの芯が折れて飛んで頬に刺さる。

 その痛みで、ふいに思い出した。

(……あ)

 それは、人付き合いの少ない専業作家で、家に閉じこもっていた父の毎日に……染みのように浮き上がった、女の話だ。母との離婚のきっかけになった、疑惑についてだ。

『――あまり、あなたに聞かせるべき話ではないことを承知で言います。早瀬先生には、奥様とは別に懇意な女性がいて、仕事場に囲っているのではないか、と疑われていました。週刊誌にすっぱ抜かれかけたのを、すんでのところで先生ご自身が止めたという話は、今でも真相は知れず……何より私自身、原稿を頂きに伺った際、いるはずのない相手の気配を感じたこともありました』

 意外に思われるかもしれないが、早逝の大人気作家早瀬桜之助は、何も最初から老若男女を虜にしていたわけではない。

 二十八で翠生社すい《せい》《しや》からデビューして出版された処女作から三作目までは、売り上げのチャートを賑わすことも感想が電子の海を染めあげることもなかった。

 それが覆ったのは、四作目……【クロノスタシスの水平線】からだ。

 作風が変わったというより、元々持っていた作風が、まるで壁を超えたように加速したこの物語は、作家・早瀬桜之助の転換点ターニングポイントと評される。

【水平以前・以後】、そんな分類を生む中間点となったこの作品を境目に、早瀬桜之助は本流を創り出す大人気作家の階段を瞬く間に駆け上っていった。

 ――そして、本題だが。僕にそれを教えてくれた人は、こんなふうに言っていた。

『早瀬先生が【水平線】を書き上げた時期は……仕事場を移し、不可解な女性の影がちらつき始めたのと、一致しています。けれど、わたしは結局、あの足音や、樹々のざわめきのような笑い声の主を知らない。こんな話が流れたら、また全シリーズ重版でしょうね。得体のしれない存在と暮らし、霊感を授かっていた神秘の作家、早瀬桜之助――そんな広告宣伝、生前の担当編集として絶対に御免ですが』

 果たして。

 僕はその【霊感を授ける、得体のしれない存在】に出逢ったらしい。

 ロケーションが古民家なのも相まって、頭に浮かぶのは【座敷童】の文字だ。

 住む相手の才能を目覚めさせた=幸福を与えた、と理論を繋げればそれっぽい。

 だけどあれ、“わらし”か? どう見ても大人だ。純和風どころかテイストは洋風、出自、作風、怪異の立脚点が座敷童とは違う。第一、あの乳でわらしは無理でしょ。

『――どうか、それを見せて。きみには、わたしがいないとだめだって――』

 声を思い出す。顔を思い浮かべる。あそこにあった感情を、刹那の観察から推察する。

 ……ああ。やっぱり、子供じゃない。そんな、無邪気なものじゃない。

 あの瞬間、あいつが僕に求めていたのは、大人のそれ。

 日差しに晒され続けた砂のような渇き、相手に受けいれられたいと強い強い理性の上で欲する、グロテスクなまでに切羽詰まった、極彩色の感情だったのだから。

(……っ)

 鮮烈な渇望に時間差で当てられて身震いをした時、四時限目終了のチャイムが鳴った。結局午前中、ろくにネタ出しができなかった。

 こうなれば昼休みの一秒は砂金に等しい。購買でパンでも買って、校内のぼっちポイントにこもり作業に移ろう……。

 ――そんな考えは、大甘だった。

「しーんたーろくーん!」

 昼休みの賑わいを貫いた声は、語尾にきっと音符とか、ハートマークがついていた。

 否応無く視線が集まる。前側の扉に、三年のエンブレムが入った制服を着た……妖精か妄想かと思うほどに器量のいい、透き通るように白い肌の、腕も足もモデルかと思うくらいに細く長く、そしてハチャメチャドキドキムチムチに夏服の胸部を内側から膨らませた、乳のでかい女子がいた。

「おべんと、いっしょに、たーべよっ!」

 視線が今度は、こちらに集まる。全員の目が言っている。『あれ誰、どゆこと?』と。

 はい。それ、何を隠そう今一番僕が誰より言いたいやつです。


          ◆


 こういうときの対処法は決まっている。とにかく状況がまだ膠着しないうちに動かなければ詰んでしまう。

 何気なく立ち上がり、そばまで向かえばそりゃあもう油断する。様子を見守るクラスの一同、でけえ弁当箱を首級をあげた侍みたく掲げた謎の三年女子も、獲物はおとなしく連行されると予想したろう。

 しかし考えてみてほしい。

 作家の本分は、予想を裏切ることである。

「だぁ――――っ!」

「きゃっ!?」

 身を低く、初速は早く、脇をすり抜ける。スポーツ漫画の駆け引きもかくやの突破、男子たちは弾んだ乳に「おおッ!」と見とれたのち、僕の奇行に気づき「ああッ!」と叫ぶ。

「に……逃げたッ! 走ってるッ! エリマキトカゲみてーにッ!」

 おいばかやめろ、ただでさえ影で不名誉なあだ名がついてるのは知ってるのに、更なる悪名の提案をするんじゃあない、出席番号十八番村江!

 できるなら戻って抗議したいが、今は謎の三年生からの逃亡を最優先とする。僕のことは僕が一番よくわかっている。急なモテ期とか来るものか。となればあんなの、何かの罰ゲームか、悪辣なドッキリか……いやでも、なんかあの雰囲気、引っ掛かるものがあるんだよな……っと、そうこう考えているうちに、着いた。

「すいません急に体調が悪くなりまして昼休みの間休んでもいいでしょうか!」

 駆け込んだのは一階の保健室。ぼっちポイントに身を隠すことも考えたが、もしもの時に助けも呼べない孤立のほうが怖い。養護教諭は一瞬怪しむ目をしたが、現状ベッドはすべて空いていて、また【児童は常に大人の思いもよらぬ問題に悩まされている、多くは聞かないのも寄り添うこと】という哲学の元、窓際のベッドに案内してくれた。

 おお、期せずして静かな時間のゲットに成功だ。この手は使いすぎると保護者にまで連絡がいく(去年それで二作目の出版が危うくなるほど絞られた)諸刃の剣なため乱発はできないが、もったいない未使用の死かかえおちこそ避けるべし。

 カーテンで仕切られ、こっそりベッドの中でスマホを取り出す。クラウドストレージにアクセスすれば、どこからでも原稿に向き合える。「今は外だし遊びに打ち込んでもしょうがないなー! 出先でさえなければな~! か~っ!」との言い訳が使えないのは、実に良し悪しだけれども。

「……はい、もしもし? どうしたの、おじいちゃん? あ、ちょっと待ってね……」

 養護教諭が、私用の電話に応じながら外に出た。彼女は唯一の肉親である祖父と二人暮らしである、というのを去年、雑談の中でぽろりと聞いた。……大事でなければいいな、と思いながら、僕は液晶の中に写る自分の大事と向かい合う……と。

 ふいに手元に影が射して、曇ってきたのかな、と何気なく顔をあげた。

 影の元は乳だった。

 保健室の窓越しに、あの女性徒が立ち、こちらを覗きこんでいた。

「          っ  」

 衝撃も過ぎると叫べない。喉が詰まり、息が止まる。

「うふ」

 窓の鍵は、こういうシチュエーションに限って開いていた。ビバ、ホラーの法則。くたばれ。伸ばした手が留め具に届くより先に、無情にもこちらあちらは繋がった。

「もう、驚いちゃったなあ。逃げるなんてひどいよ、しんたろくん」

 大胆に足をあげ、サッシを越えて女性徒が入ってくる。わざわざ靴を脱ぐのは律儀さか。違う、それだけじゃない。大胆に短いスカートの、その中が見えるか見えないかのギリギリを見せつける猛烈なアピールのテクも兼ねそなえている。な、何者だ……!? どうして僕のフェチズムを、手に取るように理解して……!

 ……あれ? …………え? この、心得すぎてる誘惑の感じ……。

「でも、許したげるもん。だって案内してくれたんでしょ? ここでなら、静かだし、だぁれの邪魔も入らないし、おもいっきりヤレちゃうねえ……とっておきの、作れちゃうねえ……。うふふ、ごはんを食べるのも、待ちきれなかったんだあ……」

 清廉潔白であるべき保健室のベッドで、隠しきれない豊満な肉体をした夏服女性徒が馬乗りになってくる。両の膝頭と手が僕の被っていたシーツを押さえ、ピン止めされる標本じみて逃げられない。

 熱を帯びた吐息がかかる。なまめかしい唇を舌がなぞる。

 そして、彼女は言った。

「一緒に書いちゃお、原稿。もう一回、インスピ注入してあげ……べぶっ!?」

 身体はシーツごと押さえられているが、両腕はスマホをいじるために出していた。

『むちゅう』と寄ってくる唇を、頭と頬を掴んで押さえ込む。

「ひょっほひょっほあにすんらようほーいうおふひへひょへっはい!」

「ふ、ふふふ、不審者女……! いやだって、その……えぇ……!?」

 言動は完全一致しているが、外見がまるで違う。発育はともかく、書斎で遭遇した・今朝食卓を共にしたのが社会にこなれてきたくらいの年の成熟だとしたら、今のこいつはそれより顔立ちが幼く背も一回り小さい学生だ。重ねて言うが、発育は除く。

「ふふ、驚くことなどまったくないわ。これくらい、わたしにとっては楽勝ちゃんよ」

 そんな言葉の直後、証拠が示される。

 何と表現しよう。なめらか極まるクレイアニメ? 魔法少女の変身バンク? 突然もやがかかったと思ったら、ものの数秒で僕が知っている通りの不審者女が出現した。呆気に取られている間に再び姿を変え、乳でか上級生が再度馬乗りになってくる。

「わたしはね、きみに愛してもらうためなら、どんなわたしにだってなれる。はっきり言って、こーんなお得な契約、乗らない手はないんじゃあないかしらー? はー! わたしだったら、ぜったいぜったい結ばれちゃうな~!」

 胸を張るアピールはあざとく露骨だ。やれやれ……そんなのが僕に利くとでも?

「んぐっ……くっ、が、あぁぁぁぁぁぁっ……!」

 利くに決まってるんだよなあ……。

 端から見るのと主観とでは、状況の重みが違う。意識してスキル天然ナチュラルか、馬乗りになられている姿勢から、正面、下方、わずかに上体を起こしているという視界は、そう、臨場感がやばすぎる。

 隠れてるんだよね、彼女の顔半分ほど、お山で。

 その対比が、サイズの魅力を絶対最強完璧無敵ススススストロンゲストに強調している。軽率に具現化するんじゃないよ、人類の夢をさ。出すところで出したらこれ世界平和だからな。

 僕がこういう「押しの強い先輩に学校で迫られるシチュ」がトンカツの端っこのサクサクな衣がよくついてる部分くらい好きなのって、どっかの攻略サイトとかでバラされてましたっけ?

「ねねねね、原稿書くって約束してくれたら、なんでもかんでも今すぐここで、好きにしたっていいんだよ……?」

「……あんたのための。あんたが読みたい原稿を、か?」

 最後の抵抗ができたのは、その要求が、僕を成しているちっぽけなこだわりの根幹に関わるものであったから。

 抗いがたい暴力的な魅惑、一秒ごとに理性を溶かしてくるいとしさの塊がうんと頷く。

「その言いかただと足りないわ。皆も欲しい、だから君も幸せになれる芸術を、なの」

 最初からそうだったように、彼女の瞳には、どこまで行っても悪意がない。

 あるのはひたすらに、愛だ。奪うのではなく与えたい、幸福にして幸福になりたいという、砂嵐みたいな思いやり。

 彼女は何の裏表もなく。

 ただ僕に、幸あれと願っている。

「――皆が欲しい、創った本人も幸せになれる芸術、か」

 浴びた献身の分だけ、腹の底で冷えていくものがあった。

 悶々とくすぶっていた疑惑を、僕はどうにも抑えられない。

「たとえば、それは――早瀬桜之助、みたいに?」

「ええ!」

 声に、はしゃいだものが混じる。女の表情が、楽しい遊びにうきうきと誘うようなものから、味わってきた快感を思い返す、うっとりとしたものにスライドする。

「本当に本当によかったわ、サクノは! わたし、ぜんぶ好き! はじめていっしょに創った【クロノスタシスの水平線】から、その後の作品も、その前の作品も!」

 頭の中で、繋がるべきでない線が、繋がっていく。

 早瀬桜之助の、ヒットを飛ばし始めた時期。

 母と離婚する、遠因になった女の影。

「彼がいなくなってから、退屈だった! 色々な人が訪れたけれど、ぴんとするものは誰からも感じないし! わたしは彼といっしょに言葉を紡いだ書斎でどんどん薄くなっていて、もしかしてこれで終わりかな、と思ってた! でもね、そんなときに、あの場所に君が来たの! 彼と同じ席に座ったの!」

 彼女の目の焦点が、僕という新しい獲物を捉える。

「欲しがってたよね、苦しんでたよね、あのまんまじゃダメだったよね! とってもステキな血反吐だから、話さなくちゃって思ったんだ! わたしがきみを見つけたのは、きみがわたしの目を開けたから! その責任、とってもらわないと嘘だよね!」

 彼女が身体を倒してくる。顔が近く近く寄り、世界が彼女に埋められる。僕たちは今、互いに相手しか見えていない。

「きみ、このままじゃつらいでしょう?」

 まったく正しいことを言う。出口の見えない原稿を書いている時、作家は行き止まりに押し込まれたように重苦しい。

「無理をしないで。強がらないで。弱くたっていいの、そこから、すばらしいものが生まれるのなら。――さあ。わたしといっしょに、きみを苦しめてきた、きみを認めようとしなかった、すべてのものを見返そうよ」

 流星のような誘い文句。誰しもが欲してやまないだろう、満点の全肯定。

 僕は、それに――答えを返す、寸前で。

「失礼。新井、いるかー?」

 保健室の扉が開き、名を呼ぶ声で思考が走った。脳裏にお経のごとき文章が流れ出る。

【不純異性交遊現行犯目撃保護者召喚激烈折檻社会的地位完璧無惨新刊発売永遠未完】。

「利用者の表はここで……今は、一人か。じゃあ、そこかな」

 仕切られた空間に近づいてくる足音。遠ざかる新刊。僕は青ざめ小声で訴える。

「わかったわかったわかりましたごめんだけどこのままじゃ本とか出せなくなるんでよ一旦帰って待ってて頼みますから!」

「おー! ほんと? ほんとにほんと? あー、でも、なんか怪しいなー。そう言って、帰ってこないとかじゃない? 家じゃなくて別の宿でカンヅメとかってやる気とか? うーん、やっぱり、つきっきりに張りついておかないと……」

「しますします約束しますだから行って、あーそうだ! 今朝のごはんも美味しかったし晩御飯も作っててくれると助かるなー!」

「え! わ! 今わたし、お願いされたよね! 求められちゃった!? くふふふひゅふふ、そーかーそーかー、あれ良かったかー! うん、まっかせて! きみがばっちり原稿に集中できるよう、準備しておくからねー!」

「入るぞー」

 カーテンが開かれる――のと、女がふっと消え、窓の外に一瞬で移動したのは同じタイミングだった。

「……ん? どうしました、その顔?」

「いえまったく何事もございませんし」

「はあ。それならいいんだけどよ。午後出られんくらいキツいなら言えよ、俺も次は六限まで間があるし、車で送ってやれるから」

 窮地を救ってくれた恩人は、社会科日本史のかる先生だった。

 物腰は柔らかながらもぶっきらぼうな口調がアクセントな黒縁眼鏡の三十六歳は、親身になって教えてくれる優しさもあって生徒からの人気は高い。担任になってほしい、と願われてやまない非常勤講師で、【本職】についてはもっぱら話題の種だ。現在は、尋常じゃなく引き締まっている細マッチョボディから【海外の外人傭兵部隊所属説】と

【シンプルに殺し屋(仕事の時はもうひとつの人格が目覚め性格が変わる、本人だけがそれを知らない)説】が有力である。

 ……そのどちらも違うと、僕は知っている。

「大丈夫です、も、ほんと、ちょっと静かなところで休みたかっただけなんで。それより軽部先生こそ、どうかしました? 何かご用ですか?」

「いやいや、用があるのはそっちだろ。教室行ったら居なかったんで焦ったわ」

 ……あ、と気づく。

 そうだ。不審者襲来ですっかり忘れていた。相談したいので、月曜の昼休みにお時間をいただけませんか、と頼んでいたのは他でもない、僕のほうだった……!

「す、すみません! うっかりしてました!」

「あー、大丈夫。新井はで、おれはだからな。わからないことがあったら、手助けすんのが務めだ」

 軽部先生はパイプ椅子を出してベッドの脇に座る。

「養護のむら先生、さっきそこで会ったけど、少し電話が長くなるってんで昼休みの間だけおれが代わりにここにいることになったよ。大事があったら呼ぶけど、それまでは周りの心配なく踏み込んだ話ができるな。ところで」

 ワイシャツの胸ポケットから年季の入った手帳と万年筆を取り出して構えた軽部先生が、この上なく真剣な顔で身を乗り出してくる。

「新井のクラスに行った時、ギャルゲみたいな三年女子が襲来したとか聞いたんだけど。なんだよその滾るネタ。新作の参考にしたいんで詳しく教えてもらえる?」

「……そこんところは、ノーコメントで」

 社会科非常勤講師、軽部仁礼先生(三十七歳)。

 本業、小説家。ペンネーム、みずあめぽっと。

 メインジャンルはゴリゴリのエロコメラノベ、代表作は【俺がこなしたあらゆるヒロインに動じないための百八の荒行】。

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