起 安い矜持と甘い誘惑〈1〉

 早瀬桜之助の遺産の中で、『最も値価がある』と誰もが納得するのは七冊の著作。

 そのままで扱えば微妙、と目されていたのは、郊外の屋敷。

 若干のリフォームが行わているとはいえ、築四十年の平屋はどうしたって古めかしい。交通機関や各種商店へのアクセスも不便で、取り柄があるとしたら、住宅街からも離れているおかげで昼も夜も静か、多少騒いでも問題なしというくらい。

 ただ住むだけの物件としては並だが、別の使いみちもあると提示されていた。

 早逝した大人気作家の終の棲家、数々の傑作が生まれた場所としての、観光地化だ。

 国内にとどまらず海外からも集客も見込めるとかで、県庁からやってきた役人さんは具体的な計画書を見せ、腹を割った話をしてくれた。

『より多くの人に、早瀬桜之助という作家を、彼が生きた証をより明確に残す。私はそれが、自分の使命であると思っています。先生は未だこの世界に、いいえ、いつまでもいつまでも、確かに存在しているのだと』

 悪い人ではなかったと思うし、提案についても同様だった。

 早瀬桜之助の痕跡を、個人がどうこうするよりずっと安全に、長く保存できる。蔵の中で埃をかぶるようなものではなく、人々の思いと共にあるかたちで。

 誰にとっても、きっと、それがいい。

『――すみません。せっかくのおはなしですが』

 そういう願いを、僕は断った。表沙汰になれば、全早瀬桜之助ファンを落胆させ、明日木青葉のアンチにさせる行為だろう。

『あの家、僕が住もうと思ってるんです。父がいた場所で、父に挑みたい』

 そう言われた役人さんの、苦虫を?み潰したような顔といったら。

 足跡の上でダンスを踊ればどうなる?

 答え、踊った者の足跡で上書きされる。

 早瀬桜之助の家に住むということは、彼が最期の散歩に出るまで住んでいた家を、他人の生活で塗りつぶすということだ。それは完成した原稿に墨汁をぶちまけるみたいに、取り返しがつかず、元には戻らない。

 荷物が運び込まれる引っ越しの前日まで、役人さんは説得にきた。

 引っ越しが済んだ初日、彼は、引っ越し祝いを持って挨拶にきた。

『どうか。先生も、良い作品を書いてくださいね』

 言葉は額面通りじゃない。【早瀬桜之助の息子】という天下無敵のラベルもかたくなに張らない意地を張りながら打ち切り続きの三流作家に、その目は期待などしていない。

 では、先の言葉は社交辞令か。

 いいや。もっともっと、意味は重い。

『お前は取り返しのつかないものを台無しにしたのだから、どれだけ才能が見合わなかろうとも、生涯実力が追い付くことが有り得なくても、その報いツケを払い続けろ』……早瀬桜之助の大ファンからの、つまりはそういう応援うらめしやだ。

 言われるまでもない。その程度の覚悟、とっくにできている。

 僕は、早瀬桜之助に挑むために、あえてアウェーに踏み込んだ。

 呪いがどうした。食ってやるとも、あいつの全部。育ってやるさ、この場所で。

 その時こそ、新たな伝説の誕生だ。早瀬桜之助が住んでいた家じゃない、明日木青葉が住んでいた家として、価値をより大きく上書きする。

 見てろ。僕は絶対、誰にもあんな目をされない、あいつを超える大作家に――。


          ◆


「――くしゅっ」

 自分のくしゃみに起こされた。九月の半ばがいくら残暑の尾を引いているといっても、縁側の戸も開けっ放しであれば、涼しさよりも寒さが勝る。この古民家は、縁側と外の仕切りにガラス戸もない。古いとはいえ、何とも大したセキュリティだ。

 洟をすすって身体を起こして周囲を見まわし、そこにあるのが、いつもの風景であることを確認する。……うん、つまり。

「なぁにしてっかなぁ僕はぁぁぁぁぁぁっ!?」

 これが吠えずにいられるか。

 記憶をたどれば、昨日布団に潜り込んだのが、陽も赤い夕方ごろ。壁にかけてある時計を見れば、現在朝六時十五分。たっぷり半日はグッスリ、休日を浪費したわけだ。

 この、ただでさえ原稿が遅れまくっている切羽詰まった時に! 

「ぐおおおおおおお! しかもなんだよ、あんの都合のいい夢さあっ!?」

 夢であり幻であって現実ではない、それだけは確実だ。寝不足だった頭が、考えても考えてもネタの出ない苦悩と相まって、最高に最低な願望と繋がったに違いない。

「ありえるわけないから! あんな僕のツボのド真ん中、みずあめぽっと先生のラノベに出てきそうな少年誘惑あまあまリード型パーフェクトえっちボディ、更にその上ツバサを授けてくれる優しいお姉さんとかさあ!」

 布団の上で悶え転がれば、庭を通りがかった野良猫も『は? こっわ……』とばかりにダッシュで引き返す。僕は縁側に出て、腹の底から無念を発散する。

「どうせ夢なら、揉んだり揉んでもらったりしときゃよかったぁ――――っ!」

 ピュヂヂヂヂヂ! と電線から一斉に飛び立つ小鳥たちを見送り、感情を無理矢理に整理した僕は朝の準備に移る。

 冷静になれ、新井進太朗。早起きのメリットは郊外住まいのデメリットで相殺だが、少しくらいは原稿に向かう時間はある。手早く登校の準備を済ませ定位置に座れ、硬き信念を思い出せ、掴めなかったふわふわおっぱいなど忘れて!

「……いや待て。そもそも人間は、乳も揉まずに傑作が書けるものなのか……?」

 顔に浴びせる冷水で思考がいくら冴えようと、大いなる疑問の答えは出なかった。ならば腹にものを入れて頭に栄養を回そうと、台所へ向かう。

「やあ、おはよう」

 美しい髪が朝の陽に映えており、僕は無様に尻もちをついた。

 厨房に立っていたのは、女児アニメのキャラクターが描かれたキュートなエプロンを身に着けながらも、その圧倒的なパワーによって内側から胸元のイラストを変形させる……すなわち、怖くて泣いちゃいそうなほどの煽情の体現者メッチャスケベアバターであった。

「そろそろ起きると思った。冷蔵庫のもの、使わせてもらったわね」

 味噌汁の匂いが、すっからかんの腹と鼻をくすぐる。茶碗に炊きたてのお米が盛られ、皿に載せて運ばれる旬の鮭の桃色に唾が出る。

「どうぞ召し上がれ。それで、お腹が膨れたら……ふふふふふ」

 料理を並べ、エプロンを外す彼女の、内に籠っていた熱気が解き放たれるのが見えた。

 そして彼女は、僕と同じく……いや、僕よりも余程、腹が空いて飢えたように、舌なめずりをして、ささやいた。

「原稿にしましょ。今日はとーってもいい天気だし、さぞかし筆も進むわよね。ずっと見ていてあげる。そばで応援がんばれしてあげる。欲しいものならぜんぶあげる。だから、ね。書いて? きみが辿り着きたいもののために、わたしが読みたいもののために――」

「……あ、もしもし、警察ですか? 朝早くからすみません、なんかうちに、スケベな不審者が入り込んでまして」

「ちょぁ――――――――っ!」

 不審者女が飛び込んでくる。右手でスマホをひったくると同時に通話を切断、フローリングへ着地するショックは乳で和らげつつ左手で受け身を取る。

「おおー、すごいすごい。見料ってことで警察に突き出すのは勘弁するから、自分で出ていってくれるかな、不審者さん」

「おはなし! とりあえずおはなし聞いてくれないかなあ! いきなりはへんなことしないんで! ほら、おいしいご飯もできてるよぉ!」

 半泣きで食卓を指さす不審者。その動作の余波で乳が揺れる。それがあんまり弾むもんで、どうやら催眠術か何かにかかったらしい。心の寛容がほっこりと増していく。

「じゃ、ごはんくらいは。人が自分のために作ったもの、無視するのはよくない」

 席に着き、いただきますと手を合わせる。初手で啜った味噌汁は……む、結構な御手前で。その表情を抜け目なく見た不審者は、得意げな笑みを浮かべる。悔しい、でもこの合わせ出汁には抗えない……!

「わたしねわたし、かしこいから知っているのよ。学校って、将来なりたいもののために通うところでしょ?」

「まあ、そうとも言える」

「きみにはつまりいらないものだ。だって、もう将来は大安泰と決まるんだから! このわたしと出逢ったからね!」

 ウィンク・舌ペロ・横ピースのよくばりセットをかましてくる。すごいなあ、この自称かしこい不審者ウーマン、自分がここにいる経緯とか発言とかがどれだけ110番ものか、ひょっとしてわかってらっしゃらない?

赤入れツッコミどころ多すぎて真っ黒で真っ赤なわけなんだけどさ、聞いていい?」

「ご奉仕スキルの内容なら別途資料にまとめてお渡しできるわ!」

「違くて。まず、あんた誰?」

 現状の僕の認識としては、席を外した隙に縁側から侵入していた怪しい女で……しかも、彼女の存在が夢でないとしたら、特筆すべき点がもうひとつある。

「ふふ。そんなの、もうきみはとっくにご存じじゃあないかしら」

 机に身を乗り出してくる。自然、強調される偉大な谷ビッグバレー。この女、自分の武器の使いかたをご存じしている……!

「何を隠そう、わたしは悩める才人に大ヒット間違いなしの霊感インスピさずける魔性の女。当然、それだけじゃないわ。打ち込むべきことに邪魔なもの、残らず取り除いてあげる。食事も、お風呂も、散髪も、買い出しも、事務手続きもメール返信も、経費精算も確定申告も、もう何もきみを悩ませない。さあどうか、わたしに望んで。何もかもを――」

「ごちそうさま。おいしかった、ありがと。皿洗いはやるんでそのままでいいよ」

「なーんでよぅっ!?」

 妖艶から涙目への移行が瞬間芸シームレスすぎる。

「逆にどうして!? きみ、悶えてたよね、悩んでたよね、苦しんでたじゃない! こんなカワカワ美人が持ってきた最高の条件、拒む理由なくない!?」

「何もかも自分で言うこっちゃないんだよなあ」

 本人の口から出れば出るだけ怪しいワードを臆面もなく連発する、その自信は見習いたくないこともない。しかも、困ったことに信憑性まであるときた。

 打撃と睡眠で追い出しこそしたが、今もまだ、経験した記憶だけは残っている。

 これを世界に出さないのは、大いなる損失で裏切りだとさえ思えるほどの、大傑作のイメージ。創作者なら大小の差はあれ誰もが味わった経験があるだろう、“最高”が生まれた実感が沸き立たせる、全能の高揚感。

 目の前の彼女はそれを、口付けで能動的に引き出した。

 ……あぁ、いや。僕がそういう経験まるっきりない身の上なんで、はじめてで突然のキスを受けたショックでトリップしたという可能性があるのが切に悲しい。

「あんなのおためし。もっと深いつながりを持てば、イメージももっと具体的になる。ねね、あの感覚、ちゃんと味わいたくない? そんで、今度こそ見せてよ、君の中に湧いた、最高の――」

「でもあれ、バッドエンドだろ」

 ここで、はじめて。魔性の女は、困惑ではなく……虚をつかれた顔をした。

「ばっどえんど?」

 幼児めいたオウム返しで首をかしげる。とぼけているのかなんなのか、ともあれ、ちらりと目に入った時計がこれ以上歓談の猶予はないと示している。

執筆依頼オファー出すなら、ちょっとくらい調べるべきだ。最新作も読んでたよな? 明日木青葉は、御都合主義的ハッピーエンドの専門作家さ。受けが悪くったって、非現実的リアリティがないと叩かれたってね」

 彼女が僕に書かせて読みたい“最高”と、僕がこの世に出したい“最高”は、面白いぐらいに重ならない。

 解釈違い、というやつだ。

「適材適所ってのがあるだろ。無理矢理書かせたところで、感情も執念も乗った、呪いみたいに深い作品はできあがらない。そういうのが読みたいなら、そういうのが大好物な別の作家に依頼してくれ――たとえば、早瀬桜之助とか」

 席を立ち、食器を流しに片す。【大作家行片道切符】のお誘いをしてくれる、ビジュアルもツボすぎる美女……これに素直に乗れないなんて、どんな偏屈でヘタレなんだって自分でも思うけど、仕方ない。

 作家というやつは、人間である前に創作者という生き物だ。

 命も、願いも、基準も。既に、普通に生きるのには不便なレイヤーに乗っかっている。

「そうだね。サクノは本当にうまかった。一番、私と波長があってたと思う」

 そら、こう来た。

 なればこそ僕は、ちっぽけな意地を捨てられない。捨ててたまるか。

「あんたが何かは結局わかんないけど、夕方くらいには帰るから、それまでならいていいよ。言っとくけど、帰ってまだいても構ってる暇ないんで。こっちにはこっちで、書かなきゃいけない原稿があるからね。んじゃ、行ってきます」

 家を出る際、ガラス引き戸には鍵もかけない。不審者はどうせ中にいるのだ、防犯は端から終わってるし、一応、玄関には防犯カメラも設置してある。

 ……はぁ。こう打算的なものだから、僕は結局、養殖で半端な変人なのだろう。

 新井進太朗、十七歳、高校二年生――筆名は明日木青葉。

 とことん本物になりきれない、駆け出し作家。

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