起 安い矜持と甘い誘惑〈3〉
明日木青葉がみずあめぽっと先生と面識を持ったのは、出版社に打ち合わせに行ったとき、エレベーター待ちの際に出くわしたのがきっかけだった。
……その時はまだ、非常勤講師と生徒の関係でもない。僕たちはそれよりも前、別の場所・別の形で既に面識があったのだが、その時初めて、この人が自分も大ファンのラノベ作家だったと知り、予想外すぎる真実に大層驚いた。向こうも向こうで、僕が現役学生作家の明日木青葉なことに『血は争えないってやつかね。いや、俺が言ったら説得力ないか』と苦笑していた。
これだけでも十分奇縁なのに、その上更にみずあめぽっと先生が非常勤講師軽辺先生としてうちの高校に訪れるなんて予想をしているわけもなく、僕らは最初に教室で顔を合わせた瞬間、正体は秘匿しあう協定を
複数の異なる間柄で繋がった、珍妙な仲。僕らは互いに自著も本名も知っている間柄な先輩作家兼先生と、後輩作家兼生徒……あともう一つの恩がある複雑な関係を保ってきた。みずあめぽっと先生は『どちらかの性別が違えばギャルゲだ』と使いでのあるネタを得たことを満足そうにし、それから、作家として全然未熟な創作の悩みにも乗ってくれるようになった。
どうしてそこまでしてくれるのか、大ベテランの時間を頂いてしまい迷惑じゃないのか、という質問に、彼はぶっきらぼうにこう答えた。
『知らん仲でもないってのもあるが、縁故だけじゃねえよ。強いていうなら業界のためだ。ライトノベルと一般文芸って違いはあっても同じ小説、文字読みが増えるのは嬉しいんでね。それでも申し訳ねえ貰いすぎって思うんなら、返したっていい。おれじゃなく、いつか誰か、書きかたがわからんで困ってる、おまえの後輩に教えてやれ』
僕みたいな作家が、創作の指導をする側になる日が来るなんて想像もつかないし、それまでににっちもさっちもいかなくなって引退のほうが余程ありそうに思えたけれど。
僕はただ、嬉しくて、軽く涙ぐんでしまいながら「はい」と頷いたのだった。
そして、現在。
スマホで示したメモ帳をざっと読み終えたみずあめぽっと先生は、ずばりと言う。
「主題がとっちらかってんな」
「ゴフッ」
一言目から腹に来た。身体がくの字に折れ曲がる。
「意図してなら別だが、この詰め込みはテーマを見るにまだ雑だろ。本当に必要だからやってるってより、これまでもこういうふうに組み立ててきたからみたいな手癖の気配がある。これじゃ後半、ぞんざいに持て余されて救われねえキャラが出るぞ」
光る眼鏡はお見通し、みずあめぽっと先生は名前と裏腹に、こちらの甘えを許さない。いつか言われた『甘いのは作風だけで結構。作家のスタイルとして、おれは糖分ひかえめだ』という金言が思い返される。
「作品は、無駄な脂肪なく、磨き抜かれてこそ美しい。それが不可欠か否か、己のリビドーに問いかけろ。結果、どうやっても抑えきれない怒張なら、迷うな。つまらん助言なんぞねじ伏せて、知ったことかと盛ってやれ。――そうそう、今作のヒロイン、いいじゃねえの。面倒臭くて魅力的だ。この子がしあわせになるところ、見せてくれよな」
「みみみ、みずあめぽっと先生ぇ……ありがとうございます……!」
甘さはひかえめ、けれど決して苦くない。指摘とセットの激励に、くじけかけた心がもう一度立ち上がる気力を得るのを確かに感じる。
「本当、助かりました……。企画は通ってプロットもOK出て執筆に入れたんですけど、その……勢いでどうにかなるだろって流したところで、案の定詰まっちゃってて……」
各編集部で違いはあるのだろうけど、僕の場合は大体が言った通りだ。最初に「こんな作品を書きたい」というアイディアの卵を何本か同時に提出し、その中から“見込みあり”と目されたものを、詳細を詰めた
それが煮詰まるまで担当編集さんと打ち合わせを行い、整った段階で編集会議に回してもらい、それが通れば本原稿の執筆に取りかかれる。
……取りかかるところまでは、進めたのだが。
「プロットって、どうやっても、本分じゃないですよね」
「わかりすぎるな」
アニメ化まで果たした売れっ子の先生でも同意してくれる。
小説に限らず創作全般、おはなしの筋書きがあるものに『最初に決めた通り』の寸分違わずエンドマークまで書き進められる人が果たしてどれほどいるだろう。
予定は予定。物語は水物で、よくある言い方だが、キャラクターは勝手に動く。
作者が決めていた筋などお構いなしに行動をはじめて、創造主にすら『修正すんの、マジで……? かなり直さなきゃいけないんだけど……』の苦労を強いる親不孝どもだ。
半分くらいは仕方ない。どれだけ苦労しようと締め切りがヤバかろうと、【もっと面白いもの】を生み出す快感に抗えないのが、作家の性分なので。
「まあ、開始十ページそこらで破綻すんのは、練りが甘いとしか言えねえけど」
「そこは仰る通りですごめんなさい!」
このあたりは、まだ言い訳がきく範囲だ。僕の担当編集さんはおっかないが同じくらいに頼もしくて、プロットから大きく逸れた原稿があがったとしても『出すに値する、より面白くなっている』と判断してもらえれば、きっちり編集長まで説得してくれる。……まさにそれをやらかした二作目の際は、ありがたすぎて土下座した。
「幸いまだ序盤だ。軌道修正は早いほうが直しは少ない。悩んで筆が止まったままだった半月への反省と、ここから先タイトになるスケジュールは、自分で供養すんだな。兼業作家は全部の時間を集中できんからこそ、筆の早さは重要だぞ」
みずあめぽっと先生の助言は逐一重い。さすがは非常勤講師をやりつつライトノベル執筆、年に六冊は違う出版社で出すという激烈スケジュールを続け、美しい筋肉まで維持している筋金入りのベテラン、来るも去るも激しい業界の
「こりゃ私見だが、新しいキャラを出すというのも手かと思う。男性③と女性②の役割を統合すれば、キャラの密度を高めると同時に、ちょうど欲しかった主人公のそばにいる気安い同僚のポジションが埋まるんじゃねえの」
……なるほど、さすがの着眼点。1フレームのパンチラさえ見逃さないラブコメの主人公めいた眼力には敬服しかない。
「――ひとりだった主人公のそばに、ある日突然やってくる、魅力的だが最低に厄介な、ヒロインではないトラブルメーカー……」
そのキャラ造形に、ふと。憶えのある悩みの種が脳裏にちらつき、訊ねてみた。
「そういえばですね、みずあめぽっと先生。今、こういうのを思いついてて……」
“
「ほーう。①家に憑いている絶世の美女、②家主の好みになるように姿を自在に変える、③悩める作家の才能を引き出す、④自分に振り向かせようと必死になる、か。……新井。おれの煩悩が喜んでいる。いい妄想だ、ラブコメ書きの資質がある」
「……ありがたきしあわせ」
こういう反応が来るだろうな、と予想していた通りのがズバリ来た。眼鏡の奥からみずあめぽっと先生が流す、良ラブコメに触れた時に流す感動の涙――通称【さらさらみずあめ】がセクシーな鎖骨に当たってはじける。
「どうですかね。僕としては、ちょい変則的な座敷童って感じかなーっと」
「そうだな。その要素はある」
「ありがちで、やめておいたほうがいいですかね? 古臭くて新鮮味がないとか。もっとエッジのきいたやつに――」
「その考えかたは危険だな」
眼鏡が光る。みずあめぽっと先生の声は、至極真面目だ。
「“誰も見たことのない新しいもの”。それは創作者にとって甘美な誘惑だ。誰だって先駆者でありたい、
「……う、なるほど」
想像し、感覚でわかると同時に、伝えかたの巧みさも身に染みる。
「ヒマでヒマでしょうがないタイミングだとしても、読者の時間や行動力は有限だ。彼らには常に選ぶ権利があり、興味が持てないものは、たとえタダでも貰わない。奇抜で未知であるというのは売りになるが、リスクでもあると知っとけ。“●●だから読んでみよう”っていう
昨今、娯楽は易く、飽食だ。楽しむためのものならいくらでも溢れる中で、きらめく星々から見つけ出し手に取ってもらうための努力なくして、選ばれることはない。
みんなが知っているもの、それは既に価値が定まり、ファンが存在してくれている場だ。欲しがってもらえる条件が整っている、豊かな土壌といえる。
「創作を稼業とするプロのみならず、己のリビドーを追求するアマチュアでも知っておいて損はない。“できただけで満足”はある種の究極だが、創ったからには見て欲しいのが創作者の抱える衝動だろう」
「……新しく掘る道は、狭くて足場も悪く。皆が使っている公道は広い上に、踏みしめられて歩きやすいってわけですね」
王道は、定番だからこその王道なのだということを改めて意識する。誰もが=自分も知っているから感情を乗せやすい。歴史に裏打ちされた、個人ではなく総体が創った魅力は、当然、皆の手がかかっているからこそ大きいのだ。
「危ないところでした。箴言、ありがとうございます」
「おれも若いころは迷走した。新たなる煩悩を突くことにばかり執心した時期があった。だが、作品を重ねて気づいたんだ。奇抜なシチュエーションは確かに派手に目を惹くが……結局基礎トレーニングの果ての正拳突きのような、シンプルな一撃こそ重く。研ぎ澄ませた普通のパンチラなんかが、もっとも男心をガチガチにするんだとな……」
なんて重厚で黒光りした言葉だろう。糖度極めた甘々ヒロインたちとのラブラブ×計算ずくに知能指数を下げた絶妙なるサービスシーンを使いこなし、業界の最前線を魂の全裸でポーズを決めながら突っ走るエロコメの雄、みずあめぽっと先生の貴重なる哲学にまたタッチさせていただいてしまった……。
「すまんな、法話みたいなことを言った。こんなのが知れたら大目玉だ、忘れてくれ。しかし……作家の才能を目覚めさせてくれる、尽くすタイプでかまわれたがりのヒロインか」
うんうんとみずあめぽっと先生が頷く。自分でもわかってるんだけれど、この、二連続打ち切りで三作目もコケたら色々ヤバいと予告されている僕みたいな状況の作家が口にすると、さも願望丸出しで痛々しさがあるなあ!
「いい着眼点だ。面白いものを持ってきた。ネットワークが大いに発達した現代では発表の場も増加していて、創作を楽しむ人もうまくいかずに悩む人も多い。“自分にもこんな子がそばにいてほしい!”と読者に思ってもらえれば、いい売りになるよ」
期せずして誉め言葉を受けた。普通なら照れるところなんだけど、このキャラは考えたというより不審者女の特徴を伝えただけなので、複雑な気分だが――。
「新井は座敷童と言ったが、おれはリャナンシーをイメージしたな」
「リャナンシー……? もしかして、外国の座敷童的な?」
「いや。一般的な座敷童……家に住み、運気を左右する存在とは違う。ただ、似てるところがある。人に関わり、よきものをもたらすことや……座敷童が去る時、その家は没落すると言われるように、ありがたいだけの存在ではないというところが」
ぽつ、ぽつ、ぽつと。僕の頭の中には、プロット未満のネタ帳のように、個別に打たれた情報の“点”がある。
それが、繋がる。
「リャナンシーはな、人の男性へ恋し、求愛する妖精だ。その愛を受け入れた芸術家は才能を得て、優れた作品を作り出すが……代償に、生気を吸われ、早死にする」
あの家に住みだしてから傑作を生み出し始めた早瀬桜之助。ちらつく女の影。
朝の散歩に出た折りに倒れ、三十九歳の若さで亡くなった人気作家。
「もし目の前にリャナンシーが現れて、今までの自分では、この先も独りでは絶対に思いつけない傑作を、命と引き換えに書けるチャンスが巡ってきたとき。はね退けられる自信、絶対とは言えんね。何しろこちとらは、煩悩の乗り物だもんで」
みずあめぽっと先生は、ありえない想像として、思考実験として笑う。
僕は、現実を誤魔化すために、笑った。