第一章 どこにでも現れる野良猫みたいな その5
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「最近の大野さん、いつにも増して元気ない感じじゃないですかー?」
六月に入ったころ。
朝七時に始業する早番からの残業で二十時前に退勤し、いつものコンビニに立ち寄ると品出し中のノラ子に絡まれる。
「そんなに元気ないように見えるか?」
「いつにも増してアホみたいな顔してますよね~っ! ネガティブ眼鏡オーラがこっちにまで漂ってくるっていうか~心配になるっていうか~?」
「一言どころか二言くらい余計なんだよなぁ」
「ひゃ~っ!
やかましいコンビニ店員の口を封じるため、両頬をかるーく引っ張る。
うにょーんと頬が伸びたまま喚くノラ子が完成した。
「なにか悩みごとですかねぇ? もしよかったらノラ子様に話してくだされ~」
頬から手を離した途端にまた元気よく喋り出したが、少しばかりの気分転換になるので助かったりもした。
あと、ノラ子って名乗ってやがる。実は気に入ってるじゃん。
「……仕事でちょっと疲れてるだけだって」
「それなら疲労回復に栄養ドリンク飲みまくりましょ~」
俺が持っていた買い物カゴに栄養ドリンクを放り込むノラ子。
「客のカゴに無断で商品入れるバイトがどこにいるんだよ」
「えへへ~、お店の売り上げに貢献してほしいなぁ~って! あとバナナも食べましょ! 栄養満点のバナナ~っ!」
舌をぺろりと出す小悪魔スマイルが眩しい。
店長もこんなバイトを野放しにするなよ……と呆れているうちに、買い物カゴがバナナで埋まっていた。
「わたし、今日は二十時までなんですよ~」
レジで会計してもらっている途中、ノラ子がわかりやすく『もうすぐ退勤アピール』をしてくる。
「そっか。お疲れさん」
「せっかくだし一緒に帰りませんかぁ?」
「社員寮はすぐ近くなんで遠慮しときます」
からかっているだけだろう。
意図が読めない誘いを華麗に受け流し、釣り銭とレシートを受け取った……が、
「そういえば、眼鏡にマスクの彼女さんと食べるハンバーガーは美味しかったですか?」
――心臓が、どくんと跳ねる。
ノラ子が発した言葉が困惑を誘発し、動きが止められてしまった。
彼女持ちなのは話した覚えがあるものの、当てずっぽうにしては具体的すぎる。
「……お前、もしかして見てたのか?」
「えへへ! どこにでも現れること野良猫の如し!」
「どこからどこまで?」
「彼女さんにバックハグしてもらってイチャついていたところから話しましょうかぁ?」
「わかったわかった! 俺が悪かったから!」
にっこりと笑むノラ子の軽口を慌てて掻き消す。
先日の一部始終をばっちり見られていたらしく、恥ずかしすぎて穴に隠れたい気持ちがようやくわかった。
「大野さんとお話ししたいな~って思ってたので、今日は一緒に帰りましょ! ねっ!」
その意味深な誘いに抗う術はなく、渋々ながら首を縦に振った。
一緒にいた彼女が小犬沢彼方だとバレた可能性も脳裏を過り、ノラ子の思惑を確かめておきたかったから。
程なくして退勤したノラ子。
その手にはビニール袋がぶら下げられていた。
「あ~、これですか? 廃棄品をもらってるんですよ」
俺の視線に勘付いたノラ子はビニール袋の中身を見せてくる。
弁当やおにぎりなどの食品が何個か入っていたが、廃棄ということは消費期限が切れたコンビニの商品なのだろう。
「廃棄って今は持ち帰れないんじゃなかったか?」
「ここはフランチャイズなのでオーナーから特別に許可もらってます! このコンビニでバイトを続けている理由ですねぇ♪」
コンビニの前で嬉しそうにビニール袋を掲げてくるノラ子。
俺も学生のころは廃棄品目当てにコンビニで働いたな……とか、どうでもいい懐かしさを勝手に覚える。
ノラ子の帰路に付き添い、駅前のほうへ。
しかし行き先はノラ子の家ではなく、彼方とハンバーガーを食べたファストフード店に連れてこられた。
「おいす~っ! 店長、調子はどうですか~?」
「おー、猫平さん。今日はシフト入ってないよね?」
「今日はコンビニでした~っ! 来週はこっちのシフトにも結構入れるので~っ!」
「来週はクルーが少ないから助かるー。よろしく!」
入店早々、ノラ子は店長らしき大人とフレンドリーに話し始める。
「その人は? もしかして彼氏とか?」
「そんなわけないじゃないですか~っ! 知り合いの眼鏡くんですよ~っ!」
俺の存在が気になった店長へ、半笑いのノラ子がゆるーく説明した。
知り合いの眼鏡くんなのは認めるが、なんか腹立つな。
「夕飯を食べたいんですけど、今月は学校が忙しくて金欠でぇ……」
「そういうことなら僕が奢ってあげる! いつもよく働いてくれてるからね!」
「うわーっ、ホントですか? さすが店長~嬉しすぎる~っ!」
ここまで計算通りか!
表情豊かで人懐っこいノラ子は他人に好かれやすいのだろう。コンビニの廃棄に続き、ハンバーガーも無料でゲットしたのが世渡り上手を物語っている。
「お前……どこでもバイトしてるのな」
「まっ、そういうことですな。バイト中に大野さんと彼女さんが店に入ってきたので、隠れながら様子を見守ってたんですわぁ」
「ここら辺の店はほとんどノラ子がいそうなレベル」
「えへへ~、お金大好きなフツーの女子高生なんですよねぇ」
そりゃあ一部始終を目撃されるわけだ。
「大野さんは注文しないんですかー?」
「どこかのアホ店員にバナナを大量に買わされた。これ以上の無駄遣いはしない」
「はいはい、そうですかー。一人で寂しくバナナでも食べてくださーい」
フィレオフィッシュセットが並ぶトレーを受け取ったノラ子は「わたしは魚派なんですよね~」とか抜かしつつ、見覚えのある隅っこの席へトレーを置く。
そう、俺と彼方が座ったテーブル席だ。
「ポテト食べますか~?」
「いらん」
ノラ子の対面に着席した途端、フライドポテトを差し出される。
女子高生に恵んでもらう社会人は情けないので断ったが、ぐう~と腹が鳴る。
「えへへ~、腹ペコじゃーん。はい、あーん♪」
会社の食堂で昼飯を食べてから飲まず食わずだったため、空腹は最高潮へ。
正常な判断が揺らいだ俺は口を開けたものの……引っ込められたポテトはノラ子の唇に挟まれ、もぐもぐと口内へ消えていった。
「大野さんって、意外と可愛らしいところもあるじゃないですか」
……大野
手玉に取られた。満面の笑みを浮かべる年下の女子高生に。
「……で、俺に何か聞きたいことがあるんじゃないのか?」
「なんですかぁ、いきなり? 大野さんに聞きたいこと?」
「彼女のこと、とか」
「あー、眼鏡にマスクの? わたしよりも可愛いんですか~?」
「断然、お前より可愛い」
「ほほーん、それじゃあ彼女さんの写真みせてくださいよーっ!」
「それは嫌だ」
「わたしのほうが可愛すぎて困っちゃいましたかー、彼女さんの完敗ですかー」
あからさまに調子に乗りやがった!
高らかに宣言してやりたい。俺の彼女は店内のポスターにも写ってるって……あの小犬沢彼方だって。自分からは絶対に言えないけどさ。
「でも、彼女さんの顔を見たかったな~。目元とか髪型、それにファッションの感じだとオタサーでモテるインドア美人みたいな雰囲気でした!」
「……俺の彼女、花粉症なんだよ。春は眼鏡とマスクがないと外を歩けないんだ」
「あはは~、美人の持ち腐れですね~」
俺はあえて探りを入れてみたのだが、意外にもノラ子は残念そうに嘆く。表情や雰囲気を見る限りでは、俺をからかって反応を窺うための演技……とは思えない。
「最初はお忍びの芸能人か何かだと思いましたけど~、都心を離れて顔を隠しながらこそこそデートしなきゃいけないレベルの人が大野さんと付き合うわけないか~」
見抜かれたのかホントに知らないのか、どっちだよ……!
俺が勝手にどぎまぎしているだけかもしれないものの、二十四歳の大人が十七歳の女子高生に会話の主導権を握られている。
「わたしが思うに、大野さんは素直さや遊び心が足りないようですねぇ」
「知った風なことを言うのな」
「まあ、深くは知りませんけど! 大野さんと知り合ったここ二ヵ月くらいの印象とか彼女さんとのやり取りを観察した感想ですよぉ」
ノラ子はストローを咥えてコーラを啜りつつ、つらつらと率直な意見を並べてくる。
「恋する女の子っていうのは~好きな相手や恋人からの愛情表現が見えないと不安になっちゃうものなんです」
「片思いならともかく、恋人同士なら言葉や態度で表さなくても伝わるだろ」
「はぁ~~、このバカ。それはただの理想論! 恋愛素人の間違った思い込みです!」
清々しいくらいに呆れられ、手厳しい言葉を容赦なく投げ込まれる。
「彼女さんからはわかりやすい愛情表現がありましたよねぇ? それはあの日だけの特別な言動でした?」
「いや……会ったときは見せてくれるけど」
「それで、大野さんからは何かお返しをしてます? ちゃんと笑ったり、自分からデートを盛り上げようとしたり、甘い言葉を囁いたり、自分から手を握ったりしてますか?」
即答できない。交際を始めてから今までを思い返すまでもなく、あいつからの愛情表現は贅沢すぎるくらい受け取っている。
俺のほうは、どうだろう。
彼方がたまに言う『素直じゃない』に甘え続け、積極的なあいつに任せるのが当たり前になって、一方的に愛情をもらい続けているだけじゃないのか?
「彼女さんが一緒にいることに慣れてきて、いつの間にか自分は何もしなくても相手は好きでいてくれると無意識に思ってません?」
「思ってない」
……と言いつつ、心の芯に太い杭でも打ち込まれた感覚だった。大野一郎と小犬沢彼方の関係性が他人の瞳にどう映るのかを、改めて思い知らされたから。
「そもそも、お前には関係ない話だろ。かな……彼女と俺はずっとこの距離感でやってきたんだ」
「ごもっともです! すみません、お節介な性格でー」
何が言いたいんだよ、こいつは。
俺と彼方の関係にしつこく言及してきて……意図がわからねぇ。
「最後にいつ、キスしましたか?」
「それをいちいち言う必要ないよな」
「はいはい、そーですね。まあ、先日のデートでは一度もキスしてなかったのは確かですし、それ以上のこともしてないと思いますけど」
正直に答えるのも癪なのではぐらかしたが、ノラ子はうんうんと頷く。
「あの日以降、彼女さんに会いましたー?」
「……お前に心配されなくても会いまくってる」
「それはよかった! 他人の恋路を心配する必要はなかったですねっ」
ノラ子へ嘘をついてみても、自分自身は誤魔化せない。心の奥底に沈殿していた不安がかき混ぜられ、徐々に拡散していくような気分に陥ってくる。
「ちなみにどっちから告白したんですかぁ?」
「俺は誰かに『好き』って伝えたことは一度もないが、あいつも『自分からじゃない』って言い張ってる。どっちが告ったか論争が続いてるんだよ」
「彼氏のほうからは一度も気持ちを伝えてない……ですか。もしわたしが大野さんの彼女だったら『この人は本当に自分を好きでいてくれてるのかな』と心配になります」
「いや、だから……デート中の空気感でなんとなく好意は伝わってる、と思う」
少なくとも俺のほうは、だけど。
「大野さんが〝心配ない〟と思っていても、彼女さんのほうがどう思っているかはわからない。好きって気持ちを言葉や行動にして伝えないと、向こうも不安になるんじゃないですかねぇ」
ノラ子は脆弱な部分を見透かし、不気味な優しさで突いてくる。
もし、彼方が愛想を尽かす未来があるとしたら。
好意を受け取るだけの気楽さに甘えた消極的な俺のせいで、あいつを不安にさせてしまうとしたら。
現状、俺たちは数ヵ月に一度しか会えておらず、最後にいつキスをしたのかも即座に思い出せないほど行き違っている。
恋人の距離感が壊れることは絶対にない、とは言い切れない。
「……わからないんだよ。どうすれば彼女が喜ぶのか、どういう言葉で語り掛けるのが恋人らしいのか。俺にとってはあいつが唯一の友達で……初めての彼女だったから」
隠していた焦燥が煽られ、女子高生相手に本音を吐露してしまう。
「要するにあなたは恋愛経験値が極端に少なすぎる、と。恋人らしいことを自分から積極的にはできない……いや、どうすればいいのかわからないという現状ですな?」
「……ああ、そうだよ。彼女がどう思ってるのかはともかく、彼氏として明らかに物足りないのは自覚してる」
さすがに観念して認めるしかない。
「はあ~~……わたしが思った以上に大野さんは恋愛初心者だったんですね~」
思った以上の恋愛初心者。
ぐうの音もでないほど正論で紛れもない事実。
あからさまな溜め息を漏らしたノラ子は、やや口角を上げて意味深に微笑んだ。
ここからが本題。
そう言わんばかりに俺を正面から見据え、口を開く。
「今からでも遅くないですよ?」
「……はっ?」
「恋愛の経験が足りないなら、今からでも勉強すればよくないですか?」
挑発じみた眼差し。息を吹きかけるような湿った声音。
「わたしと〝恋人の練習〟してみましょう」