逆行前のお話②
「おかえり、エマ」
「ただいま!」
『現在』に戻ったエマがゆっくり瞼を開けると、目の前にはイアンが座っている。ここは、王宮内の『時渡り』専用に設けられた部屋だった。
「これで、エマが時を移動できる残り時間は0になったね。長い間、本当におつかれさま」
「イアンも、時属性の護衛兼側近としての役目はいったんお休みになるのよね。あなたこそ、これまで本当にありがとう」
イアンのスティーブンソン
さっき……三か月後のイアンは思い詰めたような声をしていた。目の前の彼の穏やかな様子とはあまりに対照的すぎて、エマは
(彼は、一体何を伝えようとしていたのかしら。でもいいわ。どうせ、少し先の未来で分かることなのだもの)
ねぎらいを伝えながら笑うエマに、イアンはほっとした表情を見せる。
「役目を終えたエマは、サグデン
「だといいんだけどね」
『時』の属性を持つ者は、めったに現れない。……にもかかわらず、
それは、『時』の能力には制限が多く、限界もあるからにほかならない。あらかじめ決まった宿命を終えると能力を完全に失ってしまい、生活魔法しか使えなくなるのだ。
だから、ある程度以上の地位を持つ貴族たちは自分の子どもが時属性ではあって欲しくないし、それを
「……でも、彼はきみのその性格を知らないもんな」
「あら! イアンにだって知られるつもりはなかったのよ? でも、十年近くずっとべったり
エマは、
エマの祖母は優しく
もちろん、イアンに初めて会った時点ではまだ幼いながらも淑やかな令嬢に見せかけていた。けれど、四六時中一緒にいて隠し通すのは無理というものだ。
「ついさっきまでマニュアルに文句を言っていても、担当大臣に会ったとたん、コロッと
「
「あと、夜会でしつこく
「あれは、イアンが何とかしてくれると思ったの。
開き直って
「……僕は『素のエマ』のほうがいいと思うけどね」
「イアンって本当に変ね。そんなことを言うのはあなたぐらいだわ、きっと」
今夜は、このあと国王
次に仕事があるのは、新たに時属性を持つ者が出てきたときだ。その人間に
(『時渡り』の能力が他国に
夜会に出席する準備のために、自室へと向かうエマの足取りは
自室へと戻ったエマは、
小さい
自分の属性がめったに出現しない『時』だったせいでその夢は絶たれてしまったけれど、
……が、今日は少し勝手が違う。バーナードが贈ってくれたドレスは、エマがあまり着ることのない
(いつも、シンプルなものしか着ないから……こんなに愛らしいデザインのドレスにはどんなコーディネートがいいのかしら)
コンコン。
「はい」
「エマ! 今日はおめでとう!」
「アネット」
エマが鏡の前で
「バーナード様がエスコートをするために
「そうなの。わざわざありがとう」
心を許せる友人の訪問に、エマは微笑む。エマと、バーナードと、アネットは幼なじみだ。時属性を持つ者が貴族令嬢だった場合、
エマの場合は、それが幼なじみでもあるバーナードだった。ちなみに、エマが時属性を目覚めさせた時点でシーグローブ家は男爵家から子爵家に、バーナードの家はエマとの婚約が交わされた時点で子爵家から伯爵家に
(……あれ?)
視線を下げたエマは目を見張った。アネットが着ているドレスが、エマのものとほぼ色違いと言えるくらいに似通っていたからだ。
エマのドレスは薄いピンク。一方、アネットのドレスは
まるで、エマのドレスのデザインをベースにすべてをワンランク上げたような、そんな仕上がり。
アネットは、エマの視線にすぐに気が付いたようだった。
「バーナード様と一緒に……じゃなかった、ええと、彼とちょうど仕立て屋さんでばったり会ったの! それで、エマのために作るドレスのデザインをベースに私好みにアレンジしてみたの。……エマとおそろい!」
「そ……そうなのね」
幼く笑うアネットにエマは
とにかく彼女は、何でもエマと一緒が安心するのだ。
エマのほうも、えへっ、と笑うアネットを見るとまぁいいか、という気になってしまう。そんな関係をずっと続けてきたのだ。
(私のドレスを参考にしたというよりはアネットがデザインしたみたいに見えるけれど……疑うのはよくない、うん)
心の奥底に芽生えた不信感をかき消すように、鏡に向き直って髪の毛をまとめる。
でも少なくとも、今自分が着ているこのドレスは
「エマ・グレイス・シーグローブ、こちらへ」
「はい、陛下」
今日の夜会のメインイベントは、『
「まだ少女だった頃から、世話になったな。いろいろなことを
「ありがたいお言葉、
国のために『時渡り』をするようになった頃、エマはまだ子どもだった。負担をかけすぎないよう計らってくれたのはほかでもないこの国王だった。
この、
「……うむ。では、勲章を」
その言葉を合図に、エマは立ち上がる。すると、彼女の
(これで、私の『時渡り』としての仕事は終わり)
国王に一礼し、
エスコート役であるバーナードがいないので、気が付くとエマの周りには彼女に祝福を伝えようとする人々が集まってくる。
ところで、この国では年頃の淑女が夜会を一人で過ごすことは望ましくない。
(バーナード様はどこへ行ってしまったのかしら……アネットの姿もないわ)
「エマ嬢、お久しぶりです。私のことを覚えておいでですか」
聞き覚えのある声に
「ええ、スタンリー様。ご
「今日の夜会はダンスがなくて残念です。せっかく、お一人でいらっしゃるのに」
彼はおもむろにエマの手を取り、そのまま手にキスをしようとした。
(うわぁ!)
「……キャシー様はお元気にしていらっしゃいますか?」
「あ……ああ」
あまりにも
この国では、手の
だから気軽に手を預けてはいけない、この国の子どもたちは物心がつくとそう教えられる。
(それにしても、バーナード様は一体どこへ行ってしまったのかしら。このまま、夜会の終わりまで過ごすなんて……)
今日はエマのための夜会だ。エスコートなしでは周囲に人が集まりすぎてしまって、満足に歩くことすら難しそうだった。
「私はこれで。キャシー様によろしくお伝えくださいませ!」
友人の兄をなんとかやり過ごしたエマは、できるだけ気配を消して会場の
(おいしそう……)
エマが
おかげで、エマの周りは静かになった。……けれど、お
(今日は朝から
目の前には、大好きなフルーツオードブルが並んでいる。
「……何かお取りしましょうか」
様子をうかがっていた方向とは真逆から
「いえ、
ありがとうございます、と続けようとしたが、声の主にエマは目を見開いた。
ハッとするような洗練された
彼の三白眼ぎみの切れ長の目に光る、
整った外見にあまり興味を示さないエマでさえ、ハッとしてしまうほどの独特のオーラがあった。
(……私は、彼のことを知っているわ)
「……ああ、私のことを?」
頭の中を
「はい。魔法学校でご
「よく覚えてるね」
彼の口調が急に
「私は、エマ・グレイス・シーグローブと申します。確か……あなたはグレン……」
「いや、俺はレスターだ」
──あれ。
彼の名前が、自分が思っていたものと全く違うことにエマは首を
いいや、そんなはずはなかった。彼はグレン。友人たちが、
一つ記憶を取り出すと、どんどん思い出してくる。そう、彼がやってきた日の魔法学校は、本当にすごい
日ごろから
「あなたは……レスター様、なのですか?」
「ああ、そうだ」
エマは改めて彼の様子を見る。彼は、この
なぜ、こんな
(無用なトラブルに巻き込まれないように、早くこの場を
──それにしても、名前が記憶とは違う。
そう思って
「それより、あそこ。
「え?」
彼が指さした先は、バルコニーだった。風にはためくカーテンの向こうで、何やら押し合っているように見えるのはバーナードとアネットだ。
二人が何か会話を交わして、バーナードが勢いよく会場に
「私の婚約者と友人ですわ。……これで、失礼いたします」
ただならぬ二人の様子を認めたエマは、レスターに軽く
心臓が
揉めている二人を心配そうに見守る人の波を
(でも、まさかそんなはずは。きっと
そう思いながら、揺れているカーテンに手をかける。
「二人とも、どうしたの?」
急に現れたエマを見て、バーナードとアネットは固まった。婚約者であるはずのバーナードは、なぜかこちらに敵対するような視線を向けてくる。その後ろで、アネットは泣きそうな顔をしていた。
「エマ」
「……はい」
「僕たちの結婚は……取りやめにしないか」
エマがその言葉の意味を理解するよりも前に、様子を見守っていた周囲がどよめいた。
「それは……どういうことでしょうか、バーナード様」