カーテンを開けなくても、部屋の中が明るいのは分かった。
わずかな布の隙間から差し込んだ光が眩しすぎて、目の奥をじぃん、と刺す。
反射的に被り直したブランケット越しに感じるお日様の匂い。それから、きっと窓が少し開いているのだろう。実家、シーグローブ子爵家の庭にもある白い花が咲く木の芳香が流れ込んでくる。
──懐かしい。あの花は、何ていう名前だったっけ。
三秒後に失われるまどろみの中に、エマ・グレイス・シーグローブはいた。
「エマ! いつまで寝ているの!」
静穏を破ったのは、母の声だった。
「……ええ……もう少しだけ……」
言葉にできない違和感を覚えつつも、ブランケットの奥深くへとさらに潜る。懐かしい柔らかさと、安心感。まだ夢を見ているのかもしれないと思った。
「今日は魔法学校の入寮の日でしょう! 迎えの馬車がもうすぐ来てしまうわよ!」
──ああ、やっぱりここはまだ夢の中なのだ。
だって、自分はもう十九歳。とっくに独り立ちをしている。魔法学校に入寮したのは十五歳の春のこと。昨日起こった悪夢のせいで、一番幸せだった時期の夢を見ているのかもしれない。
もっとも、あれは悪夢ではなくて現実だったけれど。
脳裏に昨夜の光景がちょっとだけよみがえる。夢の中でぐらい残念すぎる現実の世界を忘れたいのに、どうして。ブランケットの中で、エマは息をついた。
とりあえずこの眩しさを何とかしよう、とベッドの中から手を伸ばす。
エマの部屋は一年前からこのローウィル王国の王宮に置かれていた。ベッドのすぐそばには窓があって、魔法を使わなくても寝転がったままカーテンの開閉ができるところがお気に入りだ。
頭からブランケットを被ったまま、ぬっ、とベッドから手を伸ばす。あるはずのものがそこにないことを知る前に、その手はぴしゃりと叩かれた。
──痛い。
「いい加減に起きなさい!」
しがみついていたブランケットから引きはがされ、その反動でエマは床にごろんと投げ出された。やけにリアルな夢。固い床の感覚と冷たさに身をすくめる。
「い……痛い」
「エマ、もう十五歳なのよ。いい加減になさい。今日からあなたは魔法学校の寮に入って一人暮らしをするっていうのに……そんなんじゃ、心配だわ」
目を擦りながら見上げた母の顔は、エマが知っているものより少し若い。最近ダイエットを成功させてしゅっとしたはずなのに、この母の顔は丸くて、ちょっとだけふっくらしている。
どちらにしても、美人と評判で自慢の母には変わりないけれど。でも、このままの母のほうが可愛らしさがあって好きだったなぁ。そんなことを考えていると。
「……エマ? 何か様子が変ね。……予定にはないけれど……あなた、『時渡り』中のわけではないわよね?」
「まさか」
母のありえなすぎる問いに、エマはつい反射的に否定した。
「そう。そうよね。……あ、今日はあなたの婚約者のバーナード様も入寮されるんでしょう。あなたは容姿を褒められる機会が多いけれど、それに怠けずきちんとするのよ。バーナード様に恥をかかせないように」
──ああ、あのバーナード様ですか。
せっかくの祖母譲りのこの容姿も、あの二人の真実の愛の前では無意味だったことを改めて思い出す。どうせ、この夢の時点から四年後に婚約は破棄されることになるのだ。
「……はーい」
心の中で毒づいたけれど、あのふてぶてしい彼の顔を夢でまで思い出したくなくて、適当に返事をする。
エマが床から立ち上がってベッドに腰掛けるのを確認すると、母は部屋から出て行った。
『……カーテンを』
人差し指を窓に向けて軽く振ると、開きかけていたカーテンがぱあっと全開になる。窓の外に広がるのは、十五歳で魔法学校に入寮するまで暮らしていた実家、シーグローブ子爵家の庭の風景だ。
やっぱり、窓は開いていた。そこから漂う特別な甘い匂い。この白い花の香りはノスタルジックで、夢の中なのに涙腺を刺激してくれそうだった。
「……それにしても、本当にリアルな夢」
あるはずがないとは分かっていながらも、エマは自分の右手の甲に目をやった。そして、魔力を流して言ってみる。
『印を』
昨日を最後に、ここに浮かび上がる数字は0になったはずだった。国王の前でこの呪文を唱えても何も起きないことを確認し、役目を終えたのだ。
──けれど、予想に反して手の甲に浮かんだのは『∞』だった。
「……!」
エマは息を吞む。その瞬間、昨夜の出来事が頭の中を駆け巡った。
怒りを覚えることすら忘れそうなほど間抜けな元婚約者の顔、信じ切っていた無垢な親友が泣きじゃくる姿、怒りと焦りを湛えた幼なじみの王子。
そして最後に、好奇の視線を向ける観衆の中で自分の手を取って口づけた一人の青年の姿が浮かぶ。……と同時に、胸がどきんと跳ねた。
彼が口づけたのは、奇しくもこの右手だった。エマは、それを思い出して頭をぶんぶんと振る。そして、流れでそのまま自分の頬をぎゅうっと抓ってみた。
(……い、痛い)
信じがたい違和感に、エマは恐る恐るドレッサーの前まで歩み寄り、見慣れたはずの自分の顔を覗き込む。昨夜の夜会でアップにしたはずの髪は肩のあたりではね、記憶より幼い自分がこちらを見つめていた。
──えっ、待って。もしかして、これは夢ではない?
ぼうっとしたままの意識の、輪郭がだんだんとはっきりしてくる。
エマはやっと察した。自分は偉才としての禁忌を破り、四年前の世界に戻ってしまったようだ、と。