<二>厩舎にいるモノ①
サージェント家には立派な廏舎が二
敷地の奥にある赤い屋根のものと、それより手前の広い放牧場の中にあるものだ。後者のほうでは何十頭もの馬を飼っている。
廏舎の二階は馬丁や
翌朝、アシュリーはそっと寝室を
空はしらじらと明け始めている。一応オイルランタンに火を
(ここだわ)
茶色いレンガの
ただ正面
(結界が張ってあるということ?)
ここまで来たら、中にいるものの声や音がしたり、もっと濃い瘴気が流れていたりして何かしらわかると思ったのだ。それなのに──。
甘かった、とショックを受けた。
(クライド様たちはまだ中にいるのかしら?)
昨夜アシュリーが
ここにいるのがばれたら
けれど、どうしても確かめなければならない。
よし、と気合いを入れて正面扉に手を
だが、びくともしない。窓を一つ一つ
困り果てて、何とか
無理だった。
(なんて厳重なの。でもここまで念入りにしているんだから、本当に
期待が高まる。その時だ。
「動くな」
「……!?」
首の後ろに冷たく
聞き覚えのある声に、
案の定、そこに立っていたのはクライドである。
差し出す右手の人差し指が、魔法で
(すごい魔力だわ。確か、勇者も強大な魔力を持っていたのよね)
クライドがすぐ後ろにいることだけでも
「ここで何をしているんだ?」と、クライドが低い声で問う。
「ここへは近づくな、と言っておいたはずだけど」
焦った。魔族がいるかもしれないと思ったから、なんて答えるわけにはいかない。
しかしアシュリーは
体の
「……
「言えないと言ったよね?」
「そうですけど、どうしても知りたいんです……!」
「なんでそんなに知りたいんだ?」
「……言えません」
「なるほど。俺と一緒だね」
話す間も、決して視線を外してもらえない。まるで
そして
瘴気には色がないので目に見えないけれど、人間にとって有害である。吸い込むと気分が悪くなったり、体調を
ただしそれは魔力を持たない人間にとって、だ。クライドや魔術師たちは、自身の持つ魔力で身を守れる。
アシュリーは
それでも六百年ぶりに思い出した今は、とても幸せな匂いに感じる。
気分が悪そうに眉根を寄せながらも
「ひょっとして気持ち悪い?」
「まあ、はい……」
「そうだよね。ちょっといい?」
クライドが手を伸ばし、アシュリーの頭に
(ひいっ!)
クライドが
「そんなに
「……な、なぜ、このようなことを?」
「反応が楽しいから」
「……!?」
「
「なるほど。瘴気から守ってくれるんですね」
「──そうだね」
声の調子が変わった。ふと顔を上げると、目が合った。
(……どうしたのかしら?)
まるで、目当てのものをようやく見つけたような──。
もう無いはずの、アシュリーの長い二本の耳がぴんと立った気がした。すなわち「
(なぜなの?)
理由がわからない。
「この中に何がいるのか知りたいんだよね? 中に入って見てみる?」
「いいんですか!?」
「もちろん」
どうして突然許しが出たのかという疑念より、中に入って確かめられるという
「俺の
クライドが
さらに扉を押し開けて、クライドが中を手で示した。
「どうぞ」
(いよいよだわ)
高まる期待を胸に、アシュリーは一歩
内部は想像していたより
馬房の奥は中庭で、二階の天井まで
廏舎の中には濃い瘴気が立ちこめているはずだが、匂いがかすかにするだけだ。気持ち悪さも感じない。
(クライド様の魔法、すごいわ)
恐れながらも
中庭の
「ちょっと! そこ、まだ
「うるさいな。ジャンヌはいちいち細かいんだよ」
「あんたが
「文句言うくらいなら、全部自分でやれよ!」
ジャンヌが腹立たし気に、持っていた石けんを地面に
「えっ、アシュリー様……? なぜ、ここにいるんですか?」
と、けげんな表情になった。
クライドはそれには答えず
「知っていると思うけど、改めて
「はあ……」
「アシュリー、こっちは先ほど食堂で会ったジャンヌ。そしてこっちはハンクだ。二人とも宮殿から
たらいを手に、ハンクは
アシュリーは二人に頭を下げ、
クライドが中庭のさらに奥にある、鉄の
「アシュリー、あの奥に、王家から預かっている生き物がいるんだ」
「……!?」
興奮して
「見てみたい?」
「はい!」
「ちょ、ちょっと待ってください! あれはトルファ王家から預かっている、とても大事なものです!」
「婚約者といえど、さすがに知られるわけにはいかないでしょう!」
必死の非難を手で制し、クライドが静かに続けた。
「
「そういう問題ではありません!」
「
「わかってるよ。でも、この四年間なんの進展もなかった。やっと
口調に確信が
「念のために俺の側を離れないでね。さあ行こうか」
いよいよだ。期待に指先が
奥にある鉄の扉にクライドが手をかけた。これほど近くにいても、鳴き声は
(……本当に魔族がいるのかしら?)
けげんに思った後で、もしかして、と血の気が引いた。口も動かせず、身動きすらできないようにされているのでは?
もしそうなら、なんとしても助けたい。アシュリーは決心して足を踏み入れた。
入口側の馬房と同じく、アーチ形の天井は高く、室内も広い。
そして、細かい石が
驚愕のあまり、大声をあげるところだった。
馬房の中央に寝そべる大きなもの。このトルファ国には決して存在しないもの。
三角の耳がついた
固く目を閉じているけれど、背中がかすかに上下しているので生きているとわかった。
魔王の側近だった
(
興奮が押し寄せてきて言葉にならない。
六百年前に命を落としたと思っていた。それなのにこうして目の前にいる。感動で
黒狼は高い魔力と強靭な歯と
葉っぱを
ただ弱者をいじめる上級魔族も多い中、黒狼は下の者にも
今は
(……でも、どうしてここにいるの?)
サージェント家の
そこでクライドたちの存在を思い出し、しまった、とうろたえた。
慌てて
当然である。そこにいるのは
どう言いつくろおうか焦っていると、背後から
「アシュリー」
すぐ頭上から声が降ってきた。クライドの声だ。
クライドに後ろからきつく
(ひい──っ!!)
なんとか悲鳴は押しとどめたけれど、全身におぞましさが走った。婚約者なのだから本来は頬を染める状況なのだろうが、冷や
ジャンヌが燃えるような目でにらみつけてきた。
けれど極限状態のアシュリーの視界には入らない。ただでさえ
「魔獣を見ても
なんとか
「……なっ、何をおっしゃっているのかわかりませ──」
「あれは魔獣、黒狼だよ。でも、アシュリーは知っていたんだね?」
「そんなこと知るわけが──!」
「ここに満ちる魔獣が生み出す
ザッと血の気が引いた。覚えている。確かに『瘴気』と口走った。激しく
「そっ、それはきっと、クライド様が先に『瘴気だ』と言って──」
「言っていない。ずっと気をつけていたからね。絶対に口にしていないと断言できる」
はっきりと否定されて泣きたくなった。
アシュリーを抱きしめる腕に、さらに力がこもる。
「なぜ知ってるんだ?」
(なぜ……って言えるわけないわ!)
今すぐどこか遠くへ逃げてしまいたい。けれどクライドの胸の中にしっかりと引きこまれているため、身動きできない。
(ひょっとして、この体勢は──)
アシュリーを逃がさないためだ、とわかった。絶対に答えをもらうために、クライドはこうしているのだ。頭の中が真っ白になった。
(どうしよう。なんて答えればいいの……!)
ジャンヌのきつい口調が聞こえた。
「アシュリー様、クライド様が聞いておられるのですよ。知っていることを
逃げ場はない。冷や汗が背中を流れ落ちた。
腕の中でうつむき震えるアシュリーを、クライドがじっと見つめている。
やがて
「──わかった。今は答えなくていいよ」
想像もしていなかった言葉に、アシュリーは驚いて顔を上げた。