<二>厩舎にいるモノ①

 サージェント家には立派な廏舎が二むねある。

 敷地の奥にある赤い屋根のものと、それより手前の広い放牧場の中にあるものだ。後者のほうでは何十頭もの馬を飼っている。

 廏舎の二階は馬丁やぎよしやしんしつになっていて、彼らは交代で馬の世話をしている。馬は貴重な財産なので、どこのていたくでも大事にあつかわれているのだ。

 翌朝、アシュリーはそっと寝室をけ出した。

 空はしらじらと明け始めている。一応オイルランタンに火をともしてきたが必要なかった。

(ここだわ)

 茶色いレンガのかべに赤い屋根、き出たえんとつしきの別棟に負けないくらい立派な造りで、外観は特に変わったところはない。

 ただ正面とびらのすぐ前にいても、瘴気の匂いはいつさいしない。音も声も聞こえない。不気味なほど静まり返っている。

(結界が張ってあるということ?)

 ここまで来たら、中にいるものの声や音がしたり、もっと濃い瘴気が流れていたりして何かしらわかると思ったのだ。それなのに──。

 甘かった、とショックを受けた。

(クライド様たちはまだ中にいるのかしら?)

 昨夜アシュリーがる前は、クライドはまだ廏舎からもどってきていないとロザリーが言っていたけれど。

 ここにいるのがばれたらおこられるだろう。前世の勇者の冷たい目を思い出して、ぶるいした。

 けれど、どうしても確かめなければならない。

 よし、と気合いを入れて正面扉に手をばした。びようがいくつも打たれたじゆうこうな正面扉を、力いっぱい押す。

 だが、びくともしない。窓を一つ一つかくにんしたが、一階も二階もすべよろいが下りている。裏口の銅製の片開きの扉も、思いきり引っ張ってみたが開かない。

 困り果てて、何とかすきから中が見えないかと、正面扉にへばりつきのぞきこんでみた。

 無理だった。

(なんて厳重なの。でもここまで念入りにしているんだから、本当にぞくがいるかもしれない!)

 期待が高まる。その時だ。

「動くな」

「……!?」

 首の後ろに冷たくするどかんしよくがして、息をんだ。心臓が口から飛び出しそう、とはまさにこのことだ。

 聞き覚えのある声に、かくを決めておそる恐る振り返った。

 案の定、そこに立っていたのはクライドである。

 差し出す右手の人差し指が、魔法でこおりついている。これを首筋に当てられていたのだ。

(すごい魔力だわ。確か、勇者も強大な魔力を持っていたのよね)

 クライドがすぐ後ろにいることだけでもじゆうぶん恐ろしいのに、さらに勇者のことまで思い出してしまい、血の気が引いた。

「ここで何をしているんだ?」と、クライドが低い声で問う。

「ここへは近づくな、と言っておいたはずだけど」

 焦った。魔族がいるかもしれないと思ったから、なんて答えるわけにはいかない。

 しかしアシュリーはうそや言い訳が下手へたなのだ。なぜか必ずばれてしまう。『下手にもほどがあるわ』と、母親はいつもあきれていたものだ。

 しゆんじゆんするアシュリーをクライドがじっと見下ろす。その目にようしやの色はない。

 体のしんきようで冷たくなる。観念して、小声で答えた。

「……きゆうしやの中に、何がいるのか知りたくて」

「言えないと言ったよね?」

「そうですけど、どうしても知りたいんです……!」

「なんでそんなに知りたいんだ?」

「……言えません」

「なるほど。俺と一緒だね」

 話す間も、決して視線を外してもらえない。まるでへびすくめられたカエルのように動けない。

 そしてきよが近いせいで、クライドが身にまとうローブからしようにおいがした。くさった卵のにおいと、い草木のかおりが混じったような独特の匂い。

 瘴気には色がないので目に見えないけれど、人間にとって有害である。吸い込むと気分が悪くなったり、体調をくずしたりする。

 ただしそれは魔力を持たない人間にとって、だ。クライドや魔術師たちは、自身の持つ魔力で身を守れる。

 アシュリーはつうの人間なので、だんだん気持ち悪くなってきた。

 それでも六百年ぶりに思い出した今は、とても幸せな匂いに感じる。

 気分が悪そうに眉根を寄せながらも微笑ほほえむアシュリーに、クライドが聞いた。

「ひょっとして気持ち悪い?」

「まあ、はい……」

「そうだよね。ちょっといい?」

 クライドが手を伸ばし、アシュリーの頭にれた。そのまま軽くなでる。

(ひいっ!)

 とつぜんのことに、アシュリーはだつのごとく後ろへ飛び退すさった。勇者の子孫に触れられるなんて恐怖でしかない。全身にとりはだが立った。

 クライドがしようした。

「そんなにいやがらなくても」

「……な、なぜ、このようなことを?」

「反応が楽しいから」

「……!?」

じようだんだよ。気持ち悪いのが治っただろう。廏舎の中に満ちているものから身を守る、ぼうぎよ魔法の一種だよ」

「なるほど。瘴気から守ってくれるんですね」

「──そうだね」

 声の調子が変わった。ふと顔を上げると、目が合った。こわいと思うより先にかんを覚えた。

(……どうしたのかしら?)

 たんせいな顔にかぶみ。見覚えがある。きゆう殿でんで助けてもらった後に向けられた、興味深そうな笑みと同じもの。いや、それよりさらに不敵なものだ。

 まるで、目当てのものをようやく見つけたような──。

 もう無いはずの、アシュリーの長い二本の耳がぴんと立った気がした。すなわち「けいかい」だ。

(なぜなの?)

 理由がわからない。まどっているとクライドが言った。

「この中に何がいるのか知りたいんだよね? 中に入って見てみる?」

「いいんですか!?」

「もちろん」

 どうして突然許しが出たのかという疑念より、中に入って確かめられるといううれしさのほうが勝った。

「俺のそばはなれないでね」

 クライドががんじような鉄の正面扉に右手を当て、小さくじゆもんを唱える。かわいた音がして、少しだけ扉が開いた。

 さらに扉を押し開けて、クライドが中を手で示した。

「どうぞ」

(いよいよだわ)

 高まる期待を胸に、アシュリーは一歩み出した。

 内部は想像していたよりはるかに立派だった。アーチ形になったてんじようとレンガのかべ。温度調節のためのだんやボイラーもついている。

 ほかの廏舎とちがうのは、左右に並ぶぼうに馬が一頭もいないことだ。

 馬房の奥は中庭で、二階の天井までけになっている。その天井部分が大きな天窓になっており、明るい太陽の光が降り注ぐ。すっかり夜が明けた。

 廏舎の中には濃い瘴気が立ちこめているはずだが、匂いがかすかにするだけだ。気持ち悪さも感じない。

(クライド様の魔法、すごいわ)

 恐れながらもなおに感心した。

 中庭のわきにある洗い場で、ジャンヌともう一人、ローブを着た男魔術師がうずくまっているのが見えた。み上げた井戸水でたらいやブラシを洗っている。

「ちょっと! そこ、まだよごれてるわよ。そこも!」

「うるさいな。ジャンヌはいちいち細かいんだよ」

「あんたがおおざつ過ぎるんでしょう! まだあわが残ってるわよ。ちゃんとすすぎなさいよね!」

「文句言うくらいなら、全部自分でやれよ!」

 くちげんか、ジャンヌの激しい声と男魔術師のいらった声がひびく。

 ジャンヌが腹立たし気に、持っていた石けんを地面にたたきつけた。こちらを向き、クライドを認めて顔がかがやく。けれどすぐに、

「えっ、アシュリー様……? なぜ、ここにいるんですか?」

 と、けげんな表情になった。じようきようからクライドが連れてきたとわかるけれど、ここには彼女たち以外は入れないのだから当たり前である。

 クライドはそれには答えずおだやかな笑みを浮かべて、

「知っていると思うけど、改めてしようかいするよ。俺のこんやくしやで、ウォルレットきようの長女、アシュリーだ」

「はあ……」

「アシュリー、こっちは先ほど食堂で会ったジャンヌ。そしてこっちはハンクだ。二人とも宮殿からけんされた魔術師だよ」

 たらいを手に、ハンクはあつにとられた顔でアシュリーを見つめている。年は二十代半ば。短いかみに、健康的に日焼けしたはだの持ち主である。

 アシュリーは二人に頭を下げ、れてクライドを見上げた。早くぞくを確かめたい。

 クライドが中庭のさらに奥にある、鉄のとびらを指し示した。濃い緑色の、正面扉とほぼ同じ大きさのものだ。そして言った。

「アシュリー、あの奥に、王家から預かっている生き物がいるんだ」

「……!?」

 興奮してほおを紅潮させるアシュリーと、きようがくの顔をする魔術師二人とは、実に対照的であった。

「見てみたい?」

「はい!」

 あわてたのは魔術師たちである。

「ちょ、ちょっと待ってください! あれはトルファ王家から預かっている、とても大事なものです!」

「婚約者といえど、さすがに知られるわけにはいかないでしょう!」

 必死の非難を手で制し、クライドが静かに続けた。

だいじようだよ。俺もお前たちもいるんだから、アシュリーにはさせない。それにそもそも、あれは今そんな状態じゃないだろう」

「そういう問題ではありません!」

あせるお気持ちはわかりますが、さすがにこれは──!」

「わかってるよ。でも、この四年間なんの進展もなかった。やっととつこうを見つけた気がするんだ」

 口調に確信がひそむ。

 ぼうぜんとする彼らの前で、クライドがアシュリーに微笑ほほえんだ。

「念のために俺の側を離れないでね。さあ行こうか」

 いよいよだ。期待に指先がふるえる。それをかくすようにしてアシュリーは前を向いた。

 奥にある鉄の扉にクライドが手をかけた。これほど近くにいても、鳴き声はいつさい聞こえない。動き回る足音も、飛び回る羽音も。全くの無音だ。

(……本当に魔族がいるのかしら?)

 けげんに思った後で、もしかして、と血の気が引いた。口も動かせず、身動きすらできないようにされているのでは?

 もしそうなら、なんとしても助けたい。アシュリーは決心して足を踏み入れた。


 入口側の馬房と同じく、アーチ形の天井は高く、室内も広い。

 そして、細かい石がめられたゆかそべっていたのは──。

 驚愕のあまり、大声をあげるところだった。

 馬房の中央に寝そべる大きなもの。このトルファ国には決して存在しないもの。

 三角の耳がついたしい顔。きようじんながらもしなやかな体。頭のてっぺんから尻尾しつぽの先まで、しつこくのふさふさした毛でおおわれている。

 固く目を閉じているけれど、背中がかすかに上下しているので生きているとわかった。

 魔王の側近だったじゆう──こくろうだ。

うそ……!)

 興奮が押し寄せてきて言葉にならない。

 六百年前に命を落としたと思っていた。それなのにこうして目の前にいる。感動でなみだが出そうだ。

 黒狼は高い魔力と強靭な歯とつめ、そしてゆうかんさとどうもうさをあわせ持つらしい戦士だった。せんとうで右に出る者はいなかった。

 葉っぱをむだけの黒ウサギとは力も地位も違い過ぎて、常に遠い存在だった。

 ただ弱者をいじめる上級魔族も多い中、黒狼は下の者にもやさしかった。その強さと気高さにあこがれていた。その黒狼が生きている。夢のようだ。

 今はねむっているけれど、目を覚ましたら前世から初めて黒狼と話ができるかもしれない。

(……でも、どうしてここにいるの?)

 サージェント家のきゆうしやに。

 そこでクライドたちの存在を思い出し、しまった、とうろたえた。

 慌ててり返ると、ジャンヌとハンクが呆気に取られた顔でアシュリーを見つめていた。

 当然である。そこにいるのはおそろしい魔獣で、つうれいじようならきようこおりつくか、悲鳴を上げてげ出すところだ。それなのに今にもかんるいにむせびそうなのだから。

 どう言いつくろおうか焦っていると、背後からうでびてきた。声を上げる間もなく、力強い腕でかたこしを引き寄せられた。

「アシュリー」

 すぐ頭上から声が降ってきた。クライドの声だ。

 クライドに後ろからきつくきしめられている。そうさとったしゆんかん

(ひい──っ!!)

 なんとか悲鳴は押しとどめたけれど、全身におぞましさが走った。婚約者なのだから本来は頬を染める状況なのだろうが、冷やあせしか流れてこない。

 ジャンヌが燃えるような目でにらみつけてきた。

 けれど極限状態のアシュリーの視界には入らない。ただでさえたおれそうなのに、クライドがさらにアシュリーの耳元に顔を近づけてささやいたからだ。

「魔獣を見てもおどろかないんだね」

 なんとかさなくては、と混乱して回らない頭で必死に考えた。

「……なっ、何をおっしゃっているのかわかりませ──」

「あれは魔獣、黒狼だよ。でも、アシュリーは知っていたんだね?」

「そんなこと知るわけが──!」

「ここに満ちる魔獣が生み出すにおい。それを『しよう』だと言い当てた。なぜ、その名を知っている?」

 ザッと血の気が引いた。覚えている。確かに『瘴気』と口走った。激しくこうかいしたけれどおそい。

「そっ、それはきっと、クライド様が先に『瘴気だ』と言って──」

「言っていない。ずっと気をつけていたからね。絶対に口にしていないと断言できる」

 はっきりと否定されて泣きたくなった。

 アシュリーを抱きしめる腕に、さらに力がこもる。

「なぜ知ってるんだ?」

(なぜ……って言えるわけないわ!)

 今すぐどこか遠くへ逃げてしまいたい。けれどクライドの胸の中にしっかりと引きこまれているため、身動きできない。

(ひょっとして、この体勢は──)

 アシュリーを逃がさないためだ、とわかった。絶対に答えをもらうために、クライドはこうしているのだ。頭の中が真っ白になった。

(どうしよう。なんて答えればいいの……!)

 ジャンヌのきつい口調が聞こえた。

「アシュリー様、クライド様が聞いておられるのですよ。知っていることをすべて話して下さい!」

 逃げ場はない。冷や汗が背中を流れ落ちた。

 腕の中でうつむき震えるアシュリーを、クライドがじっと見つめている。

 やがてあきらめたように両腕を解き、大きく息をいた。

「──わかった。今は答えなくていいよ」

 想像もしていなかった言葉に、アシュリーは驚いて顔を上げた。

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