<一>婚約と黒ウサギ⑤
(
クライドはローブの
アシュリーがやってきた日の夜中に、魔術師に呼ばれた。それからずっと奥の廏舎にこもりっきりだったのだ。
廏舎には、
だから絶対に部外者に知られるわけにはいかない。たとえ
それを匿うために、クライドはサージェント家を
(それなのに──)
考えていたことが、ちっとも
無力な自分に
(どうすればいいんだ……)
苦い気持ちを
「クライド様、そろそろ
「悪いが、それどころじゃないんだ」
「……実はアシュリー様がお気の毒だと、メイドたちが
「どういうことだ?」
「朝も昼も一人きりで
「……わかった」
仕方ない。廏舎の中の
アシュリーを婚約者に選んだことに、特別な理由はない。以前から早く結婚を、と兄や王室関係者にせっつかれていたのだ。結婚すればクライドが廏舎にいるものについて
だから彼らの口をつぐませて廏舎にいるものに専念できるなら、相手は誰でもよかった。
アシュリーに初めて会った日も、兄である国王に呼ばれて宮殿に出向いた。クライドを改心させようという
だから最低限の
あの時クライドのハンカチについていたのは、廏舎に
アシュリーは少し気持ち悪そうにしていたけれど、その匂いに
だがフェルナンの言うとおり、遠いところからやってきたアシュリーを一人で
(──考えなければいけないことが多過ぎるな)
もう一度深いため息を
アシュリーが一人で食卓についていた。
代々使っているマホガニーのテーブルは、むやみに
だが、そう思ったのは一瞬のことだった。
アシュリーが、ロザリーや
少し
「お待たせ」
楽しそうな姿に少し安心して、クライドは向かい合った自分の席に着いた。
先ほどまでの楽しそうな
やはりか。クライドは小さく息を
今まで一人にしていたことに、
もちろんクライドが悪いのだから仕方ない。それでも、ますます疲れが増した。
だが──。
(いや、
アシュリーのこの眉根を寄せた表情、本気で
というよりは、
考え込んでいたせいで、知らず知らずのうちに顔をしかめていたようだ。
クライドが
メイドたちは、やっと二人がそろって食事をするのだからと
なぜ気づかない。本気で嫌がっているだろう、これは。
「せっかく来てもらったのに、ずっと一人にして悪かったね」
それでもこちらが悪いことは確かなので、
「いいえ、とんでもありません!」
「──ひょっとして、俺のことを
なにげなく聞いてみると、アシュリーが目を
「いいえ、まさか!」
「そう? どこか気に入らないところがあったら言ってね」
「いいえ、どこもありません。
「……そう」
わからない。多方面から
「メイドからも言われたしね、反省したよ。これからは時間を作って、なるべく一緒に食事をしようと思う」
「えっ、はい……」
嫌そうだ。心底、嫌そうだ。
あまりの素直な態度に、思わず笑いが込み上げた。
今まで女性からこんな態度を向けられたことはない。少し興味を持った。
じっとアシュリーを見つめてみる。すると青ざめながら視線をそらされた。
しばらくして、クライドの様子を
(なぜだ?)
見当もつかないので、次に困ったように両眉を下げてみた。
「でも、やっぱり込み入った用事があってね。一緒に食事は無理そうかな」
パアッとアシュリーの顔が
クライドは笑いをこらえて、今度はちょっと反省したような笑みを
「いや、でも婚約者だからね。
あっ、落ち込んだ。この世の終わりのような暗い顔で、アシュリーは遠くを見つめている。
(なんだこれ、楽しい)
アシュリーは落ち着かないのか
「あの、申し訳ありません」
「……何について?」
「助けてもらったのに申し訳ないとは思ってるんです。本人ではなく、ただの子孫ですし。
一体、何に慣れるのか。意味がわからない。だがアシュリーの顔は
とりあえずクライドは微笑んだ。
「わかった。頑張って」
アシュリーは安心したのか、
それなのになぜか目が離せない。愛らしい、というよりは一心に葉っぱを食べているように見えるのはなぜだ。
「小動物みたいだね」
思ったまま口にすると、アシュリーが目を見開いた。本当に目の玉が落ちるのではないか、と思うくらいの
「ど、どんな動物ですか……?」
なんの種類か聞いているのだろうか。
「うーん、タヌキ? いや、イタチかな?」
理由を知りたくて、あえて
「そうですか」
とホッとしたように息を吐き、嬉しそうに笑った。
タヌキやイタチに似ていると言われてこれほど喜ぶ女性を、クライドは初めて見た。
変わった令嬢だと笑いながら、ふと視線を感じて
クライドはアシュリーに視線を
「ごめんね。可愛いなと思って言ったんだ」
本音だ。それなのにアシュリーは、怯えた顔でフォークを落とした。
得体の知れないものを見るように
(
アシュリーは居心地悪そうに顔を
また「小動物のようだ」と言われるのを恐れたのか、慌てて
何味だと思い、クライドも一口飲んでみたら、すりおろした
クライドの視線に気づいたアシュリーが、急いでカップを置く。
牛肉の
クライドはあえて下を向いた。アシュリーに目をやらず、食事に専念しているふりをする。
しばらくしてちらりと顔を上げると、アシュリーが幸せそうに人参スープを飲んでいた。
この胸をくすぐるような
楽しくなってきて、クライドは声を出さずに笑った。
いつの間にか、あれほど
〇 〇 〇
「クライド様」と声がした。
アシュリーが顔を向けると、食堂の入口に黒のローブを着た女性が立っていた。首元に金ボタンがついたベルベット地のローブは、上級聖職者や
(
はっきりした顔立ちの美女である。
「ジャンヌ、どうした?」
クライドの
ジャンヌは答えずに近づいてくる。すぐ横を通り過ぎざま、アシュリーの全身を
(……!?)
そんなアシュリーに、ジャンヌが勝ち
(どういうこと?)
心臓が
ジャンヌが通り過ぎた時、ローブに
この匂いの正体をようやく思い出した。
(
魔族が体から出す瘴気である。
六百年ぶりに
(なぜ? なぜ瘴気の匂いがするの!?)
導き出せる答えは一つだ。
(あの
絶対に近づかないでくれと言われた、
もしや、あの中に魔族がいるのか──。
テーブルの向こうで、ジャンヌがクライドに何かささやいている。不測の事態でもあったのか、クライドの顔つきが鋭くなった。
アシュリーは青ざめたまま二人を見つめた。聞きたいことはたくさんあるのに、衝撃で言葉が出てこない。
ジャンヌは自分たちの
けれどそんな光景は、アシュリーの視界には入らない。
(魔族は
信じられない。まさかという否定と、昔の仲間がいるかもしれないという期待が頭の中でせめぎ合う。
「アシュリー、悪いけどこれで失礼するよ」
クライドが立ち上がり、ジャンヌと足早に食堂を出て行こうとした。
アシュリーは我に返り、
「待ってください! 奥にある廏舎には、何がいるんですか?」
クライドが足を止めた。
「言えない」
「でも、この匂いは──!」
「匂い?」
しまった。瘴気の匂いを知っているなんて絶対に言えない。
「トルファ王家から預かっているものだよ。それしか言えない」
「クライド様!?」と、ジャンヌが目を
「どうして、そんなことを教えるんですか!」
(王家から預かっている?)
さらに混乱した。魔族は王室の敵なのに、なぜ?
「前も言ったけど、あの廏舎は危険なんだ。決して近づかないでくれ」
低い声で言い残し、クライドはジャンヌと食堂を出て行った。
「
「申し訳ありません、アシュリー様」
メイドたちが顔を
もしかしたら昔の仲間が生きているかもしれない。そうであるなら──。
(会いたい!)
強い気持ちが込み上げた。
危険でもいい。死に絶えたと思っていた、かつての
(行ってみよう)
あの廏舎に──。