王宮での拝謁から三日が経った。
ウォルレット家の居間で、昼寝から目覚めたアシュリーはぐうっと伸びをした。
ソファーでうたた寝をしていたせいで、体の節々が痛い。
天気のいい昼下がり、象牙細工のテーブルの脇で母と妹が新しいドレスの生地を選んでいる。
天井から垂れ下がったシャンデリアが、窓から入る日差しにきらめく。
居間の隅には石造りの大きな暖炉が備え付けられているが、今の時季は暖かいので使っていない。そこへ、
「喜べ! アシュリーの婚約が決まったぞ」と、父が満面の笑みで飛び込んできた。「お相手はなんと、あのサージェント侯爵だ!」
「ええ──っ!?」
アシュリーと母と妹は同時に叫んだ。
サージェント家は十二代続く由緒正しき家柄で、名高い魔術師を何人も輩出してきた名門である。
四年前に亡くなった前侯爵には子供がおらず、親戚に当たる今の若き当主に爵位を譲った。
財と地位を備えた二十一歳の侯爵は、さらに類稀な美形であるとの噂だ。ゆえに結婚相手として人気絶大なのだが、持ち込まれる縁談を笑顔で断り続けている。
しかも当の本人は、滅多に社交界に姿を見せない。存在だけは広く知られているけれど、実際に姿を見た者は稀なのである。
もちろん家に閉じこもるのが好きなアシュリーは、お目にかかったことなどない。
(それほどの方と私が? 一体どうして?)
訳がわからない。困惑するアシュリーに、
「なんと侯爵からの申し入れだぞ! 私の狩り仲間である王室長官が間を取り持ってくれてね。いや、めでたい!」
「なぜ──」
なぜ王室長官が? という質問は、母と妹の興奮した声にかき消された。
「まあまあ! アシュリーったらすごいじゃないの。内緒にしていたようだけど、宮殿での拝謁でカエルのように転びかけたと、カダン伯爵の奥様から聞いたのよ。この子は嫁に行けるのかと本気で心配したけど、まさかのサージェント侯爵! さすが私の娘だわ」
「お姉様、すごいじゃない! いっつも暗い部屋の中で、布団にくるまってごろごろしているだけだと思ってたけど。すごいわ、尊敬する!」
宮殿でのことも普段の生態もばれていたのかと、ちょっと遠い目になった。
(それよりもサージェント侯爵と婚約したら、私、注目されるんじゃないかしら……?)
あの侯爵の相手だ、さぞかし素敵な令嬢だろうと皆から関心を持たれる気がする。
(そんなの嫌)
光栄な話だと承知している。けれど決して目立たず、狭くて薄暗い場所で静かに過ごしたいアシュリーには荷が重い。
それにどうして自分が選ばれたのか、まるでわからない。
決して人目を惹くような美女ではない。それに貴族の結婚相手として求められる、使用人をてきぱきと使ったり、サロンの人間関係を円滑に回せるような社交的な性格でもないのに。
「めでたい話はこれだけじゃないんだ!」
父の顔はこれ以上ないほど喜びに満ちている。なぜか嫌な予感がした。
「王室長官がこっそりと教えてくれたんだが、サージェント侯爵はなんと! 国王陛下の弟君であらせられるんだ!」
(えっ……?)
聞き間違いだと思った。絶対に聞き間違いだ。だって、そうでないと──!
しかし必死の祈りは、母と妹の歓喜の絶叫に打ち破られた。
「あなた、それ本当なの!? じゃあ、うちは王族と親戚になれるのね!」
「弟君! それって三男のユーリ殿下? それとも四男のジョッシュ殿下のこと? あれ、でもジョッシュ殿下はまだ十一歳になられたばかりよね。じゃあユーリ殿下がお相手なの?」
父が首を横に振った。
「いいや、次男のクライド殿下だよ」
クライドは亡くなった前国王の二番目の息子で、現国王のすぐ下の弟である。
つまりは直系王族だ。恐怖と驚愕がアシュリーの体を貫いた。
母と妹が顔を見合わせた。
「クライド殿下といえば、お体があまりご丈夫でなくて、宮殿の奥にこもっていらっしゃるのよね? 決して人前に出てこられないから、身近な王室関係者しかその姿をご覧になったことがないと聞いたわ」
「でも幼い頃──六、七歳くらいまではお元気で、他のご兄弟と一緒に人前にお出になっていたんでしょう? まるで天使のように愛らしいご容貌だったって。ちょうどその頃に体調を崩されて、それ以来臥せっておられるのよね」
父が頷く。
「そう。その方だよ。クライド・ウォン・トルファ・サージェント侯だ。ただし病弱というのは嘘だ。実際にクライド殿下にもお会いしたが、至ってご健康でおられる。サージェント家は王室と縁戚関係にあり、昔から特別懇意にしておられるそうだ。クライド殿下は七歳で養子にいくと決まったが、それを快く思わない貴族たちもいる。内密にするために、病気だと嘘をつき人前に姿を見せられなくなったそうだ」
「だからサージェント家を継がれた後も、公に姿をお見せにならないのね」
「サージェント家って代々魔術師を輩出している名門だからか、どこか近寄りがたいというか謎めいているわよね。でも、なるほどね。そういう事情もあったのね」
わずかな王室関係者しか知らない情報を知り、家族は嬉しそうに頷き合う。
その横でアシュリーは一人、極限状態に陥っていた。
(無理! 絶対に無理だわ!!)
激しい拒否と同時に、左胸に鋭い痛みを感じた。前世で兵士に一突きされた場所だ。あの時の、体の中心から冷たく凍りつくような恐怖が足元から這い上がる。
アシュリーは父に視線を向けた。
伯爵家から上の侯爵家へ、しかも王族の申し込みを断るなんて有り得ない。平和な時代だから首までは飛ばないだろうが、アシュリー一家は確実に路頭に迷うだろう。
それでも、それでも、これだけは絶対に無理だ。
(……待って。せめて侯爵の外見が、髪と目の色が、勇者と全く違っておられたら耐えられるかもしれない)
今世の大事な家族を困らせるわけにはいかない。一縷の望みをかけて聞いた。
「お父様。侯爵の見た目は、その、どういった感じなのですか?」
「ああ、それは気になるよな。なんたってお前の婚約者だ」
「そのとおりです!!」
「……そうだな。しかし心配しなくても大丈夫だぞ。噂どおりの美貌であられた。父が思わず見とれてしまったほどに。よかったなあ、アシュリー」
違う。もどかしくて何度も首を左右に振った。
重要なのはそこではない。一番大事なことは──。
「ああ、それと前国王陛下お譲りの、というよりはトルファの功労者であられる勇者様お譲りの、見事な金の髪と緑色の目をしておられる。それはもう見事なほどに」
(無理だわ──っ!!)
アシュリーは天を仰いだ。
一縷の望みは完全に絶たれた。ああ、どうしよう。本当に無理だ。
「あの、お父様。本当に、本当に、心から申し訳ないと思うのですが──」
「まあ、あなた! そんないいお話、早くお受けしなくてはお相手に失礼じゃなくて?」
「大丈夫だよ。もうとっくにお受けした。王室長官と事務弁護士の立会いの下、クライド殿下と婚姻資金や持参金などについてもお話をしてきた。すでに契約書に印も押してきたからね。安心しなさい、アシュリー」
(すでに婚約が成立しているのね……)
目の前が真っ暗になるとはこのことである。
「いや、実にめでたい! これほどの幸運が我が家に降りかかろうとは。アシュリーのおかげだな。ああ、そうだ。侯爵が『事情があってサージェント家を離れられない。だから悪いが、婚約期間はこちらにはそれほど来られないと思う』とおっしゃっていたよ」
「問題ないわ、あなた。アシュリーがあちらへ会いにいけばいいだけですもの。ああ、夢のようだわ! 留学中のカイルスにも知らせないとね」
「お兄様もびっくりするわよ。私も友人たちに自慢したいけど、侯爵が王弟殿下だということは内密なのよね。我慢するわ。でも本当にすごい。おめでとう、お姉様!」
今にも倒れそうなアシュリーの前で、家族は喜色満面で居間を飛び回っていた。