裾にレースのついたシルクのペチコート。その上から着る水色のドレスは、アシュリーの小柄な体にフィットするデザインである。袖も同じレースで装飾されている。
腰から垂れるサテン地の濃い青色のトレーンは、床に引きずるほどの長さだ。
ふんわりと波打つ黒髪は一つにまとめ、目の色と同じ紫のアメジストを埋め込んだ大きな花飾りを挿してある。
これほど豪華な正装は初めてだ。本来ならワクワクするところだけれど、とてもそんな気にはなれない。
アシュリーは元来きらびやかな場所が苦手で、ウサギの巣穴のような薄暗くて狭くて静かな場所のほうが落ち着く。そういう性格も影響しているかもしれないけれど──。
陽が落ち、馬車を飛ばして宮殿へ向かった。門の前は、デビュタントの子息子女を乗せた馬車で大混雑だ。
父と別れたアシュリーは、死地に向かう覚悟で馬車を降りた。
最初の難関は、門番の兵士である。
前世の兵士とは違う人間だと重々承知している。だがその姿から少しでも前世を思い起こしてしまったら、とてもそこから先に進める自信がない。
恐る恐る門番に視線を向けた。
(……普通の軍服だわ)
灰色の軍服に、同じく灰色の帽子をかぶっている。帽子には黒の羽飾りがついていた。
考えてみれば、この平和な時代に甲冑姿のわけがない。それに生真面目な顔で訪問者たちに敬礼する姿は、前世の殺気を放っていたそれとはまるで違った。
(……なんだ)
拍子抜けして、もしかして自分は怖がり過ぎていたのかもしれないな、とまで思った。
何しろ六百年も経つのだ。
それでも警戒はおこたらずに、門をくぐる。何度も身分証明をして、大きなシャンデリアが垂れ下がる壮麗なホールを横切り階段を上った。
順番待ちをする大広間に着くと、着飾った少女たちでいっぱいだった。皆、誇らしげな顔をしている。
途端に、羨ましいような疎外感のようなものが胸を突いた。
年も、境遇も、正装した姿も同じなのに、魔族としての前世の記憶があるアシュリーは皆と同じようにこの場を喜べない。
(……仕方ないじゃないの)
うつむきがちに大広間を抜けて、王妃の謁見の間へつながる金の間へ入った。
そこで、拝謁を待つ長い列に並ぶ。
(別にいいじゃない)
思い直して顔を上げた。前世は変えられない。
それにここまでは直系王族の姿を見ずに済んだ。このまま王妃への拝謁を無難にこなして、早く家に帰ろう。
そして王族とも勇者とも関係なく、平和に、心穏やかに暮らすのだ。
そう決意した時、
「次! アシュリー・エル・ウォルレット。入れ!」
と、名を呼ばれた。緊張しながら謁見の間へ足を踏み入れる。
真っ赤な絨毯が敷かれた奥、大きなダイヤモンドが埋め込まれた金の玉座に王妃が座っていた。
王妃の後ろには、上級貴族や縁戚関係の者たちが並んでいる。
分厚い絨毯の上をゆっくりと進み、王妃の前で深々とお辞儀をした。差し出された手を取り、指先を自分の額に軽くつける。これが正式な挨拶だ。
挨拶を終えると、退出のためそろそろと後ずさる。王妃に背中は向けられない。扉を出るまでは、ひたすら後ずさりだ。床を引きずる長いトレーンをたくし上げるのも許されない。
だから、その裾を踏まないように細心の注意を払っていた──はずなのに。
「ひゃああ!?」
見事にトレーンの裾を踏んづけてしまった。ようやく終わったという安心感から、気が緩んだのかもしれない。淑女にあるまじき叫び声を上げて、後ろにひっくり返る格好になってしまった。
(嘘でしょう!?)
心臓が冷たく縮む感じがする。恥も外聞もなく、懸命に両手を振ってバランスを保とうとしたが、無理だ。
カエルのごとくひっくり返りながら、視界の端に、驚きに目を見開く王妃と貴族たちの姿が映った。
拝謁の場で粗相をすれば、二度と社交界には出られない。そうなれば貴族令嬢にとっての将来はおしまいである。
(どうしてこんなことに……穏やかに、平和に生きていたいだけなのに……!)
薄暗くて静かな場所は好きだけれど、自分から好んでこもることと、こもらなければいけなくなることは違う。絶対に違う。
恥ずかしさと恐怖で、体の芯から冷たく固まっていく気がした。
不意に、前世の死に際を思い出した。もう駄目だという絶望。
もちろん実際の死とは重みが違うけれど、希望が潰える恐怖は同じだ。
(嘘。こんなの嫌。誰か、誰か助けて……!)
前世でも今世でも、どうして自分にはこんな悪いことばかり起きるのか──。
次の瞬間、背後から強い力で肩を支えられた。
「大丈夫?」
気遣うような男性の声が、耳元で聞こえた。縮み切った心に染み込む、優しい声音だ。
そのまま力強く肩を押し上げられた。
真っ白になった頭で、無様に後ろに倒れ込む寸前、彼が支えてくれたのだとわかった。
助かったのだ。
「あ、ありがとうございます! ありがとうございます!」
振り返り、救いの主に全力で何度も頭を下げた。
いくら感謝してもしきれない。本当に泣きたくなるくらい嬉しかった。
「どういたしまして」
アシュリーの大仰な感謝がおかしかったのか、含み笑いのような声が返ってきた。
顔を上げると、まるで絵画から抜け出してきたような姿がそこにあった。
二十歳過ぎほどの青年だ。均整の取れた長身を金ボタンのついた黒の礼服に包み、彫像のように整った顔立ちをしている。
けれど──。
(勇者と一緒だわ……)
彼の見事な金の髪と鮮やかな緑色の目に、一瞬で心が冷えた。前世で見た姿がくっきりとよみがえるほど、髪の色も目の色も勇者と酷似している。
(嫌だ、私ったらなんて失礼なことを……!)
金髪に緑色の目を持つ人なんて、直系王族以外にだっているじゃないか。
助けてもらったのだ。彼がいなければ、アシュリーは今頃この絨毯の上で、失った将来に一人で震えているしかなかった。
反省し、もう一度深く頭を下げた。
「本当に、本当にありがとうございます!」
「もう気にしないでいいから」
苦笑混じりの声が返ってきた。その時、
(……何かしら?)
ほのかに鼻をくすぐる匂いに気がついた。金の肩章がついた彼のジャケット、その胸元のポケットに入ったハンカチからだ。香水かと思ったが違う。
お行儀が悪いと思ったけれど好奇心に勝てなかった。鼻を近づけて、思いきり息を吸い込んだ。
彼がギョッとしたように体を引く。
(この匂い……何だったかしら?)
腐った卵と、濃い草木の香りが混じったような独特の匂い。
いい香りだとは言い難いし、体に合わないのか、少し気持ち悪くなってきた。けれど不思議と懐かしく感じるのだ。郷愁というか、遠い昔に嗅いだことがあるように心地いい──。
「いい匂い……」
心のままに微笑むと、彼が大きく目を見張った。そして、
「へえ」
と先ほどの穏やかなものとは違う、興味深そうな笑みを浮かべた。