遠くで、鳥たちが一斉に羽ばたく音が聞こえた。
黒ウサギは素早く上半身を起こし、警戒して辺りをうかがった。
ここは魔王が治める魔国。黒ウサギはそこに住む魔族である。
魔族といっても見た目も能力もただのウサギと変わらない。黒いふわふわの毛並みに、つぶらな紫の目。ぴんと伸びた長い二本の耳。
今日も柔らかいオオバコの葉をたくさん食べ、満足して巣穴に戻ってきた。
けれど朝からの強風のせいで、穴の入口が土に埋もれていた。悲しくなり、長い耳が力なく垂れる。
その時だ。再び音が聞こえた。
今度は地鳴りのような響きと、馬のいななく声。かすかだが、風にのって確かに聞こえた。
胸騒ぎがする。不安から心臓がぎゅうっと縮む感じがした。
一昨日、楡の木陰で、魔族の黒狐たちが噂していたのを思い出した。
『戦の情勢はどうなの? 無敵だった我が魔国の勢いが、最近衰えてきたと耳にしたけど』
『魔王様を討とうと、南のトルファ国で勇者が立ち上がったそうだ。人間の兵士たちを率いて、すごい勢いで領土を拡大していると。すでに魔国の南、ガフス地域に入ったとも聞いたぞ』
『人間の分際で生意気な。だが大丈夫だ。魔王様が負けるはずがない。勇者なんて、ひとひねりにしてくださるよ』──。
黒狐たちの言うとおり、誰よりも強い魔王様が人間なんかに負けるはずがないと思う。
それなのに、不快で動揺を煽る音は一向にやまない。それどころか、どんどん大きくなる。
逃げたほうがいい。気が小さい黒ウサギは、まさに脱兎のごとく走り出した。
──が、遅かった。
地鳴りのような音とは別の方向から、人間の兵士が十人ほど姿を見せた。
黒狐たちが噂していたトルファ国の兵士だ。本隊とは別に、先に侵入してきた少数精鋭の部隊なのだろう。甲冑姿の彼らは屈強な体つきをしている。
狼狽し、固まる黒ウサギの前で、
「このウサギも魔族だな。大した力は無さそうに見えるが、どうする?」
「魔族は全て殺せ、との勇者様のご命令だ。血も涙も情もない魔族だぞ。トルファ国民が何人殺されたと思っている? 女も子どもも容赦なくだ」
兵士たちはみな、兜のようなバシネットとバイザーで頭と顔を覆っている。そのため表情は見えない。けれど吐き捨てるような口調は憎しみに満ちていた。
逃げないと殺される! 焦るのに、恐怖で体が動かない。
兵士が剣を抜いた。目の前で光る鋭い剣先に、身が竦む。
よく見れば兵士たちの甲冑は傷と血にまみれている。仲間の魔族の血なのだ。そして自分もこれから、この血の一部になるのだ。そんなことを考えたら頭の中が真っ白になった。
「観念しろ、憎き魔族め!」
鳴き声を上げる間もない。鋭い刃が自分に振り下ろされるのが、まるでスローモーションのように見えた。
こんなの嘘だ。嫌だ、死にたくない。誰か助けて……!
その時、兵士たちの後ろにいた男がおもむろに顔を覆っていたバイザーを外した。
少し距離があるため、顔の造作までは見えない。けれど風になびく見事な金の髪と、こちらを射貫く鮮やかな緑色の目が脳裏に焼き付いた。
楡の木陰で、黒狐たちはこうも言っていたっけ。
『トルファ国の勇者は、金の髪と緑色の目をしているそうだ』──。
「殺せ」と、男が言った。背筋が凍るような冷たい声だ。
命令どおり、刃が黒ウサギの心臓を貫いた。喉の奥からせり上がってくる息苦しさと、突然命を奪われる悔しさ、それに激しい悲しみが入り混じる。
薄れゆく意識の中、あれが勇者なのだと悟った。
魔族の命を奪えと命じている。
自分は彼のせいで命を終えるのだ、と──。
〇 〇 〇
「今からおよそ六百年前、東の小国だった魔国の魔王は、次々と近隣諸国に攻め入りました。その勢いはすさまじく、たくさんの国が滅ぼされ、魔国に吸収されました。そして魔王はついに、このトルファ国にまで手を伸ばしたのです! 魔王を始め魔族たちは、トルファ国民の命を容赦なく奪いました!」
涙ながらに、自国の歴史を教える教師。
生徒たちはみな真剣な顔で聞いている。
そんな中、アシュリー・エル・ウォルレットは一人、割り切れない気持ちでいた。
(確かに魔族はトルファ国民の命を奪ったけど、でもトルファ国の兵士だって魔族の命を奪ったんだから……)
口にしたところで、誰からも同意を得られないとわかっている。
それでも前世は魔族の黒ウサギだった、という記憶を持つアシュリーは、素直に頷けない。
トルファ国の伯爵令嬢として転生したアシュリーが前世を思い出したのは、ちょうど十歳になった時だ。
高熱で寝込んだ時、膨大な記憶が突如襲ってきてパニックになった。特に死に際の思い出は苛烈で、熱が治まってからも金の髪や緑色の目をした友人やメイドが怖かったものだ。
そんなアシュリーに家族は首を傾げた。けれど特に思い当たる節もなかったことから、思春期の通り道として片付けられた。アシュリーの元々好きな友人やメイドだったので、すぐに元通りになったこともある。
遠い目をして思い出すアシュリーの前で、教師の熱弁は続く。
「そんなトルファ国の危機に、一人の勇者様が立ち上がりました。なびく金の髪に緑色の目をした強く気高い勇者様は、死闘の末に魔王を討ち取ったのです! 魔族は滅び、トルファ国に平和が訪れました。勇者様はトルファの王女と結婚し、この国は代々勇者様の子孫が治められているのです!」
(勇者!)
その言葉を聞いただけで、今でも背筋が冷たくなる。
前世で一突きされた左胸の辺りが、痛みを伴った。
高い山脈に隔てられていた当時の魔国は、今やすべてトルファ国の領土となっている。
最初に攻め入った魔国が悪いと、歴史を学んだ今ではわかる。けれど簡単には割り切れないし、皆のように勇者を称える気にも到底なれない。
「ラララー。勇者様はー素晴らしいー」と、トルファ国民なら誰でも知る国民歌が流れた。
(勇者が素晴らしい? そんなわけないわ。怖いだけよ)
死に際の恐怖がまざまざとよみがえり、ゾッとした。
(……何にせよ、平和が一番だわ)
心から思う。理不尽に命を奪われるのはもうごめんだ。
この平和な世界で、つつましく穏やかに生きていきたい。
──と、それだけが願いなのに。
(デビュタントの日が近づいてくるわ……)
恐ろしくてたまらない。
このトルファ国は階級社会である。
王族を頂点とし、貴族や地主などの上流階級、聖職者や医師といった専門職と、金融業や企業家などの中流階級、そして労働者たちの下流階級に分かれている。
上流と中流階級の子どもたちは、男女ともに十七歳で社交界へ出る。
そのための大事な儀式が、デビュタント──王族への拝謁なのだ。
子息たちは国王に、子女たちは王妃に、それぞれ分かれて謁見する。これを済ませると、社交界に受け入れられ紳士淑女だと認められる。
伯爵令嬢にとって、デビュタントは避けて通れない道だとわかっている。
けれど──。
(デビュタントの場所は、国王陛下の宮殿なのよ!?)
この国の直系王族は勇者の子孫である。
宮殿のある王都カタリアに行くのも初めてなのに、さらに王族の住まいそのものへ向かわねばならないなんて恐ろし過ぎる。
幸いにも王妃は隣国から嫁いできた女性だ。拝謁の場である王妃の謁見の間も、国王のものとは建物自体が違う。だから王族そのものと顔を合わせることはない、と聞いた。
それでも勇者の子孫たちがすぐ近くにいる。さらに護衛の兵士たちも。
考えるだけで身の毛がよだつ。
(せっかく今まで平和に過ごせたのに……)
行きたくない。避けられるものなら避けたい。
たまらず、両親にその旨を伝えた。すると両親は顔を見合わせて盛大に笑った。娘のとっておきの冗談だと思ったようだ。
「何を言いだすかと思えば。国中の男女が待ち望む場だぞ。ああ、そうか。アシュリーは緊張しているんだな。大丈夫、何も怖いことはないよ」
「そうよ。とっておきのドレスを選んであげますからね。これでアシュリーも社交界デビューね。結婚相手候補の素敵な男性がたくさんいるわよ。ああ、楽しみだわ!」
体調を崩せば行かなくていいかもしれないと思い、薄着で過ごすことにした。けれどちっとも風邪をひかない。それどころか、ばれて母にこっぴどく叱られた。
領地内の納屋に、しばらく身を潜めようともした。が、荷物をまとめている間にメイドにばれて、また母から叱られた。
(もう打つ手がないわ……)
不安と恐怖で胃が痛い。
そんな中、ついにデビュタントの日がやってきた。