第二章 魔法物理学 その3
声が聞こえた気がした。
瞬間、俺はすっかりトリップしてしまっていた思考から現実へ舞い戻り、自分が今祠の中にいることを思い出す。手に持っている水晶に気付き、慌ててそれを元に戻したところで……、やはり今誰かの声がしなかったかと思い直した。
振り返る。
しかしそこに人影はない。
「……びっくりした、一瞬ボクの声が聞こえたのかと思ったぜ」
「え?」
「え?」
やはり声がする。
俺は声がした方向に顔を向けた。
やはりそこに人影はない。
だが代わりに、小さな蛇のような生物が、そこには浮いていた。
それは青色で、一般にイメージする蛇の半分もない大きさだ。加えて眉間には小さく白い突起が二つ。背中側には金色のたてがみの様な物がわずかに見て取れる。つまり変な蛇だ。
「あれ、やっぱり、もしかして、ひょっとすると、ボクのこと見えちゃってる?」
蛇が小さな口を開き、なんとも人間っぽい口調で尋ねてきた。
「……………………………………………………………………」
対する俺は、目の前にある存在を脳で処理することができない。
断っておくが、この世界に魔法が存在するからと言って、こんなビックリ生物がいるなんてことはない。犬、猫、馬、牛などは以前の世界同様に存在しているが、よくファンタジーにありがちな『亜人』『魔獣』『モンスター』エトセトラはいない。この世界においても、それらは空想上の存在となっている。
だが、そのはずなのに、目の前に浮かぶそれはどう見てもエトセトラ側に分類されてしまいそうに見える。俺は動揺のあまり、思わずこう答えてしまった。
「…………み、見えてない」
「いや、見えてるし聞こえてるねえ!?」
明らかに目が合う俺に対し、宙に浮かんだ蛇が叫ぶ。
「う、受け答えをするな。信憑性が増してしまうだろ。幻覚ならもっと支離滅裂な事を言え」
「ボクの存在を幻覚として処理しようとしないでくれる? せっかく数百年ぶりに誰かと喋ったってのに、そりゃあんまりだぜ。いやしかし、どうして見えるんだろうなあ。見えない聞こえない触れられない、故にボクたちは人間の上位、精霊たり得ているはずなのに」
「……か、帰ろう。熱があるかもしれない……。もしくはやはりあの時脳に異常が――」
「えっ、帰っちゃうの!?」
俺は額を押さえながら立ち上がり、ふらふらと祠の出口に向かった。だが、背後から泣きそうな叫び声が聞こえてくる。
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってって! 数百年ぶりの話し相手にそんな帰られ方したらボク傷つくんだけど! 泣いちゃうぜ!? 精霊を泣かすなんて、あんまり聞こえがよくないんじゃないかなあ!? せっかくだからちょっと話していきなって、ね、マジでちょっとだけでいいから。お茶とかは別に出ないけど!」
「…………」
「いや待って! 聞こえないふりしないで! 切ないよぉ!? 無視ってイジメだよ!? ダメだって、ボクここから出られないんだもん!」
「…………」
「あ、あ、それに、さっきブツブツ言ってた独り言、ボクちょっと興味あるんだよねえ! 詳しく聞かせて欲しいなあ!」
「!」
俺は思わず足を止めて振り返った。
それを見て、小さな青蛇はニコッと口角を上げる。そして戻れと言うように飛んできて、俺の肩先に絡みついた。その感触に、タチの悪い幻覚という可能性が消えてしまう。
俺は観念し、ため息を漏らした。
「…………なんだって?」
「ほら、小難しい独り言をブツブツ言ってたでしょ? しかも神聖な水晶を手づかみしながら」
蛇は背後の水晶を首で指し示した。
「て、手づかみしたのは認めるが……、独り言なんて言ってないぞ」
「言ってたよお。待てよ、ちょっとおかしくないか、とか。ムジュウリョクがどうとか、シコウセイがどうとか」
「それが本当なら、大分初めから考えが声に漏れてたことになるんだが……」
俺は眉根を寄せた。しかし独り言が無意識に漏れてしまうのは、科学者の頃にも指摘された覚えのある悪癖だった。
「分かった。それで蛇、興味があるというのはどういう意味だ」
「詳しく聞かせて欲しいんだ。なんならキミの役に立てるかもしれない」
「……役に立つ?」
「水魔法について調べてるんじゃないの? そういう話だったと思ったけど」
「いや、それはその通りだが……、お前に何の関係があるんだ」
俺が問うと、蛇はキョトンと目を丸くした後に呆れるように言った。
「いやだなあ! ボクは水の精霊だぜ? 水魔法について聞くなら、これ以上の相手はいないと思うんだけど?」
今度目を丸くしたのは俺の方だった。
「………………待て待て待て。お前が精霊だと? 馬鹿を言うな、百歩譲って蛇が浮いて喋ることについては許容しかけていたが、精霊が実在するだなんて話を信じるわけにはいかない。精霊は人が生み出した想像上の存在だろう」
「いや、何を今更……。ボクさっきからずっと精霊だって言ってたはずだけどなあ。
まあまあ、キミたちからすれば信じがたい存在であることは間違いないだろうけどさ。それにボクだってキミに姿が見えてることに驚いてるんだぜ? 驚きとしてはトントンと言っていい」
「いや、何一つトントンじゃない! い、今、俺の目の前に浮いている蛇もどきの様な生き物が、魔法どころかこの世界を創ったと言われる精霊だと……!?」
俺が思わず声を荒らげると、蛇は誇らしげに胸を張って言う。
「そうとも! そもそもキミがいるのは精霊の祠だよ? 精霊が現れてもなんらおかしくはないじゃない?」
「いや、それは、人間が勝手に精霊という存在を生み出して建てたからで……」
「違う違う。精霊がいるから、ここに祠があるんだ。精霊は存在する、ちなみに、ボク以外にもね」
「…………! ば、馬鹿を言うな。そんなことは、あり得ない!」
俺はじりじりと寄ってきて精霊の存在を認めさせようとする蛇に叫んだ。すると、にやけ面だった蛇の口角が下がり、途端に無表情になる。
「…………あり得ない?」
「――――!」
俺はそこで、今何を言ったかを自覚した。
それが自分自身の信条に反する発言であったことも。
「どうしてあり得ないの?」
「…………あ、いや、すまん、今のは……、言葉の弾みだ……」
「なに謝っているんだい? 別にボクは何も怒ってなんかないよ。そう思う理由を聞いてるだけさ」
「いや……、違うんだ。今の発言は、自分が今までやってきたことを否定されたくなくての発言だった……。精霊の存在を認めてしまうと、科学的な検証の意味が消えてしまうから……」
「カガクテキ? カガクテキってなに?」
「それは、少し説明が難しいんだが……」
精霊を名乗る蛇からの質問は止まらず、じりじりと壁に追い詰められていく。俺は、次第に自分の考えをまとめきれなくなり、本当に頭が痛くなってきた。
ともかく俺は、動揺していたとしてもあまりに浅慮だった先の発言を恥じる。
自分の考えに固執して、不利な要素を否定するなんてのは科学者としてあるまじき態度だ。仮説はあくまで仮説。正しく証明されるまで、いつ覆るとも分からない流動的なものだと知っているはずなのに。
「俺は今、『魔法』とは精霊という不確かなものに与えられたものじゃなくて、もっとちゃんとした法則性を持つ説明可能なものじゃないか、という考えで研究を進めていたんだ……。だからつまり、俺にとってお前の存在は都合が悪い……。居ては困る…………。…………いや待て、俺は精霊の祠で何を言ってるんだ? もしかしてとんでもない罰当たりなんじゃ……」
「あはは、あまりにも今更な心配だね。でも心配しないでよ。ボクはキミの考えを否定するために出てきたんじゃないぜ。むしろ逆と言ってもいいと思う」
「…………逆?」
「ボクはその考え方を支持する。あ、いや、ボクの存在を否定されるわけにはいかないけど、その他の部分、魔法は神秘の力なんかじゃないってところさ」
「ちょ、ちょ、ちょっと言ってる意味が分からないんだが……」
「いいトコついてるって言ってるんだよ。カガクテキとかは分かんないけどさ。それに、不信心だどうだというなら、ボクはむしろキミ以外の大勢にそう言ってやりたいね。あいつらは数百年経っても、魔法の表面上の部分しか見ていない。全くもどかしいったらないんだ」
「………………は」
俺は余りにも予想外な事を言う精霊に口をあんぐりと開けた。俺の考えを否定する存在が、俺の考えをいいトコついてると言う。何なんだこの矛盾は。
「別に矛盾しないと思うよぉ。勘だけどさ、そのカガクってやつとボクが共存できる道もあるんじゃない」
「共存……?」
俺は共存の意味合いがすぐに分かりかね首をかしげるが、蛇はそんな俺の周りを楽しげにくるくると飛ぶ。
「ヘイヘイ、それで、何か質問とかないのかい。今のボクはかなり上機嫌だよ。時間が許す限りいくらでもウェルカムだ。あ、もしよければこの水晶もあげようか? それでキミの部屋に飾ったりしてくれたら、ボクは話し相手ができるし、キミもいいインテリアをゲットできてお互いハッピーだよ?」
「いや、水晶あげちゃダメだろ……。神聖なものなんじゃなかったのか? それに伯爵家の息子が祠の水晶持ち帰るなんてニュースは、ちょっと目もあてられないだろ」
「ん? ん? 伯爵家? 息子? ――――あ、もしかしてナラザリオのとこの?」
「ああ、地元の伯爵家はさすがに知ってるんだな。長男のロニーが俺だ」
「聞いたことあるよぉ! 出来損ないのごく潰しで有名なロニーだよね! キミだったのかぁ! 優秀な弟さんもいなかったっけ?」
「そんな楽し気に人の傷を抉るなよ……、まあ、その通りなんだが……」
「ふうん? 勉強もろくにできなくて救いようがないって聞いてたけど……、本当にキミのことかい?」
「……ああ、そうだよ」
正確に言えば、二週間前までのロニーだが。
「ふうん、人間の噂なんてあてにならないってことかな? まあいいや」
「質問――、だったか」
「イエェス、エビシンイズウェルカム~」
「質問、と言ってもな……。そんな心構えなんてしてなかったから、何を質問していいものやら……」
俺は頭を掻きながら、何を聞くべきかを考えた。目の前に浮いている存在が【精霊】かどうか、その真偽はいったん置いておこう。未確認生物なのかもしれない。未知の魔法かもしれない。誰かが用意した高度なカラクリなのかもしれない。科学の及ばぬ高次元な存在なのかもしれない。
……そもそも、科学という尺度で測れないといっても、科学自体が絶対ではない。科学とは手法であって、真理ではないのだ。重要なのはこの蛇は存在していて、対話ができ、【精霊】を名乗っているという事だろう。妙な思い込みにこだわって、有用な機会を失してしまう事の方が愚かではないか。
しかし、俺の二週間かけて組み立てた理論は、前世の知識に基づくもので、この世界の住人に通じるものではないというのが問題だ。精霊には重力という単語すら通じていないようだった。するとできる質問もまたかなり限られてくる。
この世界の本には書いていない。
ヨハンに聞いても分からない。
科学理論外の質問。
そんなものがあるだろうか。【精霊】という存在にしか分からないような事が――。
「――――あ」
「おや? どうしたかな?」
「あるじゃないか……。というか、これを今聞かなくてどうするって話だ……」
「なんだいなんだい? ボクのスリーサイズかな? 上から六・六・五だよ」
「紐状生物のスリーサイズなんぞ興味あるか」
「じゃあ何かな? 一応ボクに答えられることで頼むぜ?」
「本当にお前が魔法を生み出した存在――、人間よりも高位の存在なんだとしたら何か分かるはずだ。もしこの質問に答えてくれたら、俺はお前を精霊だと正式に認めよう」
「まだ正式に認められてなかったんだ……」
俺の目の前に青色の小さな蛇が静かにたゆたっている。透明感のある輝きを持つ鱗が外からの陽光にきらめき、眉間の小さく白い二つの突起が顔の動きに合わせて小さく揺れる。
これは、科学者【山田陽一】としての質問ではない。
十六年間この世界で生きてきた【ロニー・F・ナラザリオ】としての質問だった。