シーン1 派遣カップル始めました その6


 事務所の四階はレッスン用のスペースとして借りているんだと所長は言った。

 レッスン用スペース……、いい響きだ。いきなり新人研修ってのは驚いたが、芸能事務所の本格的なレッスンがどんなものか、期待で自然とテンションが上がってしまう。

 けれどその部屋に入った途端、なんだか奇妙な感覚を覚えた。

 なるほどそこはレッスン用らしく、壁にはいくつも大きな鏡が取り付けられていた。

 それはいいんだが、問題はそれ以外の内装だ。

 ……なんか、やたらと椅子が多いような……?

 普通のものからちょっと高そうなアンティークもの、パイプ椅子もあるし、ソファもある。それに……、あれはベンチか? なんであんなものまで?

 とにかくいろんな種類の椅子が鏡に向かって設置されており、結構広めの部屋なのに半分くらいのスペースがそれらで埋まっていた。ぶっちゃけちょっと異様な光景だ。

「さ、二人ともここに座ってー」

 そんなことを考えていると、所長がベンチの背をバンバンと叩きながら俺と比奈森さんをそこに座らせた。すると正面の鏡に並んで座ってる俺達の姿が映り、ますます落ち着かない気分になる。

「……なんなんですかこの部屋? やたらと椅子だらけですけど」

「だからレッスン用の部屋だってば。それもカップル専用の特別仕様だよきみー。椅子が多いのは、そこがカップル役の主戦場だから。カップルってのは並んで座ってイチャイチャしながら周囲に見せつけるのが基本形だからねー」

 ……見せつけるって。いや、役なんだから言わんとしてることはわかりますけど。

「ここはその基本を練習するための場所ってわけだよきみー。他の部屋にはお風呂とかベッドとかも用意してるけど、そっちはきみ達にはまだ早いからねー」

 なんだか今おかしな単語が出てきた気がするが、とにかくまずは座ってカップル役らしく振る舞う練習をするということらしい。

 カップルらしくってことは――その、なんだ……、つまりはイチャイチャするってことになるんだろうけど、……比奈森さんとイチャイチャ……。

「あの、具体的にどんなことをすればいいんですか?」

 俺がなんだか落ち着かない気分でいると、比奈森さんが所長にそんな質問をした。

「大丈夫、初心者でも安心なようにちゃんとマニュアルを用意してあるからねー」

 すると所長は冊子を取り出して、俺と比奈森さんに手渡してきた。

 表紙には『派遣カップルマニュアル基礎編~これでイチャイチャぶりを周りに見せつけろ!~』と書かれており、俺はなんだかんだでちゃんとマニュアルが用意されていることに感心した。この副題はどうかと思うが。

「新人研修ではこのマニュアルに書かれてる内容をガッチリ身につけて、どこに出しても恥ずかしくないカップルになってもらうから、そのつもりでいるようにー。じゃあ今日は最初のページにある、カップルの基本的な姿勢からいくよきみー」

 そう言われて、俺も比奈森さんもマニュアルの一ページ目を開く。

 するとそこには『基本姿勢①:手をつなぐ』『基本姿勢②:腕に抱きつく』などという文言が図解付きで載っていて、まさに基礎編といった内容だった。

 とはいえ、そういうカップルなら当然といった体勢も、こうやってわざわざ改めて提示されると妙に気恥しく感じる。それをこれから自分達がやるとなるとなおさらだ。

「さあぐずぐずしてないで、最初から順番に実践していってねー」

 しかし、これはあくまでも役の練習なんだから。恥ずかしがることなんて何もない。

 俺は自分にそう言い聞かせつつ、比奈森さんに「じゃ、じゃあいくよ」と断りを入れてからゆっくりとその手を握った。

 ……ヤバい。超柔らかい……!

 女の子の手ってこんなに柔らかいものだったのか? 女子と手をつなぐなんて小学三年生の遠足で隣の席の西にしむらさんとした以来だから、なんかすごくドキドキする……!

「鳴瀬くん、もうちょっと強く握ってくれても大丈夫だよ?」

 しかもその時、比奈森さんがそんなことを言って力を強めたので、さらに手の感触がハッキリと伝わってきてしまう。

 反射的に比奈森さんの方を振り向くと、その顔がいつの間にか近くにあって、俺はますます狼狽する。一方で比奈森さんの方は特に何の変化もなく、ちょっと不思議そうな顔で俺の方をジッと見つめているだけだ。

 ……う、やっぱり比奈森さんは可愛い……。こうやって間近で改めて見ると、なおさらそう思えてしまう。自然と頬も熱くなってくる。

 確かに比奈森さんはクラスで目立つ方じゃない。

 もっと華やかで男子に人気があったり、明らかにモテる女子ってのは他にもいる。

 だけど、実は陰に隠れてるだけで比奈森さんも十分美少女だとか、一見地味だけどよく見ると比奈森さんは『いい』と言ってる男子が多いとかいう噂を聞いたことがある。

 今まで俺はその噂に「そういうものかな」といった程度の認識だった。

 だって接点がなかったんだから、噂は噂のままで宙に浮いていただけだ。

 だが、今こうやって実際に手をつないだりなんかしていると、いくらそれが役のうえだとしても、どうしてもそういうことを意識せざるを得なくなってくる。

「ほらほら、どんどん先に進んでくれないとダメだよきみー」

 その時、所長に注意されて俺はギクッと身体を強張らせる。

「あ、はい。えっと……、次は私から腕に抱きつくんだね。いいかな鳴瀬くん?」

「ど、どうぞ、お願いします……!」

 俺は緊張からか、比奈森さんの確認になぜか敬語で返してしまう。

 比奈森さんはそんな俺を見てどこか遠慮がちに、でもしっかりとした力で俺の腕に抱きついてきた。すると当然だが、今度は手だけじゃなく腕全体に比奈森さんの感触がする。

 しかも同時に、なんだかこの世のものとは思えないくらい柔らかい感触が時折ふにふにと伝わってきて――……って、さ、さすがにこれはマズいだろ……!

 俺は慌てて少し距離を取ろうとするが、その瞬間所長に呼び止められた。

「何をしてるんだい。もっと密着しないといけないのに自分から離れていってどうするんだよきみー。ほら比奈森くん、どんどんギュッといきなさい、どんどん」

「ごめんね鳴瀬くん、もうちょっとだけ近づくね」

 所長の言葉に素直に従って、さらに強く腕に抱きついてくる比奈森さん。

 そうするとふにふにがむにむにレベルになって、頭にカッと血が上るのがわかった。

 なんとか平静を保とうと努めるが、ふと前を見ると鏡の中で俺と比奈森さんが密着しているのが見えて、その光景がさらに火に油を注ぐ。

「よーし、じゃあそのままの流れで次の体勢いってみようかー」

「えっと……、鳴瀬くん、次の基本姿勢③は彼女の肩を抱くってあるから、鳴瀬くんの方から動いてもらってもいい? 私もそれに合わせるから」

 そうして俺がガチガチに固まっていると、比奈森さんが俺の腕に抱きついたまま上目づかいでそう言ってきた。

 ぶっちゃけそれはヤバい。その体勢で「私、欲しいものがあるんだ……」とか言われたら、普通に財布を取り出してしまいそうな気がする。

「鳴瀬くん? どうしたの?」

「え? い、いや、あの、ごめん。ちょっと緊張して……!」

 ……うう、なんて情けない台詞だ。さっき演技の経験者って言ってしまったから余計に恥ずかしい。比奈森さんはちゃんとできるだけに、なおさら。

「ほらほら鳴瀬くん、役者を目指してるくせに女の子とくっついたくらいでガチガチになってる場合じゃないでしょー。比奈森くんの方はちゃんとできてるっていうのにー。もしかしてあれかい? 女の子に慣れてなかったりするのかいきみー?」

「し、仕方ないでしょ! 彼女とかいたことないんですから!」

 そんな感じで凹んでいると、所長がぷぷぷと笑いながら今のご時世セクハラ認定されてもおかしくないような挑発をしてきたので、俺はついムキになってそう反論した。

 そう、仕方ないんだよ! 恋愛経験なんてないんだから、演技とはいえ女の子とイチャイチャなんてしたらどうしても緊張するに決まってるだろ!?

 ……いや待てよ? そういえば比奈森さんはさっきからあんまり緊張してる様子がないけど、つまりこういうのに慣れてるってことか? じゃ、じゃあ彼氏とかいるのかな? 

 って、彼氏がいたら彼氏役なんて必要になるはずないじゃないか。

 ……じゃあ、過去に彼氏がいてこういうことをした経験があるとか……?

 そんなことを悶々と考えていると、比奈森さんが俺の服をクイクイと引っ張って、

「そんなに気にすることじゃないよ鳴瀬くん。私も彼氏とかいたことないし、一緒だね」

 そう言ってニコリと笑いかけてきたので、俺は思わず固まってしまった。

 その一言で、異性と付き合った経験がないから緊張するのは当然という俺の言い訳は崩壊し、ただ単に俺自身がダメだったと明らかになってしまったからだが、実はそれだけじゃなく、なぜか俺はその比奈森さんの一言で気が抜けてしまったのだ。

 そっか、比奈森さん、彼氏いたことないんだ……。

 ……って、なんでちょっとホッとしてるんだ俺は?

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