第二章 メインとモブと その5

「「「──妊娠!?」」」

 病院の待合室で俺と木下と華風院の驚き声が重なって轟いた。病院内で大迷惑もいいところだが、あいにく今の俺達にそんな周りへ配慮していられるような心の余裕はなかった。

「だそうだ。丁度七ヶ月目になるらしい。いやぁーまったく気付かなかった。最近ちょっと太ってきたなと思ってはいたが──ははっ、こいつは驚きだ。医者曰くもともと生理不順だったりすると、ごく希にずっと無自覚なまま生活している人がいたりするとのことだが──まさか自分がその希に入っちゃうなんてな。中には無自覚で病院に行ったらそのまま出産──なんてケースもあるらしいぞ」

 後ろ髪を掻き、悪びれる様子もなくたまげたなと他人事のように笑う姉貴。さっきの腹痛は、妊娠後期になると起こりえる症状らしく、人によっては姉貴のような立っていられないほどの激痛を伴うらしい。

「笑いごとじゃねぇだろ。ったく本気で心配したんだぞ。ま、何事もないどころか、逆におめでたでよかったけどさ」

「そうですね本当に。心臓が止まるかと思いましたから」

「うんうん。急にナベちゃん先生が倒れた時はマジで焦ったし」

「すまんな。君達には変に心配かけてしまった。はーこれで私も遂にママになるのか。嬉しいような、時の流れの速さを痛感するようで悲しいような」

 姉貴がお腹をさすりながら、しんみりした表情で呟いた。らしくない弱気な顔に少し戸惑う。これが俗に言う、マタニティーブルーってやつのなのかな?

「というわけで、私はこれから産休に入ることになる。活動を立ち上げたばかりの、この中途半端な状況で離脱を余儀なくされるのは誠に遺憾だが、私の意志はずっとお前達と一緒だ。だから後のことは頼んだぞ。な、海翔リーダー」

 にっと勝ち気に笑った姉貴が、俺の背中をばんと強く叩いた。

「は……?」

 それって何だ、ようするにこれからも俺達だけで廃校反対運動を続けろってことか。

 それも、人気先生の後ろ盾がなくなり、残ったのは地味で冴えない生徒がたった三人で──いやいや無茶振りにも限度ってものがあるだろ。

 そう考えてるのはどうやら他の二人も同じなようで、誰も姉貴の言葉に前向きな返事をすることなく、何とも言えない表情のまま俯いている。

 きっと彼女らも察しているのだ。残された自分達だけでは出来っこない。成り行きで始めたちっぽけな反対活動は、発起人の離脱をもってこれにて解散なのだと。

「なぁにそう困惑することはないさ。逆に今は追い風だろ。私達の呼びかけはあんなに好感触だったんだ。少なくとも一人や二人は来てくれるだろうし、私の代わりに手伝ってくれる先生だって現れるかもしれない。ひょっとすると、お前の生徒会長を追っ払った主張に心打たれたやつだって出てくるかもしれないぞ。はっはっは」

 姉貴が楽観的に笑う。フラグにしか聞こえないから止めて欲しい。

 はぁ……明日からマジでどうすりゃいいんだよ。


                   〇


「たのもー」

 次の日の放課後。俺はどんよりと湧きあがる億劫さを押し殺しながら、進路相談室のドアを開いた。

「……わかっちゃいたけど、やっぱ誰もいないか」

 空っぽな室内を目にして、落胆して小さく息を吐く。

 大健闘だったはずの俺達の勧誘活動は、一夜明けた今、人気美人先生の妊娠騒動にすっかり話題をかっ攫われてしまっていた。あんなに好感触だったのに、全く話題にされていないときたもんだからやるせない。おまけに俺は、あれの弟であることが全校中に知れ渡ってしまったのだから、ほんと踏んだり蹴ったりだ。

 まー覚悟は出来ていたつもりでいたが、実際にこの惨状を見せつけられると、やっぱ精神に応えるな。それでもこの場所に足を運ぶ気になったのは、あんな呼び込みをした以上、見届ける責任があると思ったから。

「おや、香坂さん、お早いですね」

「華風院……」

 黄昏れていた俺の背に、抑揚のない声がかかって振り返る。

「お前も来たんだな」

「まぁ、暇でしたから」

「結果なんて目に見えてるもんなのに、律儀なやつだな」

「それは、貴方もでしょう」

 くすりと小さく笑った華風院が自分の定位置、左端の席に座る。

 俺もそれにならって自分の定位置に腰を下ろした。

「木下のやつは……やっぱ来ないよなぁ」

 真ん中の空席を眺めて呟く。姉貴がいなくなった今、あいつにとっては来る理由がなくなったわけだしな。そもそも、多数派になじむのを大切にしているあいつが、理由も言い訳もなくこんな少数派な場所に足を運ぶ気にはなれないだろう。どんな奇異の視線が飛んで来るかわからないし。

 そのまま俺は、胸に淡い希望を抱きながら華風院と共に誰か来ないか静かに待った。

 そして結果は──

「まーわかっちゃいたけど、誰も来るわけないか」

 進路相談室に掛けられた時計が十七時半を回った頃、伸びをしながそう独りごちた。ここいらが潮時だろう。うし、残念だけどすぱっと気を切り替えて、これから先のことを華風院に相談してみるか。

 そう決意し、華風院に撤収を告げようとしたその直後、不意に進路相談室のドアががらっと開かれた。

「うわっ、ほんとにいた!」

 現れたのは、期待のニューフェイス──などではなく。驚き半分、呆れ半分といった様子で顔を引きつらせていた木下だった。

「向こうの廊下から相談室の窓に明かりがついてるの見えたから、まさか──と思って覗いてみたけど……ほんと、呆れた。よくやるわ」

「そういう木下は何でこんな時間まで残ってんだよ。お前確か帰宅部だったよな」

「友達と教室でトランプして遊んでたの。そんなことより──アタシの想像してた通り、やっぱ誰も来なかったってわけね」

「まぁ、正に見てわかる通りってやつだよ……。ひょっとすると、今日はたまたま都合がつかなくて、明日なら来れるって人がいたりするかもだが」

「残念だけど、それはないと思う。これはアタシが友達づてで耳にした話だけどさ、生徒会を中心に『あんな非公式団体に手を貸すと、下手したら学校からの印象が悪くなって内申や進路に響くかもしれない』的な警告が流れてるっぽいよ」

「げ、マジかよ……」

 ただでさえ瀕死状態なのに、裏でそんな根回しされていたのかよ。最悪だ。たぶん、桐島会長に俺が真っ向から啖呵切ったせいだよな。くっそ、超プレミじゃん……。

 けど、そんなどん底状況だとしても俺は──

「なぁ、二人とも聞いてくれ」

 覚悟を胸にぐっと拳を握り込むと、俺は真剣な顔で二人と向き直った。

「俺は姉貴の意志を継いで、もう少しこの反対運動を頑張ってみたいって思ってるんだ。だからさ、その、なんだ……よければ二人には協力して欲しいつーか──」

「はぁ、正気?」

 緊張と羞恥で詰まる俺の言葉を遮り、愚か者を蔑むような木下の厳しい視線が向く。

「何あんた、青春ドラマの主人公にでもなったつもり? 流石にナベちゃん先生があんなことになっちゃったら終わりでしょ。実際問題、アタシら三人だけで何が出来るっての? 出来ないから人集めしようって流れになったんでしょう」

 木下の訴えは正論だった。まぁそう考えるのがフツーだよな。正直俺だってそう思う。

 が、それは事の結末を知らなければ──の話。

 俺だけは知っている。この無謀にしか思えない挑戦が後に功を奏し、本当に廃校がなくなる未来が待っているのだと。

 恐らくこれは未来でやんちゃ嫁が言っていたあの「何度も解散しそうになっちゃったり」の第一発目なのだ。初っぱなからこれとは、俺のストーリーモードいささかハードモードすぎやしませんか。まぁ桐島会長との衝突は半分俺の自業自得みたいなところあるけど。

 それに──

「けどここで諦めたらさ、昨日生徒会長の言ってたことを認めるってのと同じになるんだぞ。そんなの悔しいじゃんか。だからさ、ちょっくら見せてやろうぜ。俺らモブメンでも、為せば成るってことをさ」

 今ならわかる。

 やんちゃ嫁が口にしていた「最初はたった三人だった」という台詞の本当の意味。

 あれは俺、姉貴、華風院を示していたんじゃなく、俺、華風院、木下のことだったんだって。そう、このいまいちパッとしない学生メンツ三人っていう意味だったと。

 だから、ここからが俺達の本当のスタート地点なんだ。

 もしかしなくても、ここからかなりの苦難が待ち受けているに違いない。

 だとしても、この活動の末に俺の幸せな未来、あのやんちゃ嫁との甘々な結婚生活が待っているというのなら、ここで終わりにさせるわけにはいかないだろ。

 なにはともあれ、俺はもう決めたんだ。あの未来夢での光景を信じて進んでみようと。

 廃校問題にしろやんちゃ嫁にしろ、俺は必ず、この手でハッピーエンドを掴み取ってみせるって!

「はぁ……呆れた。ようするにただ意固地になってるだけなんでしょう。ね、華風院さんからもこの馬鹿に何か言ってやり……」

「別にいいですよ」

「へ?」

「放課後はどうせ暇ですから。それに──あの自信に溢れた生徒会長の鼻を、我々地味キャラでへし折るってのはちょっと面白そうですし」

「華風院……ありがとな」

 含み笑いでちょっぴり怖い一面を覗かせつつ、即答で賛同してくれた華風院を前に、嬉しさから胸がじんと熱くなる。

 が、その逆、木下は至極つまらなそうな顔をしていて。

「あっそ。言っとくけど、アタシはごめんだからね。あんたら馬鹿二人と違って、アタシはアタシって人間の身の程を十分に理解してますから。ったく、アタシらフツー人間がいくら集まったところで、何も出来るわけないじゃんか。そういうのを何て言うか知ってる? 勇気と無謀をはき違えてるって言うの! 忠告してあげる、絶対惨めに空回りして終わるだけだから……」

 ふんと拒絶するように顔を背ける木下。

 残念だけど、お前が始まりの三人の可能性が濃厚な以上、逃がす気はないんだよな。

「どうだ木下、俺と再雇用契約してみないか?」

「は、何よ? その再雇用契約って……」

「お前は元々姉貴から『没収された漫画を返してもらう』って条件で雇われてやって来た身だったろ」

「そうよ。……結局、返してもらってないけど」

「だったら俺も、それなりの報酬を用意するから力を貸して欲しい。報酬内容は……そうだな、松永さんの連絡先──とかどうだ?」

「へ……マジ?」

 お、揺らいだな。

「大マジだよ。俺が弟の康助と仲いいのは知ってるだろ。何なら、成果次第では遊ぶ約束をセッティングしてやってもいいんだぜ」

 得意げに胸を張りつつも、内心では脳内の松永さん相手に必死に土下座する。勝手に約束してごめんなさい先輩。こいつをここでとどめるいい方法が、これしか思いつかなかったんです。

「…………わかった」

 木下は数秒悩んだ後、ゆっくりと頷いた。

「いいよ。その条件で乗ってあげる」

「本当か。助かるよ木下」

 つい笑顔になった俺を前に、木下は照れくさそうにそっぽを向いた。

「まぁ、あんたのおかげで、憧れの松永先輩とお近づきになれたのは事実なわけじゃん。アタシ的には廃校とか別にどうでもいいけど、恋のために少し手伝うぐらいならアリかなぁって。その代わり、約束破ったらマジで承知しないから」

「おう。そこは任せとけって」

 ま、この件に関してはその時になってから考えるとしよう。何とかなるだろ。

 とにかく、これでメンツは揃った。こっからが俺達による物語の本当のスタート。

 正直、こっからどうやって廃校の決定を覆せばいいのか、未来の俺達はどんな手段でこの無理難題と戦ったのか、今のところは全くもって想像がつかない。

 ただ、その苦難の先に約束された勝利が待っているというのなら。

 それも他でもない、俺自身が主体となって成し遂げたというのなら。

 自分自身を信じ、とことん突っ走ってやろうじゃんか。

 待ってろよ、ハッピーエンド。

 待ってろよ、未来の俺の素敵なやんちゃ嫁!

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