第一章:『剣の都』-⑦

 一瞬で辺りに立ち込める死の気配。うるさいくらいに早鐘を鳴らす僕の心臓。一気に弥立つ全身の毛。ガクガクと震えるだけの両足。


『グゥルルル、グゥルルァァアアア!!』


 吐き気を抑えるのでやっとの僕は、一度それを目にしてしまえば心が打ち砕かれてしまうと理解しながらも振り返った。

 幻聴であってほしいと願いながら、首を回した。「 ──ぁ」


 しかし、それは無慈悲にそこに佇んでいた。


  ──魔獣【大鬼オーガ

 それは、多くの英雄譚の中で恐怖の象徴として多くの人々から恐れられてきた魔獣。

 強固な盾をも貫く一本角に、血に飢えた獣の双眸。浅黒い色の厚皮を限界まで膨張させている隆起した筋肉。虎をもその腕力で圧し潰す、暴力の化身。

 僕のような子供がソレに出会ってしまえば最後。死ぬ。


『グルァアアアアアアッ!』

「あ、ひ」


 その雄叫びを前にして、僕はみっともなくへたり込んでしまった。

 視界を黒く染め上げるほどの恐怖と口の中に広がる涙の味だけに、意識を支配される。


「ひっ……ひぁ」


 嗚咽ともとれる乾いた悲鳴を漏らしながら、両手の力だけで後退る。

 目の前でそんな体たらくを晒す格好の獲物をこの怪物が見逃すはずもない。

 怪物は狂喜の笑みをその顔に貼り付けると、ゆっくりと僕に向かって歩き出した。

 嫌だ。怖い。来るな。来るな、来るな、来るなッ!

 当然……そんな願いは届かない。怪物は、止まらない。


「ひ、ひいっ!」


 もうだめだ。心の底からそう思った。

 逃げなきゃ、とか。助けを呼ばなきゃ、とか。そんな選択肢はとうにない。ただ、発狂したくなるくらいの死の気配だけが明瞭に感じられるだけ。


「ぁぁ、ぁ」


 僕は、こんな状況に身を置く原因となったベルお姉さんを少し呪った。

 同時に、それが八つ当たりだということも理解する。自分が端役だと理解した上でベルお姉さんの誘いに乗ったのは、僕自身だから。

 でも、それだけ僕は主役になりたかったんだ。なってみたかったんだ。

 いくら後ろ指を指されようと、滑稽だと笑われようと、その夢だけは捨てたくなかった。

 だけどもうこの先、僕は憧れることすらできなくなる。ここで死んでしまうから。


『ヴウッ、ルルゥ』


 眼前まで迫る巨躯。その右手に握られた棍棒が無慈悲に振り上げられる。

 そして僕は、一瞬先の死を悟った。死ぬ覚悟なんてできていない。できるはずがない。僕はただ洪水のように涙を流す双眸を限界まで瞠る。

 そして ──


「退いてください」


 天使が降り立つようにして現れた純白の背中が、一秒先には僕の命を刈り取っていたであろうその一撃を弾き返した。


『ッッ』


 純白の少女……シティさんは音も立てずに地面に着地する。

 眼前にあるのは、あまりにも華奢な後ろ姿。穢れを知らない雪の妖精を思わせるような後ろ姿。気品と気高さを備えた淑女の佇まい。


  ──【しゅく

 目の前の背中を見て、僕はようやく彼女がそう呼ばれている理由を理解することができた気がした。


「シティ、さん」


 脱力感に身を任せたまま、僕は言葉を紡ぐ。


「どう、して」


 助けてくれたのか、と。呆然とした顔で続けようとした僕に向かって一瞬だけ蒼の瞳を向けると、シティさんはその小さな口を開いた。


「『人の主役としての真価が最も色濃く表れる瞬間』 ……それは、弱者の立場にありながら圧倒的な理不尽と対峙したとき」

「え」

「師匠がよく口にしている言葉です」


 目の前の怪物から目を離すことなく、シティさんは続ける。


「精霊からの恩恵も、他者から伝えられる技も、何一つ手にしていない状態。何の力も享受していないまっさらな状態の時こそ、その人の真価は色濃く現れる。だから師匠は今のアナタにこんな理不尽を押し付けた。そして、試した」

「……」

「わたしも最初、同じようにここに放り込まれました。そして、師匠に直接真価を見定められた。……でも今回、その師匠はいない。代わりにわたしを残して、去っていった」


  ──それはつまり。


「『気に入らないなら、自分自身でその真価を見定めてみろ』と、師匠はわたしにそう言っているということです」


 正面で巨体を起こす怪物。


「だから今、陰から【大鬼オーガ】と対峙するアナタを見ていたのですが」


 そちらに向き直り、シティさんは言う。


「立ち向かおうとも、逃げようとも、策を巡らせようともせず、ただ座り込んでいただけ」

「っ」

「本当にアナタ ──なんの取り柄もないただの臆病者なんですね」


 その横顔に苛立ちの色を滲ませて少女は駆け出した。

 姿がブレるほどの疾走。一瞬で【大鬼オーガ】との距離を食い尽くしたシティさんは、流麗と表現するに相応しい剣舞で敵の視界を埋め尽くしていく。


『グ、ゥゥゥゥ!』


 銀色の剣身によって怪物の巨躯へと刻まれる血の斜線。

 シティさんは臆した様子など一切見せることなく、その絶望へと立ち向かっていく。

 まるで ──僕に本物の「真価」というものを見せつけるように。


「ふ、ッ!」


 縦。横。斜め。あらゆる角度から繰り出される剣閃が【大鬼オーガ】の巨体に叩たたき込まれる。

 しかし、シティさんの止やまない手数に対抗するは強靭な肉体。致命傷以外の傷などものともせず、怪物も前進する。


「ああああああああああああああああああああああ!」

『ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!』


 僕は目を限界まで見開いて、その物語の一ページのような光景を目にしていた。

 そして……不意に気付く。一進一退の攻防を繰り広げる二人を中心に、神秘的な色を宿す発光体が浮かび上がり始めていることに。

 もしかして、これは。


「精霊……」


  ──精霊。

 それは、空気のように世界中に満ちている存在。【英雄録】の綴り手。


 物語の匂いに誘われて、精霊は集う。主役の器に惹きつけられて、精霊は集う。

 人間の目では捉えることのできない存在。それが精霊。しかし、物語が紡がれようとしている場所でその数が飽和状態に達した時だけ、精霊たちはこうして発光体となって姿を顕すのだ。


「可視化するほどの精霊が、こんなに」


 初めて目にする光景に、僕は呆然としていた。

 精霊までもがシティさんの物語を目に焼き付けようとここに集まってきている。

 その事実に喉を鳴らしながら、僕は眼前の戦いへと意識を戻す ──直後。


「ッ、ぎッ!」


 怪物が横から繰り出した拳が、シティさんの腹部へと抉り込まれた。

 ミシミシという音がこちらまで響いてくる。


「シティさん!」


 僕の声は届かない。【大鬼オーガ】はその右手に感じた確かな感触に笑みをこぼしていた。そして、追い打ちをかけようと左手の棍棒を振り上げる。

 次の瞬間、これまでで一番の量の鮮血が二人を中心に飛び散った。


『ッッッ、ァァァァァァァアア!?』


 絶叫を上げたのは ──【大鬼オーガ】。


「調子に、のらないでください、っ」


 ぼとり、と音を立てて地面に落ちる怪物の右腕。

 肉を切らせて骨を断つ。少女は一撃を受ける代わりに、相手の腕を斬り落としたのだ。


「っ」


 そして生まれる致命的な隙。

 その隙をシティさんが ──【しゆく】が見逃すことはなかった。




「ッあああああ!」


 直後、シティさんの放った一閃が怪物の胴体と首を斬り離した。



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