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私たちはマティアスの案内で大聖堂に向かったあと、修道院付属の図書室からハーブ園に至るまで様々な場所を見学させてもらった。見るものすべてが新鮮で興味深い。しかしその一方で、私は次第に募っていくモヤモヤした感情と疑問を持て余し、困っていた。
案内の途中で騎士や聖職者たちと会うたびに、皆が気負った様子や怯えた様子で挨拶をしてきたんだ。それも私たち王族にではなく、マティアスに対して。
練兵場で耳にした不穏な噂といい、皆の微妙な態度といい、なんなのだろう?
冬の日は短い。私たちがハーブ園を出る頃には、大聖堂の尖塔まで夕日で赤く染まっていた。前を行くマティアスが足を止めて振り返る。彼は私たちに向かって静かに頭を下げた。
「ご案内は以上です。本日は長きにわたっておつき合いいただき、ありがとうございました」
「……え? 待って、マティアス! 私たちはまだ養護院と救貧院を見ていないわ」
「養護院と救貧院? なぜ王族の方々がそのような場所をご覧になりたいのですか?」
探るような視線を向けられ、私はうっと怯んだ。マティアスの言いたいことはわかるよ。普通の視察で、王族にそういったバックヤードを見せることはまずないと思うから。でも、私はスヴェンから養護院と救貧院の現状を確認してくるよう頼まれているのだ。誘拐事件について口止めをされている以上、本当のことを打ち明けずに、なんとか見学をお願いしたい。
「見るべき価値がないかどうかは、こちらで判断するわ。だから、ひとまず案内をお願い」
「なぜそこまで養護院と救貧院にこだわられるのです? 何か特別な目的でもお持ちで?」
「いえ、それは、その……」
「町の真の状態を知りたかったら、裏通りまで視察しろと言うだろう? それと同じことだ」
マティアスの不審に満ちた問いかけから守るように、助け船が出された。レナルドだ。
「我々王族は教会に対する理解を深めるためにも、そのすべてを知りたいと願い、光の乙女もそれを認めた。養護院と救貧院も教会の一部であれば、見学を望んで当然だろう?」
さすがレナルド、フォローがうまい。真摯な眼差しで見つめられ、あのマティアスが答えに迷っている。彼も王族と教会の取り決めを無視するわけにはいかなかったのだろう。私たちの顔を順に見回し、最後に「かしこまりました」とだけ告げて踵を返した。
よし、これで目的を達成できる。私たちもハーブ園に背を向け、あとについて行った。
それから十分も歩いた頃、屋敷と呼ぶには簡素な、しかし普通の家よりはずっと大きな建物が道の先に二つ並んで現れた。石造りの建物が多い教会内において、めずらしく木造らしい。
「あちらの二棟が、教会付属の養護院と救貧院になります」
まだ完全に日が落ちていないせいか、マティアスが指さす建物に明かりはついていない。中に人はいるのよね? それにしては様子が変な気がして首をひねる。……あっ!
「ねぇ、マティアス。教会ではもうすぐ夕飯の時間よね? 食事はどうしているの?」
「木造の建物ですから、火事が起きないよう、別の場所で作った食事を運んできます」
あー、なるほど。だから夕飯時でも炊事の煙が出てないのか。……って、ちょっと待って。それなら暖炉はどうしてるの? この国では暖を取るために薪を燃やす。今は冬だというのに、その煙も見えないなんて。さすがに夜間は暖炉がないと凍えてしまうわ。
嫌な予感に駆られて現状を確認しようとした、まさにその時、救貧院の方から吹いてきた風に頬をなでられ、私は鼻と口をとっさに手で覆った。うっ! 何この臭い!?
「ねぇヴィオレッタ、この臭いって、あの時に似てない?」
眉根を寄せたリアムが、涙目で私の顔を見上げてくる。きっと下町へ行った時のことを思い出しているんだろう。とはいえ、このすえた臭いは下町よりひどい。まだ建物まで何十メートルもあるのに、ここまで臭いが漂ってくるなんて、中はどうなっているのだろう?
隣を見ると、レナルドも警戒して表情をこわばらせている。そんな中、マティアスだけがツカツカと先を行き、臭いの源となっている建物の前で足を止めた。
「さぁ皆様、こちらが教会付属の救貧院になります。どうぞご覧ください」
マティアスが古い木の扉を一気に開け放つ。うわ……!
私は反射的に息を止めた。これは、ひどい。冷気が肌を刺す中、ただ広いだけの空間に棺桶のような木箱がいくつも並んでいる。それがベッドらしい。もちろん、その間にプライベート確保のための仕切りがついているわけもなく、ボロ布のような毛布だけが支給されている。
これから食堂に移動するところなのか、ベッドのそばに立っていた男たちが私たちの来訪に気づき振り返る。私はギョッとして後ずさった。男たちは一様に瘦せ、生気の抜けた表情をしているのに、目だけが異様に光って見えたんだ。
「なんだぁ? 見世物じゃないぞ、こら」
男たちの中心にいる青年がギロリとにらんできた。うっ、恐い……。
私は不覚にも視線を逸らしてしまった。その前で、扉が音を立てて閉められる。
「ご見学はもう十分だと思われます。皆様、門までお送りしましょう」
マティアスが踵を返す。私は金縛りが解けたようにハッとして叫んだ。
「待って! マティアス、待ってちょうだい!」
「まだ何か?」
いや、何かって……。あのままじゃいけない。それだけはわかるのに、こみ上げてくる感情をうまく言葉にできず困惑する。そんな私の肩に、横から手が置かれた。レナルドだ。彼も私と同じように感じているのか、マティアスに向けられた瞳が険しさを増している。
「マティアスに教えてもらいたい。今見た救貧院の中は、下町のどの地区よりもひどい環境に思えた。なぜ教会はあのような惨状を放置しているんだ?」
「救貧院は、職や行き場を失った人々が最後に流れ着く場所です。一般市民と同等の暮らしを望めるはずがございません」
「そうは言っても、ものには限度があるだろう? これは下町で聞いた話だが、民の中には救いを求めて救貧院に入ったものの、過酷な労働や体罰、そしてあの不衛生な環境に耐えきれず、逃げ出した者も多いという」
そういえば前にアナリーが「弱者救済に消極的な教会の在り方に反発した」と話していたけど、それも納得できる状況だ。民にとって最後の砦となるべき場所が、あれでいいはずがない。特に王都で誘拐事件が多発している今、救貧院には受け入れを頑張ってほしいのに。
マティアスはその深い藍色の瞳で、レナルドの顔を正面から見つめている。そこに感情を揺さぶられた様子はまるでなく、彼は業務報告のように淡々と言葉を紡いだ。
「レナルド様の理想はわかります。ですが、なにぶん予算が足りないのです」
「なぜだ? 養護院と救貧院には、王宮から毎年一定の援助金が支給されているはずだが」
「はい、確かに十年以上前から決まった額が毎年支給されています。しかし残念ながら、宮廷の方々は昔の取り決めを大事にするあまり、記憶の更新をやめてしまわれたようです」
「……どういうことだ?」
マティアスがフッと自虐的な息をつく。
「この十年間で、王都に流入する民の数は急増しました。しかしその一方で、王都に入ってくる食糧の量に劇的な変化はございません。それが何を意味するか、おわかりですか?」
「もしかして養護院や救貧院にまで、物価の高騰の影響が出ているの?」
私の問いかけにマティアスがうなずく。うわ、最悪だ……。
王宮の重臣たちは、現場から上がってくる報告を過小評価する傾向にある。彼らはインフレによる食糧価格の高騰を考慮せず、惰性で予算編成を続けているのだろう。その結果があれだ。
本当は緊急で予算を追加したいところだけど、国庫に余裕のない今それは難しい。前世のことわざにもあったもの。「ない袖は振れない」と。
「状況の説明をありがとう、マティアス。確かに予算がない以上、救貧院の人たちの住環境や食糧事情を急激に向上させるのは難しいわね。でも、お金をかけずにできることは他にもあるんじゃないかしら? 例えば、体罰をなくすとか」
私の脳裏に浮かんでいたのは、回廊で見かけた少年の姿だった。光の乙女に掃除の水をかけた罰として、絶食の上、一晩寝ずに神に赦しを乞い続けるよう命じられていた。
「今日あなたが少年に命じたような体罰がないだけでも、養護院や救貧院での生活は格段に楽になるはずだわ。そうは思わない?」
そうすれば救貧院を脱走する人の数も減り、結果として誘拐事件の被害者も減らせて万々歳だと思った。それなのに……。
「ヴィオレッタ様のご提案は、失礼ながらご自身の理想を語っていらっしゃるだけのように聞こえます。先ほども申し上げましたように、教会には教会の流儀があるのです」
その流儀っていうのは、体罰を躾と言い切っちゃうようなものだろうか? この世界ではそれが主流だとしても、一度見てしまった惨状を見過ごすことはできない。
どうすればマティアスにもことの重大さを意識してもらえるだろう? 一般的に、人は目の前の問題を自分のこととして捉えた場合により真剣味が増すと前世では言ってたけど……。
「ねぇマティアス、あなたは過去に救貧院で暮らしたことがあるの?」
悩んだ末、私が口にした問いかけに、マティアスの眉がピクッと跳ね上がる。
「マティアス、あんた……」
レナルドがなぜかショックを受けた様子でマティアスの顔を凝視している。マティアスは彼の方にちらっと目をやり、やがてあきらめと苛立ちのにじんだ様子で口を開いた。
「先ほど練兵場で騎士たちが噂していた内容を耳になさったのですね。王族が盗み聞きとは感心しませんが、教会に通われるのであれば、いずれわかることでしょう。はい、私には父と二人で救貧院に入っていた時期がございました。ですが、そのことが今関係ございますか?」
「関係あるわ。救貧院で生活した経験のあるあなたであれば、どこをどう改善すれば人々のためになるか、よくわかっているんじゃない?」
「そうですね。ある程度は理解できていると自負しております。しかしだからと言って予算も人手も足りない現状で、できることには限りがございます」
「それでも体罰根絶のように何かできることがあるなら、やるべきだわ。誰かが最初の一歩を踏み出さなければ、何も変わらないもの。その一歩は、救貧院の実情を最もよく知っているあなたに託されているのよ」
「………………」
マティアスの表情が初めて揺れた。藍色の瞳の奥に、様々な感情が浮かんでは消えて見える。後悔なのか悲しみなのか、あるいはそれらすべてを内包した感情なのかはわからない。それらすべてを私たちから隠すように、マティアスが目を閉じる。
そして再び目を開けた時、そこに先ほどまでの感情の揺れはなかった。それどころか一切の感情を排した目でマティアスは私を見据え、静かに口を開いた。
「ヴィオレッタ様のお考えは理解いたしました。して、そのようなご提案をなさるあなたのご覚悟は、いかほどでしょう?」
「……覚悟?」
「はい。我々教会の人間から見て、ヴィオレッタ様たち王族の方々は、いつまでも一緒にいてくださる存在ではございません。いわば、子どものいる家庭に時折やって来ては、自分の価値観を押しつけ去って行く知人のような立場です。自らの助言のせいで人々の将来になんらかの問題が生じたところで、その責任を取らされることはないでしょう」
「それはそうだけど……」
「ヴィオレッタ様が養護院と救貧院の者たち全員の人生に対して責任を負うご覚悟であれば、私はあなたのご提案を喜んで受け入れましょう。もし、それができないのであれば……」
マティアスの瞳がすっと冷気を帯びる。彼は私から目を離さずにはっきり言い切った。
「ご身分だけお持ちの方は、私の意向を教会の流儀としてお受け入れください」と。
私は唇をキュッと噛みしめた。完敗だ。困っている人たちのために何かしたいと願った、その気持ちに偽りはない。でも養護院と救貧院の管理を任されているマティアスと私では、何か発言する場合の覚悟も責任もまるで違う。そのことを痛いほど思い知らされた。
ただのよそ者にしか過ぎない私は、この先養護院や救貧院──そして教会とどう向き合っていけばいいんだろう?
無言でマティアスと対峙する私のことを、レナルドとリアムは痛々しいものを見るような目で静かに見守っていた。