私はその夜、疲れた身体を叱咤して、王宮の図書館へ向かった。
前世は庶民、今世は王女の私には、旅の舞姫と貴族の間に生まれた子の何が問題なのか、漠然としか理解できていない。今後ラルスと接していく上で彼を傷つけないようにするためにも、この王国における舞姫の地位や立場を一度きちんと調べておきたかったんだ。
私は社会系の本棚の中から『グランドール王国芸能辞典』と題された本を取ってきて、いつもの席で読み始めた。それなのに、おかしい。その辞典に載っていたのは、宮廷で披露されるダンスや音楽の話ばかりで、旅の舞姫に関する項目が一つもなかったんだ。舞と言えば芸能の代表格なのに、どうしてだろう?
私が首をかしげた、その時、声をかけてくる人がいた。
「こんばんは、ヴィオレッタ様。こんな時間までお勉強ですか?」
ついさっきまで人の気配はなかったはずなのに、いつからそこにいたんだろう。振り向くと、すぐ後ろにニコニコ笑顔のスヴェンが立っていた。
「スヴェン先生、こんばんは。実は今、ちょっと調べ物をしていまして」
「おや、それは芸能辞典ですか? ヴィオレッタ様が芸能史にご興味を持たれるとは珍しい。光の乙女候補を招いた舞踏会の歴史についてでも調べていらっしゃるのでしょうか?」
「いえ、私は旅の舞姫について詳しく知りたいのですが、この本には記載がなくて」
困って、スヴェンの前に本を差し出す。それを見た彼は、意外そうに眉を少し持ち上げた。
「失礼ですが、ヴィオレッタ様、一般的に旅の舞姫のような下層階級の者たちが演じる芸は、芸能と言いません。それは単なる見世物です」
「本当ですか? では、そういう舞姫と貴族の間に子どもが生まれた場合、その子はどういう扱いになるのでしょうか?」
思わず質問した私を見て、スヴェンが珍しく困ったように顎をなでる。
「それはまた繊細な問題ですねぇ……。これもあくまで一般論ですが、相手の貴族に子どもがいない場合、旅の舞姫のような下層階級出身の女性が産んだ子を養子に迎えることはままあります。ですが、すでに跡取りがいる場合は、その存在を無視されることが多いですね。子どもは教会かどこかに預けられ、養育費をもらえたら幸運な方です」
「そんな、ひどい! 同じお父さんを持つ子なのに……!」
前世でもそういう問題はあったけれど、階級社会のこの国ではその問題がより顕著に表れているらしい。父親が同じでも、母親の身分によってそこまでの差があるなんて……。
「ひどいと感じられるのであれば、変えますか? あなたの手で、この国を」
「え……」
一瞬、スヴェンが何を言ったのか理解できず、私はポカンとしてしまった。
この国を変えるって……まさか私、疑われているの? ゲームのシナリオみたいに、いつか王位を簒奪するんじゃないかって。冗談じゃないわ! やめてよね!
「失礼ですが、先生は何か誤解なさっているようです」
「誤解? 何がです?」
スヴェンがいつもの笑顔で聞いてくる。私の発言がゲームに変な影響を与えないか心配でも、ここははっきりさせておいた方がいい。私は彼の顔を正面から見据え、きっぱりと告げた。
「昔の私と違い、今の私は玉座を望んでいません。いずれ折を見て、私は王位継承権の放棄を宣言するつもりです」
スヴェンの顔から初めて笑みが消えた。その目が信じられないと言うようにまじまじと私を見下ろす。どうしよう? 余計なことを言ったせいで、かえって怪しまれたかな?
無言の時間が不安を煽る。しかし、その沈黙は長続きしなかった。
「今の言葉は聞かなかったことにします。国王試験の終了までまだ十ヶ月以上ありますから、改めてよくお考えになって、結論をお出しください」
渋々うなずく私を見て、スヴェンの顔にいつもの笑みが戻る。彼はいったい何を考えているんだろう? 私が王位に就かなくても、なんの問題もないはずなのに。
本音の読めない笑顔と対峙していることが急に恐くなって、私は早々に図書館を出た。
自分の部屋に戻って、いつものように明日の準備を整えてからベッドに入って考える。
ゲームのこと、国王試験の行方、ラルスの過去、場所代の問題……そのすべてが絡まり合った糸のように頭の中でごっちゃになって、私はなかなか寝つけなかった。
◆◆◆◆◆◆◆
翌朝、寝不足で重たい頭を抱えながら治療院へ向かった私は、その先で見た光景に、さらに頭が痛くなった。爽やかな朝だというのに、暗い! 暗すぎる……!
昨日エリクに言われたことを引きずっているのか、落ち込んだラルスが負のオーラをまとっていたんだ。彼のファンの女性患者さんたちも、今日は困って遠巻きに様子を眺めている。
昨夜スヴェンに教えてもらったことから察するに、ラルスの抱えている事情は私が想像している以上に重たいのだろう。それはわかるけど、大丈夫かな? まぁ、午後になれば多少はよくなるでしょう。……と楽観視していた午前中の自分に、私は文句を言いたい。
その日の午後、カルテの整理を終え、窓の外を見た私は息を吞んだ。
薪割りの仕事を終えたラルスが近くの椅子に腰掛け、ぼんやり掌を眺めている。その内側で、何かキラッと光るものが見えた。どうやらそれは大ぶりの指輪のようだった。
ラルスってば、指輪なんか見ちゃって、どうしたんだろう? というか、誰の指輪?
私が王家の紋章入りのネックレスを服の下に隠しているように、貴族の男性の中には家紋の彫られた装飾品を身につけている人もいる。でも、ラルスの事情を鑑みると、そんなことをするようには思えない。なら、彼はどうして指輪を持ってるの? まさかあれは……!
その時、私は前世でプレイしたゲームの内容を思い出して愕然とした。そうだ、あれはきっとラルスのお母さんの形見よ! ゲームが進むと、彼はアナリーにあの指輪をプレゼントするんだから。……って、ちょっと待って! 二人の関係って、もうそこまで進んでいるの?
窓からラルスを眺めているだけじゃ、何もわからない。私は意を決し、外に出た。
「ラルス、お疲れ様。少し一緒に休憩しない?」
いつも通りに話しかけたつもりでも、内心のぎこちなさが出てしまったのかもしれない。ラルスが私の方を見て眉根を寄せる。私はためらいつつも、その隣に座って聞いた。
「ねぇ、さっき指輪を見てたでしょう? 誰か好きな人にプレゼントするの?」
「は?」
あ、いけない。直球すぎる質問にラルスが引いてるわ。前世でも今世でも私は恋バナが得意な方じゃないのに、無理するから……! えっと、どうやってフォローしよう?
私が内心で焦っていると、ラルスが隣でフッと笑い、肩をすくめた。
「人の色恋沙汰にご興味があるなんて、ヴィオラ様も年頃の女性だったんですね。ご期待に添えず申し訳ございませんが、この指輪は単なる形見ですよ。今は亡き母に父が渡したという」
やっぱり! ゲーム通りの設定に、私の心臓はドクドクと脈打ち、興奮してきた。
「ヴィオラ様、どうかそんなキラキラした目で見ないでください。この指輪はそんなにロマンティックなものでも、美しいものでもありませんから」
どうやらラルスは私の反応を勘違いしたらしい。その口からため息がこぼれる。
「俺の母は旅の舞姫でした。この指輪は、母が男爵から一夜の情けをかけられた際、褒美にもらったものです。母は生まれたばかりの俺をこの指輪と一緒に男爵家の前に置き去りにして旅に出て、その後すぐに亡くなったといいます。母にとっては、この指輪も俺も大して価値のないものだったのでしょう」
そう言うラルスの口調は淡々としていて、無感情なようにさえ聞こえる。それなのに、彼の顔を見ていた私は胸が締め付けられるほど切なくなった。わずかに目を伏せたラルスの横顔はつらそうで、今にも泣き出しそうだったんだ。
こうしてお母さんが死んだあとも持ち続けているなんて、きっと大切なもののはずなのに。昨日エリクに侮辱されたことで嫌な過去を思い出し、自暴自棄になっているのだろうか。
「ラルス、そういうことを言うのは」
やめなさいよ……と続けようとした、その時だった。悲鳴が私たちの間に割り込んできた。
「ラルス様! ヴィオラ様! 大変!」
何事かと思って、声のした方を見る。まだ十歳くらいの女の子──リーズが川辺の道を大急ぎでこちらに走ってくるのが見えた。彼女は今日もお母さんと一緒に治療院に来て、薬代を支払う代わりに薬草畑の手伝いをしていたはずだけど……。
「そんなに慌ててどうしたの? まさか作業中にお母さんが倒れたとか?」
私が心配して聞くと、リーズは肩で息をしながら首を大きく横に振った。
「畑が大変なことになってるの! エリクっていう男の人が急に来て暴れて……」
「なんですって!?」
私とラルスは互いに目を見合わせ、その場にリーズを残して現場に急いだ。
走って五分ほどの場所に薬草畑はある。私たちは畑を前にして絶句した。その一部が無残にも踏み荒らされていたんだ。近づいて見ると、潰れた薬草の上に一枚の紙が落ちていた。そこには荒々しい大きな字で「場所代を支払え」と書かれている。
「エリクの野郎……!」
ラルスが怒りに肩を震わせる。私は拾った紙を無言でくしゃっと握りしめた。
昨日ラルスに言い放った侮辱だけでも許しがたいのに、こうして実害まで出た以上、見逃すわけにはいかない。問題がエスカレートする前に先手を打たなければ。……よし!
私は自分自身を落ち着かせるために深呼吸をしてから、横のラルスに話しかけた。
「ねぇ、ラルス。悪いけど、このあと少し私につき合ってもらえないかしら?」
「何をするんです?」
「元締めのダミアンとサシで話をつけに行くのよ」