それから一時間後、私とラルスの二人は王都の南に位置する港の中を歩いていた。
私が調べた情報によると、ダミアンとは王都の南部一帯を取り仕切っている元締めで、普段はこの港を拠点として活動しているらしい。
歩いていると、磯の香りに混じって生臭い匂いが鼻をつく。どうやら漁師たちの中には市場で売れ残った魚を数カ所に集め、放置している人たちがいるようだ。
「あの魚、もったいないわね。なんとか捨てずに活用できないかしら?」
なんせ私の前世は日本人。もったいない精神を持つ国の人間としては、こういうムダを見ると、なんとかしたくなってしまう。しかし、この国では理解されない感情だったらしい。
「ずいぶん変わったことに興味を持つんですね。まさか次は魚の流通に手を出す気ですか?」
ラルスから真顔で心配され、私は「いやいや」と手を横に振った。
「漁業のことを何も知らない素人が手を出したって、失敗するだけよ」
「その言い方、漁業に詳しい人と知り合えたら、そっちの商売にも参入するつもりですか?」
「うーん、まぁ、それは考えてもいいけど……あ、倉庫街はこの先みたいよ」
私は一度足を止め、道の先を見やった。紺碧の海を右手に望む形で、船の積み荷を保管する石造りの建物がいくつも並んでいる。ダミアンの根城はこの倉庫街の奥に存在するらしい。
ここまで来て、私もさすがに緊張してきた。元締めというからには、どんなごついオジサンが出てくるのだろう? エリクと違って、話の通じる人だといいけど……。
「ヴィオラ様、大丈夫ですか? さっきから表情がかなりきつくなっていますけど」
「え、本当?」
ラルスに指摘され、私は慌てて両頬を手で押さえた。
いけない、いけない。ただでさえ私は悪役面なのに、険しい表情で根城に乗り込んだら、まとまる話もまとまらない。ここはやっぱりスヴェンの完璧な笑顔を真似て……。
「その悪人みたいな笑い方はやめてください。相手を威嚇する気ですか?」
「……ごめんなさい。気合いを入れたら、なんか変な顔になったみたいね」
「あなたでも恐いことがあるんですね」
「そりゃあ、あるわよ! だから、ラルスに付き添ってもらってるんじゃない!」
ラルスが驚いたように目を見開く。あれ? 私、何か変なことを言っちゃったかな?
焦る私の顔をラルスは意外そうに見つめ、やがてその口元を皮肉げにつり上げた。
「そんなに俺を信じていいんですか? 今の俺は騎士の位にあるとはいえ、俺の母は所詮、旅の舞姫です。母が男たちに偽りの愛を見せ、子どもを捨てて行ったように、俺もあなたを騙し裏切るかもしれませんよ?」
まただ。ラルスは軽口をたたきながら、自分自身の発言に傷ついた目をしている。
「ねぇ、ラルス。そういうことを言うの、やめた方がいいと思うわよ」
「どうしてです? あなたも汚い現実にはフタをして見ないようにしたいのですか?」
「だから、もう!」
私は苛つき、ラルスの頬を両手でピシャッと挟んだ。その突然の行為にラルスが言葉を失う。私は驚きに揺れる鳶色の目をまっすぐに見上げ、きっぱりと告げた。
「そうやって自分で自分を傷つけるのはもうやめなさい。親とあなたは別の人間でしょう?」
「でも、俺は母親にすら捨てられるような人間で」
「そうね。お母さんがあなたを男爵家の前に置いて行ったことは、怒っていいと思うわ。お母さんにどんな事情があったにせよ、子どものあなたにとっては迷惑極まりないことだもの」
「え……」
「親の事情は親の事情よ。そのせいで、あなたが卑屈になる必要はないわ。あなたの過去がどうであれ、私には関係ない。私は自分の目で見て聞いて、あなたが信じるに足る人間だと思ったからこそ、あなたに背中を預けているのよ。それじゃあ、ダメかしら?」
「……………………」
ラルスは何も答えない。まるで珍しい生き物に遭遇したかのように、私の顔をまじまじと見下ろしている。その口元がフッと笑みの形を作った。
「ヴィオラ様は変わっていますね。あなたと話していたら、今まで悩んでいた自分が馬鹿らしく思えてきました」
それって褒め言葉じゃないよね? 私の考えは単純すぎるってこと?
「ほら、行きますよ。急がないと、元締めに会う前に日が暮れてしまいます」
私が問い質すより先に、ラルスが手を差し出してくる。私は息を吞んだ。
何か吹っ切れたのだろうか。ラルスの顔には晴れ晴れとした笑みが浮かんでいたんだ。
これから敵の本拠地に赴くというのに、いまいち迫力が足りない。でもまぁ、彼がこれ以上悩まずに済むのなら、いいか。
私はちょっと気が楽になって、差し出された手を取ろうとした。その瞬間、ラルスが私の手を身体ごと自分の方に引き寄せた。
「あの、ラルス?」
「しっ! 気をつけてください。近くに誰かいます」
「えっ……」
ラルスのささやきに息を吞む。その直後のことだった。倉庫の後ろから数人の男が現れた。
「騎士の兄ちゃん、さすがだな。俺たちが隠れていたのに気づくなんて」
男の一人がおざなりに拍手しながら、私たちの前に進み出る。
年の頃は三十手前か。浅黒く焼けた身体は引き締まり、猛禽類を思わせる黒い目が油断なくこちらを見据えている。この迫力……この男が元締めのダミアンだろうか?
緊張する私の前にラルスが立ち塞がる。その動きに、男が「おや?」と眉を上げた。
「せっかく会いに来てくれたっていうのに、警戒されるとは悲しいね。俺はここら一帯を取り仕切っている頭で、ダミアンという。以後、お見知りおきを」
男が茶目っ気たっぷりに言って、大仰に芝居がかった礼をする。やっぱり彼がダミアンか。見た感じ、相当食えない性格をしてるらしい。これは、気を抜いたらやられるかもしれない。
私は気合いを入れ、スカートの端を優雅につまんで頭を下げた。
「ご挨拶が遅れてしまい、申し訳ございません。私は治療院でアナリー様の補助をしている、ヴィオラと言います。今日は治療院を代表し、あなたにお願いがあって参りました」
「ほぅ、話が早いじゃないか。で、お嬢ちゃんのお願いってのはなんだい?」
「治療院への場所代の取り立てをやめていただきたいのです」
ダミアンの後ろに控えている男たちがざわつく。凶悪なご面相で一斉ににらまれ、恐くないと言ったら嘘になる。でも、我慢よ。ここでビビったら、なめられるわ。
必死で笑顔をキープする私を前にして、ダミアンがフッと表情を和らげた。
「思い切りのいい女は嫌いじゃない。だが、場所代は耳をそろえて払ってもらう」
「なぜそこまで場所代にこだわるのです? 治療院から得られる収入など、ごくわずかに過ぎないと思いますが」
「そうだな。でも薬の転売ができなくなった今、それじゃ示しがつかないんだよ。治療院だけ理由もなく見逃したら、他の連中もなめて場所代を払わなくなるだろう?」
やっぱり薬の転売もダミアンの指示だったらしい。彼には何か彼なりの理屈があって、資金を集めているのだろう。だけど、私たちまでその理屈に従う必要はないわ。
「失礼ですが、ダミアンさん、場所代の名目とはいったいなんなのでしょう? 一定の金額を納めたからといって、あなたたちは治療院のために何かしてくれるのですか? 場所代のように意味も用途も不明なものに支払うお金など、治療院にはありません」
「このアマ、ダミアンさんに逆らう気か!?」
周りの男たちが一斉に殺気立つ。ラルスの全身にも緊張が走ったように見えた。
だが、この緊迫した空気の中にあって、ダミアンだけは違った。彼は騒ぐ部下たちを一にらみで黙らせると、興味深そうに私の顔を眺めて、やれやれと肩をすくめた。
「お嬢ちゃんのようにまっとうな人生を送ってきた人間には、よくわからない理屈かもしれないな。だが、俺のやり方に文句があるなら、それは王侯貴族に言ってくれ」
どういうこと? 今は場所代の話をしているのに、なぜ王侯貴族が出てくるの?
静かに混乱する私に向け、ダミアンは淡々とした口調で話を続けた。
「なぁ、お嬢ちゃん。王侯貴族のように上に立つ者の本来の役目とはなんだと思う?」
「それは……戦時には先陣を切って民を守り、平時には民の暮らしが成り立つよう、税金を使って隅々にまで目を配ることではありませんか?」
「ああ、そうだな。だが、現実はどうだ? 王も貴族も、王都に住まう民の窮状を見ようともしない。この一年間で行き倒れになったガキが王都に何人いたと思う? 家を失い、首をくくった家族の数は? 王宮に籠もってばかりの連中は、どうせ何も知りやしないだろう」
私は言葉に詰まった。悔しいけど、ダミアンが言っているのは本当のことだから。前世を思い出す前の私がそうだったように、民を搾取の対象としか見ていない王侯貴族は多い。
「王宮の連中から見たらゴミみたいな人生でも、生きてさえいれば、そのうちいいことがあるかもしれないじゃねぇか。今苦しんでる連中にそう思わせるためには、まず連中を生かすための金がいる。王宮の奴らが何もしてくれねぇというなら、代わりに俺が仕切るだけだ」
……ああ、そういうことか。ここまで話を聞いたことで、私にもようやくダミアンの言い分が理解できた。彼は国に何も期待しない。その代わり、国のルールにも従わない。自分の周りの人間を食べさせていくために、彼は自分にできることを精一杯やっているだけなんだ。
ただ、ダミアンの主張や立場はわかっても、場所代の支払いにはやっぱり納得がいかなかった。人を助けるためのお金は、そうやって力ずくで徴収すべきではないと、私は思うから。
私とダミアンの双方が納得できる解決策はないかな? 例えば何か新しい収入源が見つかれば、彼も躍起になって薬の転売や場所代の徴収をしなくなると思うんだけど……。
私は短い時間内で必死に答えを導き出そうとした。でも、なかなか集中できない。風向きが変わったのか、辺りを漂う魚の臭いがいっそうきつくなってきて、私の思考を邪魔したんだ。
この生臭さ、どうにかしてほしい! いらない魚はちゃんと廃棄処分して……って、魚か! この港では、捕れすぎた魚を持て余してるようだった。これは使えるんじゃない?
「どうだい、お嬢ちゃん? 納得したなら、おとなしく場所代を払ってくれないか?」
今までの怒りが嘘のように、ダミアンが愛想よく笑って手を差し出してくる。
きっとこれが最後のチャンスだ。私はゴクリとツバを吞み込み、「わかりました」と答えた。
「お、物わかりがよくて助かるね」
「はい。あなたの話を聞いていて、わかったのです。王都で暮らす人々の生活を向上させるためには、より多くの資金が必要だと。ですが、今のあなたのやり方では稼げる額に限界があります。私なら、もっともうかる方法をご提案できますのに」
「へー。世間知らずのお嬢ちゃんに、いったい何ができるって言うんだい?」
ダミアンの顔からすっと笑みが消えた。危険を察したラルスが私を庇おうとする。でも、今ここで安全な場所に隠れるわけにはいかない。私はラルスの手を押しのけ、前に出て続けた。
「世間知らずでも、ご提案できることはあります。私があなたであれば、廃棄予定の魚を使って保存食を作り、新たな販路を開拓することで資金調達をしてみせます」
「ハッ! そんなの、すでにやってる。魚を塩や酢に漬けたり、干したり」
「私の方法は違います。塩や酢を極力使わずに魚を数ヶ月もたせてみせます」
ダミアンが「本気か?」という目で私を見てくる。私は力強くうなずいて見せた。
この時、私の脳裏に浮かんでいたのは、前世の一人暮らしでお世話になった瓶詰めや缶詰の数々だった。こういった長期保存食を作る上で大切なのは、加熱殺菌と密封の二点だったはず。この二つを徹底すれば、缶詰は難しくても、瓶詰めなら生産できるかもしれない。
「例えば一ヶ月間、私の提案する方法で魚を腐らせずに済んだら、治療院の場所代を免除してもらえないでしょうか? ついでに、今後その生産方法で得る利益の一割を特許料として私に支払ってもらえたら嬉しいのですが、いかがでしょう?」
今後の生産について話すのは、さすがに飛躍しすぎかもしれない。だけど、将来の利益まで考えているとアピールすることで、私の本気が伝わると思ったんだ。
案の定、ダミアンは利益の話が出た時点で、この提案を検討する態勢に入ってくれたらしい。彼はしばらくの間、腕を組み悩んでいたが、最後には鷹揚にうなずいてくれた。
「利益の一割を欲しがるとは、見た目に似合わず、ごうつくばりなお嬢ちゃんだな。だが、本当にそんな方法があるなら、得られるもうけはかなりのものになる。その話に乗ってやろう」
よし、釣れた! 一歩前進できたことを喜び、内心でガッツポーズを取る。そんな私を見下ろし、ダミアンがすっと目を細めて告げた。
「お嬢ちゃんの提案は、成功すればもうけもでかい。だが、失敗したらどうするんだ?」
「その場合は、おとなしく場所代をお支払い……」
「それじゃ足りないな。こっちもお嬢ちゃんの提案に乗って一定の労力を割く以上、それに見合った支払いは追加でもらわないと割に合わない。例えばだが、失敗した場合に備え、お嬢ちゃんが一ヶ月間ここにとどまって俺たちの下で働くってのはどうだい?」
やっぱりこの人は抜け目ない。ダミアンは私が途中で逃げないように見張りながら、その労働力を活用する気でいるのだろう。ただその考えはわかっても、従うわけにはいかなかった。
仮にも一国の王女が一ヶ月間も王宮から姿を消したら、どんな悪評を立てられることか。ただでさえ最悪な評判をこれ以上貶めたくない。なら、どうやって彼の提案を断ろう?
悩む私の前に、その時急に今まで黙っていたラルスが進み出た。
「悪いがダミアン、あんたにヴィオラ様を預けることはできない」
「ほぅ? なら騎士様、あんたがお嬢ちゃんの代わりにここで働くかい?」
「無理な相談だな。代わりに、あんたにはこれを貸そう。万が一計画が失敗したり、ヴィオラ様が途中で逃げ出したりしたら、これを売って、その金をあんたの懐に入れればいい」
ラルスがダミアンの前に手を差し出す。後ろから見ていた私は息を吞んだ。彼の手の中にあったのは、お母さんの形見の指輪だったんだもの。
「ラルス、やめて。そんな大切なものを質草扱いするなんて」
「心配いりません。あなたは魚の長期保存を本気で実現させるつもりなんでしょう?」
「……ええ、まぁ」
「なら、あなたが俺を信じてくれたように、俺もあなたを信じるだけだ」
ラルスが驚くほど優しい笑みを顔に浮かべる。こんな時だというのに、私は不覚にも胸が高鳴るのを感じた。ラルスって、こんな笑い方をする人だっけ? 急にどうしたんだろう?
「騎士の兄ちゃん、了解だ。あんたの言う条件を吞もう。で、お嬢ちゃん、あんたの言う魚の長期保存を実現するには、具体的に何をどうすりゃいいんだい?」
ダミアンがラルスから指輪を受け取り、私の方を向く。いけない。今はラルスのことを考えている場合じゃなかった。私は気を引き締め、ダミアンに告げた。
「あなたの仲間に魚屋と瓶作りの職人はいる? もしいたら、協力してもらいたいの」
私の頼みに、ダミアンは一瞬不可解そうな顔をしたが、深くは追求しないことに決めたらしい。彼はその日のうちに職人たちの手配をして、私たちと別れた。
いろいろ不安はあっても、宣言した以上は明日から全力で取り組むわよ! よし!
こうして、まさかの魚を相手に、私の試行錯誤の日々が幕を開けた。