アナリーと会った日から、私は毎日のようにお忍びで街へ出ては熱心に情報収集を行った。アナリーについて深く知れば知るほど、彼女はヒロインにふさわしい子に思えた。貧しい人たちのために治療院を開いていることから、彼女を「無私の聖女様」と呼ぶ人までいる。
しかもアナリーの作る薬は効能まで素晴らしいようで、私が捻挫して帰った日も、私の患部を見た王宮の医師たちがその手当ての的確さに感心していた。
噂では、大通りに店を構えている薬屋がアナリーの調合法を目当てに、彼女の引き抜きを狙っているとか。もっとも、彼女はその申し出を断り続けているそうだけど。
こんな素敵な子には、ぜひ幸せになってほしい。できれば、ゲームの攻略キャラ以外と。
最近になって思い出したことだけど、このゲームの中盤では、光の乙女候補たちを招いた舞踏会が王宮で開かれる。その時までゲームは共通ルートで進み、それ以降は個別ルートに入る。つまり、舞踏会で誰がアナリーをエスコートするかによって、未来が変わるんだ。
例えば、レナルドのルートであれば恐ろしい疫病が発生したり、リアムのルートであれば暴動が起きたりと、あの手この手で国が荒れるんだよね。まぁ、どのルートでも最終的に革命が起きて、ラスボスの私が倒される点は変わらないんだけど。
未来で起きる悲惨な出来事を自分だけが知っている今の状況で、私はこれからどう動けばいいんだろう? ひとまず王位継承権の放棄を宣言して、逃げた方がいいかな?
いやいや、今までずっと王位に固執していた人間が急にそんなことを言い出したら、かえって怪しまれて痛くもない腹を探られることになる。やめよう。
それに、この国が将来大変なことになると知っていて、自分だけが安全な場所に逃げるのも寝覚めが悪いし。でも王宮に残ったからといって、私に何ができるんだろう?
私が頭を抱えていると、部屋の扉がノックされた。侍女が扉越しに「馬車のご用意が整いました」と声をかけてくる。私は「すぐ行くわ」と答え、立ち上がった。
このまま部屋で悩んでいても、何も変わらない。それなら街へ出て、今後の武器となるかもしれない情報を集めた方がいいと思ったんだ。
身分制度が根付いているこの国の王都では、地区によって住んでいる人々の階層が異なる。今日私が向かった先は、商人や職人のような中産階級の人たちでにぎわう地区だった。
私はいつものように店を見て回りながら買い物をして、その場に居合わせた人たちと雑談を交わした。アナリーやこの国の現状について、少しでも多くの情報を集めるために。
そうやって、午後も三時を過ぎた頃のこと。そろそろ王宮へ戻ろうと考えた私は、道ばたで足を止めた。……あの男!
忘れもしない。前にアナリーをナンパしていた男が、道の反対側から歩いてきたんだ。名前はエリクといったか。彼は私に気づくことなく、通りの中程で一軒の店に入って行った。
私は店の看板を見て、首をかしげた。そこは薬屋だったのだ。アナリーの話から察するに、エリクは定期的に彼女の治療院で薬を出してもらっているはずなのに、どうして?
なんだか気になった私は、通りに面した窓から店内を覗き、目を瞠った。
奥の方に設置されたカウンターの上に、エリクが薬の包みをいくつも並べている。それは、彼がこの店で購入したものではない。彼のポケットから取り出されたものだったんだ。
気難しそうな顔をした年配の男がカウンターに出された包みを一つずつ慎重に確認してから、エリクにお金を渡す。調子のいいエリクはペコペコと頭を下げ、店を出て行った。
どう見たって、普通の買い物客の行動ではない。これって、まさか……。
前に聞いた噂が脳裏をよぎった。アナリーの作る薬は効能が確かで、大手の薬屋もその調合法を知りたがっているとか。
まさかアナリーを引き抜けないからといって、代わりに彼女の調合した薬をエリクから買い取り、転売しているの? それもプロの薬屋が?
嫌な予感が胸を侵食する。私はモヤモヤした思いを抱いたまま、薬屋をあとにした。
その後、王宮に戻った私は図書館に直行してスヴェンを探した。彼はいつものように窓辺の席で本を読んでいたが、私に気づくとすぐに笑顔を向けてくれた。
「ヴィオレッタ様、お帰りなさいませ。街歩きはいかがでしたか?」
「今日はとても興味深いことがありました。そのことに関し、スヴェン先生に教えてほしいのですが……この国では、薬の転売は法律的に問題ないのでしょうか?」
「ヴィオレッタ様、街で何をご覧になったのです?」
スヴェンの青みがかったグレーの瞳が鋭い輝きを放つ。こういう時の彼は迫力があって、少し恐い。私は圧倒されつつも、街で見てきたことを詳しく彼に語って聞かせた。
その結果、さらに頭の痛くなる事実が発覚したんだ。なんとこの国には、薬の転売を禁じる法がないらしい。となれば、エリクの行為を法的に咎める手立てはない。しかし、だからといって、あれを放置していいものだろうか?
アナリーは本気で貧しい人たちのためを思って働いている。そんな彼女の努力を踏みにじる行為がまかり通っているなんて……。せめて彼女に転売のことを注意しに行こうか?
いや、ダメだ。今、私が彼女と接触することで、ゲームのシナリオにどんな影響が出るかわからない。せっかく転生したのに、余計なことをしたせいで早死はしたくない。
だけど、このまま不正を見なかった振りをして、自分の正義に嘘をつくような人生が本当に私の望んでいたものだろうか?
前世で死ぬ直前に誓ったじゃない。もしも生まれ変わることがあったら、今度は周りに流されず、自分の意志を貫いて生きてやるって。
アナリーにはこの間、捻挫の治療をしてもらった。そのお礼もまだしてない。菓子折を持って行くついでに、ちょっと注意して帰るだけならセーフよ。うん、きっとそうに違いないわ。
「ヴィオレッタ様、急に沈黙なさって、いかがなさいましたか?」
スヴェンがいつもの笑顔で様子を窺ってくる。私は彼の顔を上目遣いに見て告げた。
「先生、お願いです。馬車の手配をしてください。今日はもう一度街に出ます」
スヴェンだって、私の行動を疑問に思わなかったはずがない。ましてや、前世を思い出す前の自分の言動を思うと、何をやらかすか心配で仕方なかったと思う。それでも彼は余計な詮索を一切せず、「かしこまりました」とだけ言って、私を街へ送り出してくれた。
◆◆◆◆◆◆◆
私が治療院に着いた時、時刻はすでに四時を過ぎていた。それなのに、治療院の前には患者さんが五人も並んでいた。その全員が、この間会った親子のように貧しい身なりをしている。
「ヴィオラ様! 遊びにいらしてくださったんですね!」
治療院の扉を開けた私を見て、すり鉢を抱えたアナリーが顔を輝かせる。その姿は相変わらずの美少女だったけど……なんだか少しやつれた?
アナリーの元々白かった肌は血色が失せ、目の下には大きなクマまでできている。
「ごめんなさい。せっかく来てくださったのに、今ちょっと手が離せなくて」
「こっちこそ急にお邪魔しちゃって、ごめんね。ちょっと話したいことがあるんだけど、仕事が一段落するまで待っていてもいいかしら? その間、洗濯でも水汲みでも手伝うから」
「そんな、ヴィオラ様に何かさせるなんて……」
アナリーはひたすら恐縮していても、まさに猫の手も借りたいほどの忙しさだったらしい。その後、薬の配達から戻ってきたラルスの指示を受けながら、私は洗濯に取りかかった。
「ヴィオラ様、お疲れ様です。今日の診察はすべて終わりました」
アナリーがフラフラした様子でそう言ってきたのは、日も沈みかけた頃のことだった。あのあとも患者さんが立て続けに何人も来たせいで、彼女は休む暇もなかったらしい。
ついでに言えば、今の私もアナリーと同じくらいヨレヨレだった。単なる洗い物だと思ってなめていた。すべて手動の洗濯はかなりの重労働になることを、私は初めて知ったんだ。
「ヴィオラ様、ラルスもお茶が入りました。もしよければ、どうぞ」
「アナリーも疲れているのに、ありがとう。喜んで頂戴するわ」
アナリーは疲労回復に効くハーブティーを淹れてくれたらしい。テーブルを挟んで彼女とラルスの向かいに座る。カップに口をつけると、ほのかな酸味が疲れた身体に染み渡った。
そうして一息ついたところで、私は王宮から持ってきたお菓子をアナリーに差し出した。
「この間は私の足を診てくれて、ありがとう。遅くなったけど、これはあの時のお礼よ」
「そんな、お気遣いいただかなくてよかったのに」
「ううん、私が何かお礼をしたかっただけだから、気にせずに受け取って。それより、ここから先が本題なんだけど」
私は息を吸い、覚悟を決めてアナリーに告げた。
「実はね、あなたの調合した薬が街で転売されているかもしれないの」
「なんだとっ!?」
ガタッと音を立てて椅子が後ろに倒れる。私の発言に気色ばんだのは、ラルスの方だった。そりゃあ、自分の主人がせっせと無償配布している薬で不当にもうけている輩がいると聞いたら、むかつきもするよね。ただ、肝心のアナリーの方はきょとんとした顔をしていた。
「転売とは、私の薬を他の人に売るということですよね?」
「この場合はそうなるわね」
「それのどこが問題なのでしょう? 最終的に困っている人の手に渡るなら、いいのでは?」
「え……」
まさかの反応に、私は絶句した。スヴェンやラルスの様子からして、「薬の転売がいけない」というのはこの国でも常識だと思っていたのに、どうやら違ったらしい。
「いい、アナリー? 万が一、素人が転売で薬を入手した場合には、その正しい服用方法を知らず、命に関わる問題が生じる可能性もあるわ。それって、かなり危険なことでしょう?」
「ええ。でも、それなら転売された薬を買わず、直接治療院に来てくださればいいのに」
「こう言っては悪いけど、世の中には自分の身分を慮って治療院のある地区へは足を運びたがらないくせに、誰よりもいい薬は欲しがるっていう迷惑な人たちもいるのよ」
かつての私がそうだったように、と内心でつけ加える。前世を思い出す前の私だったら、きっと治療院のことを「物乞いの巣窟」とでも言って、見下しまくっていたと思う。
「アナリー様、俺は転売によって不当に利益を得ている輩が許せません!」
ラルスがドンッとテーブルをたたいて叫ぶ。
「ヴィオラ様、もしよければ転売の詳細について教えてもらえませんか?」
ラルスの求めにうなずき、私は昨日見たことを語って聞かせた。慎重に言葉を選んだつもりでも、ラルスは途中で怒りを抑えきれなくなったのか、鳶色の瞳が物騒な光を帯びていった。
「エリクの奴め! 今に何かやらかすんじゃないかと思っていたが、薬の転売とは!」
「許せないわよね。早急に転売防止の対策を練らないと。……って、アナリー、聞いてる?」
「……あ、ごめんなさい。ちょっと疲れてて」
アナリーがハッとして首を横に振る。顔色がますます悪くなっているように見えるけど、大丈夫かな? その姿は、まるで徹夜明けの経営コンサルタントのように生気がない。
「アナリー、ちゃんと食べて寝てる? 治療院の薬はすべて無料で患者さんに渡してるそうだけど、そのための資金や生活費は教会から出してもらってるのよね?」
「………………」
アナリーがなぜか無言で目を逸らす。
なに、この反応? ラルスのような教会所属の騎士が護衛についているくらいだから、当然教会の援助も受けているものだと思っていたんだけど、違うのかな?
私の疑問に、ラルスがため息で答えた。
「ヴィオラ様が教会に対してどんなイメージをお持ちか知りませんが、教会が助けてくれるはずないですよ。あいつらは王侯貴族にしっぽを振るだけで大忙しですから」
「え!? じゃあ、治療院の運営費も薬代も全部アナリーの自腹なの!?」
さすがゲームのヒロイン。利他主義を極めている。
「あの、ヴィオラ様は全部自腹だとおっしゃいますが、そんなことはありません」
私の唖然とした態度に、アナリーもさすがに気まずくなったのか、語調を強めて抗議した。
「私の活動を支援してくださる方々も、中にはいらっしゃるんですよ。現に、この治療院に使っている小屋だって、そういった方の善意で貸していただいていますし」
「反対に言えば、薬代の方は自腹なのね?」
「……森で採取する薬草や、畑で育てている薬草もありますし、全部が自腹というわけでは」
「それ、アナリーの労働力を消費してる時点で、自腹の亜種みたいなものだから!」
私は全力でつっこむと同時に、深いため息を漏らしてしまった。もう、この子は……。
「アナリーの行いは立派だけど、そういう自己犠牲に基づく支援は長続きしないわ。このままじゃ、あなたの方が先にボロボロになってしまう。そうなったら、あなたの支援を当てにしている患者さんたちも共倒れになるかもしれないわ。それでもいいの?」
「でも、目の前に助けられる患者さんがいるんですよ? 今助けなければ、明日の暮らしにも困るような人たちが! 医療の心得がある者として、無視できません!」
アナリーが唇を噛みしめ、上目遣いに私をにらむ。その迫力に私は圧倒された。
いつもかわいくて気遣い屋のアナリーが、ここまでの拒絶を示すなんて……。
ゲームのヒロインだからこそ、アナリーは人のために尽くせるのだと思っていた。だけど、もしかしたらそこにはもっと深い理由があるのかもしれない。
「ねぇアナリー、あなたはどうしてそこまで他人のために頑張れるの?」
「え……」
アナリーの目が戸惑いに揺れる。彼女は私と、心配そうに見守っているラルスの顔を交互に見比べ、やがて静かに語り出した。
「私の両親は医者だったんです。貧しい人たちからは過度な診療費を取らず、町の人たちのために尽くしていました。二人とも、私が十歳になる前に流行病で亡くなりましたけど」
そういえば、アナリーは天涯孤独の身だと言われていた。きっと彼女はご両親亡きあと教会系列の孤児院に入り、そこで光の乙女候補に選ばれたのだろう。
「両親は生前よく言っていました。『人のために生きられる子になりなさい。そうすれば、人生は何倍も豊かになる』と。私は両親の生き方が間違っていたとは思いません。だから……」
そうか。そのご両親の言葉があったからこそ、アナリーはここまで他人のために生きられる素晴らしい子に育ったんだね。
薬の無償配布に関して、アナリーは一歩も引く気がないらしい。決意を秘めた目で私をじっと見つめている。
私はこの目を知っていた。それは、前世で私の両親だった人たちの目に似ていたんだ。
私が小さい頃、うちの両親はフェアトレードの商品を扱う会社を経営していた。開発途上国で作られた製品を不当に買いたたくことなく、生産者に適切な支払いをすることで、貧困問題と向き合いたいと考えていたのだ。しかし、当時その価値観を理解してくれるお客さんはまだ少なく、会社はすぐに倒産してしまった。
まだ幼かった私は絶望する両親の背中を見て、疑問で頭がいっぱいになった。
両親はいいことをしていたはずなのに、どうして二人の会社は潰れて、他のあくどい商売をしている会社は無事でいるんだろう。そんなの、おかしいって思った。
ああ、そうだった。日々のタスクに追われてばかりですっかり忘れていたけど、私は両親のことがあったからこそ、経営コンサルタントを志望したんだった。両親のように、社会的に良い行いをしてる人たちがきちんと報われる手伝いをしたいと願って。
「ヴィオラ様? 私の話がご不快だったのでしょうか?」
黙り込んだ私を見て、アナリーが不安そうに尋ねてくる。私は静かに首を横に振った。
「アナリーは素敵なご両親に育てられたのね。お二人の考えは立派だと思うわ」
「あ、ありがとうございます」
「だけどね、自己犠牲に基づく支援はやっぱりよくないわ。助けられる側の人間が助けられることを当然に感じてしまっても、支援は長続きしないもの」
「そんなこと言って、困窮したことのない人間に何がわかる?」
今まで黙っていたラルスが苛立ち交じりに口を開いた。何かよほどかんに障ったらしい。
「この国において、貧しい者はどんどん落ちていく。それをあなたは」
「そうね。言い方が悪かったのなら、謝るわ。私も貧困に苦しんでいる人たちを見捨てたくはない。だけど、私はアナリーのように社会的に良い行いをしている人が目の前で潰れていく様を無視する気もないのよ」
前世から抱えていた思いを口にすると同時に、私はまた思い出していた。
フェアトレードなんてどうせ無駄だとか、偽善だとか言われる一方で、前世の両親は開発途上国に住む人たちの期待に応えようと頑張り続けて、最後に潰れてしまったんだ。あんなつらくて悲しい思い、もう誰にも味わわせたくない。だから……、
「アナリーも患者さんたちも、みんな守ってみせるわ! そのためにもアナリー、どうか私にあなたを支えさせて!」
もしかしたら、私はこのために前世の記憶を持って転生したのかもしれない。元経営コンサルタントとしての手腕を発揮し、アナリーを助けて、自分が殺される未来も回避するのよ!
静まりかえった小屋の中で、じっとアナリーの答えを待つ。そのアクアブルーの瞳がみるみるうちに潤み始めた。
「ありがとうございます、ヴィオラ様。私、そんな風に言ってもらえたのは初めてで……」
私はたまらずアナリーのもとに駆け寄り、その身体を思い切り抱きしめた。
「今までずっと一人で頑張ってきたのね。これからは私もいるから大丈夫。なんでも一人で背負い込まないで、その重荷を私にも分けてちょうだい」
「……はい」
「あの、俺の存在は?」
あ、しまった! ラルスのこと、完全に忘れてた!
「ラルスももちろん一緒よ。これからは三人で頑張りましょう!」
「……………………」
ラルスの視線が微妙に痛いけど、そこは気にしないでおこう。
明日から忙しくなるわ。まずはカルテ作りでしょ? 患者さんの名前や居住地に病状、渡した薬の種類や量もしっかり記録して、薬の転売が生じないよう管理を徹底しなきゃ!
前世ぶりの大型プロジェクトを前にして、私は元経営コンサルタントとしての気分が高揚するのを確かに感じていた。