第一章 転職先は悪役王女?②
その日から一週間ほど、私は
スヴェンから渡された本の量は確かに
それらの資料と前世の知識を照らし合わせて考えた結果、この王国は産業革命前夜のヨーロッパに近い
猛勉強のおかげで、こういった社会情勢に関する知識は深まった。でも残念なことに、ゲームを思い出すための手がかりはなかなか得られなかった。そりゃそうだよね。いくら机にかじりついて学んでも、ゲームの
街を歩けば何か思い出せるかもしれないけど、仮にも王族がほいほい気軽に出歩いていいはずもないし……うーん、困った。どうしよう?
「険しい表情をなさって、どうなさったのですか? 何かわからない
後ろから声をかけられ、私は背筋をピンと伸ばした。振り返ると、今日も通常運転でニコニコ笑顔のスヴェンが立っていた。彼には、音もなく人の背後に
私はドクドクいっている心臓をドレスの上から押さえ、
「いつも私のことを気にかけてくださり、ありがとうございます、先生。ちょっと難しい箇所を読んでいたせいで、
「そうですか。最近は毎日熱心に勉強なさっていて、感心します」
「国王試験を受ける身ですから、これからはちゃんとしようと思いまして」
「それは、それは。勉強熱心な教え子ばかりで、私も教師
スヴェンの顔にはいつも同じような笑みが浮かんでいるせいで、その発言は本音か建て前か、区別がつかない。
「レナルド様でしたら、今日はいらっしゃいませんよ」
まるで私の心を読んだかのようなタイミングで、スヴェンが答える。私が図書館でレナルドを見かけるたびに、そわそわと近寄って
「レナルド様は朝から城下の視察に出かけていらっしゃいます。もちろん、お忍びで」
へー、そうなんだ。私はスヴェンの説明に
ちょっと待って。確かゲームの中で、レナルドは下町を散策中にヒロインと出会い、それ以降は彼女に会うため、お忍びで下町に通い続けていたわよね。ということは、二人はもう運命の出会いを果たし、ゲームの本編をスタートさせてしまっているの?
「ヴィオレッタ様、いかがなさいましたか? まさかあなたも視察にご興味がおありで?」
「え?……あ、はい! 先生、お願いです! どうか私にも外出許可を出してください!」
今のはなんて最高のフリだろう! 私はゲームの
レナルドと
私が
「少々お待ちください。街歩きに必要な服と馬車の手配をしてまいります」
え、本当に? こうも簡単に私の外出を認めちゃっていいの?
あっさりすぎるスヴェンの反応に、私はかえって
それから一時間後、なんと私は王都の
何か起きた場合に備え、王族であることを示す、
個人的にはゴテゴテしたドレスより、こういうスッキリした服装の方が、何かあった時に走って逃げられそうで好きだわ。もっとも、
私はこみ上げてきたため息を吞み込み、街の散策を続けた。
初めて見る王都の街並みは、おしゃれな映画のセットのようだった。広い
私は辺りを観察しながら、時々後ろも確認した。……やっぱり
スヴェンのことだから、てっきり隠れて護衛をつけてるんじゃないかと思ったけど、それらしい気配がまるでないんだ。私は一応王女なのに、さすがに不用心すぎない?
それとも、スヴェンは国王にふさわしくない私をこっそり始末するタイミングを
私は時々店を
上品な格好をした人たちの多くが、私と同じように途中でUターンしている。なぜなら、この先にあるのは貧しい人たちの住まう地区だから。
私はゴクリとツバを吞み込み、服の下に隠していたネックレスを
ヒロインが薬局を開くゲームの中心舞台は、下町の中でも特に貧しい人たちの
私は大きく息を吸うと、ポケットの中に入れておいた護身用具を確認し、先へ進んだ。
目抜き通りから
仕事を求めて農村から出てきたものの、王都の産業がまだ十分に発達していないせいで職にあぶれ、日々の暮らしにも事欠いている人たちが大勢いるらしい。
こういう経済的格差のひどい状況下では、たとえ私がゲームのような悪事を働かなかったとしても、いずれ民衆の不満が
そうなったら最後、民衆の不満は今まで甘い
私は自分の想像にゾッとして、思わず
「
「あの、私はここへお薬を届けに来ただけなんですが」
「わかってるって。だから、俺に薬のお礼をさせてよ」
声は近くの路地から聞こえてきているらしい。つい気になって路地を覗いた私は、目が点になった。なに、このベタな展開……。
そこでは、十代半ばの美少女が人相の悪い男にからまれていたんだ。少女は心底
一応ここは
イケメンどころか、私以外に足を止める人すらいない。やっぱり現実はゲームのようにいかないってわけ? いや、でもこれって
「私、もう本当に帰らないと」
「いいから、いいから」
男が少女の手をつかみ、自分の方に引き寄せる。……もう無理!
「ちょっと、あんた!」
私は路地に向かって大声を張り上げた。気づいた男が
この人相の悪さ、絶対に
私は意を決し、ツカツカと路地に入っていって、少女の空いている方の手をつかんだ。
「いつまでも遊んでんじゃないわよ! 薬を届けたら、すぐ
「え……」
「いいから、ここは話を合わせて」
私は
「おい、おまえは何者だ? 急に出てきて、人の
「私はこの子の姉です。帰りが
「へ? あ、はい」
私の
「待てよ、アナリー! おまえは
「おまえ、俺を
「い、いえ! 姉はいませんが、両親がいないのは本当のことでして」
「ちょっと! なに正直に説明してんのよ!」
「あの、
「そういうのは、嘘も方便って言うのよ!」
私はアナリーと呼ばれた少女の手を握りしめ、走り出した。
男が「待て!」と
私はこの時、まだどこかで期待していたんだ。隠れている護衛が出てきてくれることを。しかし、私たちと男の
嘘でしょう!? 仮にも私は一国の王女なのに!
王家にとって不要な人間だと宣告されたようで悲しくなる。でも、落ち込んでる
私はアナリーを連れて走りながら、ポケットの護身用具に手を
「きゃっ!」
なんて間が悪い。アナリーが道の真ん中で転んでしまった。ここ、何もないのに!
「ご、ごめんなさい」
「いいから! 早く立ち上がって!」
私がアナリーを
「アナリー?」
「変なことに巻き込んじゃって、ごめんなさい。私はもう一人で大丈夫ですから」
それこそ、嘘だよね? 気丈に振る
「待たせたな、アナリー。そっちの姉ちゃんも来いよ。かわいがってやるからさ」
男が私たちの前で足を止め、これまた気持ちの悪いセリフを
私はアナリーを後ろに
「悪く思わないでよ!」と内心で叫びながら、男の顔に照準を合わせる。
「うわっ! いてっ!」
男が叫ぶ。しかし、それは私の唐辛子スプレーが命中したせいじゃなかった。
やっぱりあるんだ、こういう展開……。
私は口をあんぐり開けて、目の前の光景に見入ってしまった。なんと男は、
「帰りが遅いからと、心配して来てみれば……これはどういうことだ?」
イケメンが静かな
彼の着ている服は、教会所属の
なぜ騎士がこんなところに? 街の警護をしている最中に、困っているアナリーを見かけて……というわけじゃないよね。彼はアナリーを迎えに来たようなことを言っていたし。
「自分の
「ご、ごめんよ、ラルス! さっきのはほんの出来心で!」
「出来心も三度目となれば、やましい下心にしか思えないな。今日という今日は許せん!」
ラルスと呼ばれたイケメンが、男をつかんだ手に力を込める。
男はナンパの常習犯なのか。なら、同情の余地はない。一度お
「ラルス、もう十分よ。エリクさんも反省してるみたいだもの」
アナリーがエリクと呼んだ男に「ね?」と同意を求める。ついでに、ラルスからすごい目つきでにらまれ、エリクは
「反省したのなら、今日のことは水に流します。次のお薬は
え? この子、本当にそれでいいの? 今まで散々恐い目に
見ると、ラルスも私と同じ思いだったらしく、苦虫を
「ありがとうございます、アナリー様。あなたがおきれいなものだから、今日はついクラクラきちまいましてね。すみませんでした。次の薬もどうかよろしくお願いします」
何度も頭を下げながら去って行くエリクを見て、ラルスが深いため息をこぼした。
「アナリー様はお
「大丈夫よ。何かあったら、また今日のように話し合うわ」
「……その話し合いは、せめて俺のいる前でお願いします」
「ラルスは心配
アナリーが私の方を向き、花のほころぶような愛らしい
「エリクさんに手をつかまれた時、本当はすごく恐かったんです。助けてくれて、ありがとうございました。私はアナリーと言います。あなたは?」
「私はヴィオ……ラよ」
危ない。もう少しで本名を答えるところだった。ヴィオレッタはよくある名前とはいえ、正直に名乗って、王女だとバレるリスクは最低限に
アナリーは「ヴィオラ様ですか」と、
「その髪と目の色。名前も
「……………………」
騎士とは
ラルスに見つめられ、冷や
「おかしいですね。あの王女は平民のことなど虫けら同然にしか思っていないはずなのに。そんな悪の王女がこんな下町にいるはずがないですよね?」
もしかしたら、ラルスは私のことをヴィオレッタ王女だと疑った上で、私の反応を
私が答えに
「ラルスってば、そういう風に人のことを悪く言ってはダメでしょう? 王女様にも何か事情があるのかもしれないし、ヴィオラ様だって意見を求められて困っていらっしゃるわ」
「……はい、そうですね。あんな王女の話題で不快な思いをさせてしまい、すみません」
「あ、いえ。別に気にしてないので、
アナリーに注意されても、「あんな」呼ばわりは変わらないんだと思ったら、つい
「じゃあ、アナリーも無事だったし、私はこれで」
このまま
「ヴィオラ様、大丈夫ですか? 今、足首をくじかれたのでは?」
アナリーが慌てて
「たいしたことないから、大丈夫よ。これくらいなら、
「
「そうですね。アナリー様を助けてくださったお礼もしたいですし」
私の希望を無視して、アナリーとラルスがさくさくと話を進める。次の
待って! 顔、近いから! こんなイケメンを間近で拝み続けるなんて、心臓に悪いわ!
ラルスは、私の様子がおかしいことに気づいたらしく、すぐにパッと手を放してくれた。
「すみません。女性の
この人は天然なのか。それとも、騎士とはこういう生き物なのか。ラルスに悪気はないとわかっていても、恥ずかしくなってしまう。そんな私の答えは、もちろん「ノー」だ。
「それでは無理なさらず、ゆっくり歩いて行きましょう」
どうやらアナリーの中で、私が治療院へ立ち寄ることは決定
「さっきから薬とか治療院とかいう単語が出てるけど、アナリーはお医者さんなの?」
断るのが無理なら、せめて行き先の
「私は
私が連れて行かれた先は、目抜き通りから歩いて三十分ほどの
「ここが私の治療院です。どうぞお入りください」
アナリーが
中に入ると、ハーブのような独特の
「ヴィオラ様、どうかそちらの
アナリーが扉の近くを指さし、ラルスが私のために椅子を引いてくれる。
なに、このシチュエーション。美少女とイケメンに
私は気恥ずかしさに
「ヴィ、ヴィオラ様?」
アナリーが
「二人ともどうし……あっ!」
いけない! 私は
「ごめんなさい! 私ったら、つい勢い余って」
「あ、いえ。ちょっと
「俺は、その……急用を思い出したので、出かけてきます」
ラルスが耳まで真っ赤になりながら、小屋を出て行く。
ごめんよ、ラルス。急に変なものを見せられてビックリしたはずなのに、気を
私が扉の方を見ていると、アナリーが目の前でしゃがんだ。彼女は軽く熱を帯びた足首を
「軽い捻挫のようで、安心しました。すぐに薬を調合しますから、少々お待ちください」
アナリーは私を安心させるように笑いかけると、干していた薬草の葉を何種類かちぎって近くのすり
アナリーはまだ若くても、薬草に関する豊富な知識を有しているらしい。本を調べることもなく、すぐに調合を開始できるなんて、慣れてなきゃできることじゃないよね。
私が感心して
「アナリー様、こんにちは! お母さんのお薬をもらいに来ました!」
元気よくそう言って中に入ってきたのは、まだ十歳くらいの愛らしい少女だった。
「リーズ、こんにちは。お母さんも治療院まで来てくれて、ありがとうございます」
アナリーが薬草を混ぜながら、少女とその後ろから来た女性に声をかける。
私は二人の登場を少し意外に思った。この国には生活保護のようなセーフティネットも、国民
親子の服はつぎはぎだらけで、生活にゆとりがあるようにはとても思えないけど、それでも薬を買いに来られるということは、見た目ほど生活に困っていないのだろうか。
私がなんとはなしに観察していると、隣に来たお母さんがにっこり話しかけてきた。
「こんにちは。あまりお見かけしない顔ですね。アナリー様の
え? 乙女候補って、光の乙女のことよね? それがお友達って、いったい……。
首をかしげる私を前にして、お母さんは自分の誤解に気づいたらしい。
「ごめんなさい、あなたも
「待ってください! 今の話、本当ですか? アナリーが光の乙女候補って……」
「私はそんな立派な人間ではないですよ。光の乙女候補に選んでいただきながら教会を飛び出してきてしまった、ただの
「そんなこと言っても、アナリー様には護衛の
お母さんが私の顔の前でパタパタと手を振る。私はショックすぎて何も反応できなかった。
どうして今まで気づかなかったんだろう? ヒントはそろっていたはずなのに。
ゲームの
まさにアナリーこそが、このゲームのヒロイン。光の乙女の生まれ変わりに選ばれ、ゲームのラスボスにして悪役王女となった私を