私、本当にこの仕事がしたかったのかな?
会社からの帰り道、私は暗い気持ちでため息をこぼしながら歩いていた。
二年前に新卒で外資系のコンサルタント企業に就職できた時は、「憧れの仕事に就けた!」と思って、本当にすごく嬉しかった。それなのに、最近は目の前のタスクをこなすことに手一杯で、なんだか目標を見失っている気がするんだ。
仕事である以上、自分の理想とかやりたいこととかは二の次だって言われるかもしれない。だけど、たった一度の人生をそんな風に妥協続きで過ごしたら、後悔しない?
「私、もっといい仕事ができるようになりたい」
ぼそっとつぶやいた。その瞬間、私の背中を押すように、信号が青に変わった。
うん、そうだよね! 一度きりの人生、もっとやりたいことを追求した方がいいよね!
早速明日、仕事のやり方について先輩に相談してみよう!
そう決意すると、途端に気が楽になって、私は足取りも軽く横断歩道を渡ろうとした。まさにその時だった。まばゆい光が突然、私の視界を覆った。
「危ないっ!」
誰かの悲鳴に重なって、キキーッとブレーキを踏む音が間近で上がる。その時すでに私の身体は宙を舞っていた。
熱いとか痛いとか感じる間もない。全身を勢いよく地面にたたきつけられ、呼吸が止まる。
……私、死ぬのかな?
遠のいていく意識の中で、ぼんやり思った。心の中は後悔でいっぱいだった。
もし生まれ変わることがあったら、今度はもう周りに流されたりしない。何があっても妥協せず、自分の意志を貫いて生きてやる。そう誓ったことが、前世での最後の記憶になった。
「そっか。私、本当に生まれ変わったんだね」
国王試験が始まった翌朝のこと。私は自分の部屋の鏡を見て、しみじみとつぶやいた。
鏡に映っていたのは、上質のルビーを溶かしたような赤い髪と、澄んだすみれ色の瞳を持つきつめの美人。この国の第一王女、ヴィオレッタその人だった。
転生してから十六年間も一緒の顔だから、当然のように見覚えも愛着もある。でも、それだけじゃない。私は自分以外でもこの顔を見たことがある気がして、首をひねった。
前世で観た映画や海外ドラマの中かな? この顔って、どこか外国の悪役っぽいし。
私がまじまじと鏡の中の自分を観察していると、部屋の扉がノックされた。
「ヴィオレッタ様、おはようございます。お加減はいかがでしょうか?」
侍女が扉越しに聞いてくる。そういえば、昨日倒れてから今まで爆睡してたんだっけ。
「おはよう。昨日は迷惑をかけたわね。もう大丈夫よ」
私が答えた瞬間、部屋の外で息を吞む気配がした。ん、なんで? 気のせいかな?
一拍おいて、侍女がクロワッサンとカフェオレの載ったトレイを持ちながら、おずおずと入ってきた。彼女は、ベッドから出ている私を見て驚いたらしい。
「あの、朝食はいつものように、ベッドにお持ちしてよろしいのでしょうか?」
「え? ベッド?」
私は一瞬ポカンとして、すぐに納得した。以前の私は毎朝ベッドの上で朝食を取っていたんだった。それはとても魅力的な提案に思えたけど、前世の社会人経験を思い出した今、平日の朝からそんな怠惰な生活を送ることには、さすがに抵抗がある。
私は侍女にニコッと笑いかけ、彼女の前に手を差し出した。
「いつも朝食を運んでくれて、ありがとう。トレイはここで私が預かるわ」
「え……」
侍女が固まる。その手からトレイがすべり落ちた。「危ない!」と思った時にはもう、熱々のカフェオレが深紅の絨毯にまだら模様のシミを作っていた。
「も、申し訳ございません! お許しを……!」
「それより大丈夫!? 怪我はない!?」
私は慌てて侍女の手を取った。カフェオレがかかってしまったのか、指先が少し赤くなっている。火傷までいかなくても、放っておけない。
「ここはもういいから。すぐに手を冷やして、薬を塗ってちょうだい」
私の指示に、侍女はなぜか無反応。なんで? まさか何も言えないくらい痛いの?
心配して見ると、彼女の顔は蒼白を通り越し、紙のように白くなっていた。
「どうしたの? やっぱり手が」
「い、いえ! あの、私はシミ抜きの手配をして参ります!」
私が手を放した、その一瞬の隙をつき、侍女は脱兎のごとく部屋を飛び出していった。真昼に幽霊を見たって、きっとここまでの逃げ方はしない。急にどうしたんだろう?
私は首をひねり……ややあって、ポンと手を打った。
そうだ、今の私はヴィオレッタだった。今までの私なら、上げ膳据え膳は当たり前。絨毯にシミがついたことを怒って、侍女を扇子で殴るくらいのことは平気でしていた。
いやぁ、実に過激で嫌な性格だったわ。前世に幕を引く直前に、「生まれ変わることがあったら、今度こそ好きに生きよう」と思ったよ。それでも、この性格はないわー。
こうして前世を思い出すまでは考えたこともなかったけど、実は私、あちこちで恨みを買いまくってるんじゃないかな?
案外、レナルドが王位に就いた途端、今までの私に対する鬱憤や不満があちこちで爆発して、私は幽閉されたり処刑されちゃったりして。……いや、まさかね。私、一応王女だし。
でも待ってよ! ヴィオレッタの処刑、本当にあるかもしれない!
私は嫌な予感に突き動かされ、再び鏡を見た。
この悪役顔に見覚えがあると思った時から、妙な胸騒ぎがしてたのよ。しかも、光の乙女を探し出すという国王試験の内容に、どこかで聞いた設定の数々。ここはまさか……、
「ゲームの世界?」
そう、あれは前世で私が就活に疲れていた時のこと。大学の友人が「気分転換になるよ」と言って、「グランドール恋革命」というタイトルの乙女ゲームを貸してくれたんだ。
あのゲームとまったく同じだ。グランドール王国という国名も同じなら、光の乙女を信仰している教会が存在する点も、ゲームの設定と一致している。
この王国で新しく王になる者は、教会が選び教育した「光の乙女」候補の中から、自らの代の「光の乙女」を選び、彼女の手で王冠を授けられることになっているんだ。
あのゲームのヒロインは、そんな乙女候補の一人だった。彼女は弱者救済に消極的な教会のあり方に反発して教会を飛び出し、下町で薬局を開く。そこへお忍びでやって来たレナルドたち王子様や、護衛の騎士たちと恋に落ち、様々なイベントに巻き込まれていくのよ。
中でも最大のイベントは、ラストの革命よね。ヒロインは、王宮を追われた王子様に協力して王位奪還を目指す。その過程で、彼女は光の力に目覚め……って、ゲームの最後で倒されるラスボスにして悪役王女が私、ヴィオレッタじゃない!
私は試験で王を目指すものの、レナルドたち兄弟に敗れてしまい、自分を王に選ばなかった父王を逆恨みして虐殺。王位簒奪の末に兄弟を王宮から追放し、圧政を敷いたせいで革命を起こされるのよ。しかも、その最期は処刑に惨殺に暗殺に獄死と、実にバラエティに富んでいて、「乙女ゲームのくせに、悲惨な最期のショールームか!」とつっこみたくなるほどだった。
せっかく来世に転職した途端、殺される選択肢しかないなんて、ひどすぎない?
そんなの絶対に嫌よ!
◆◆◆◆◆◆◆
その日の午後、私は重たい足を引きずり、王宮の西翼にある王立図書館へ向かった。
目的はただ一つ。本を読んで、ゲームの詳細を思い出すための手がかりを探すのだ。
廊下を奥へ進んで行くと、突き当たりに重厚な絹張りの扉が現れた。そばにいた衛兵が一礼し、扉を開けてくれる。中に入った私は、思わず歓声を上げそうになった。
ここの図書館って、こんなに広くて立派だったっけ?
同じ王宮内にありながら、ここに来るのは、実は数年ぶりだった。前世を思い出す前の私は、活字を読むと速攻で寝落ちするという特殊体質の持ち主だったから。……まぁ、勉強が嫌いで、ダンスや人の噂話ばかりしていたわけよ。
でも、前世を思い出した今は違う。私は吹き抜けの天井近くまで並んでいる本棚を見上げ、胸をときめかせていた。読書の何がいいって、知識や感動を得られることはもちろんだけど、本をめくる時の指先の感覚とか、あのちょっと乾いた紙の匂いもすごく好きなんだよね。
はぁー、やっぱり図書館はいいわー。
私は本の香りを胸一杯に吸い込もうとして、はたと動きを止めた。
目が合ってしまったんだ。こちらに向けられた、ものすごく胡乱げな眼差しと。調べ物の最中だったのか、本を抱えたレナルドが釈然としない様子でこちらを見ていた。
硬質な美貌の持ち主とでもいうのかな。淡い金色の髪は上品な色合いをしており、極上のエメラルドのような瞳には、十七歳とは思えないほど落ち着いて理知的な光が宿っている。その瞳が今、無言で語っていた。「ヴィオレッタ、君はここで何をしている?」と。
普段あまり図書館に来ない女が本を眺めて「はぁはぁ」している様を目撃したら、今の彼みたいに怪しみもするよね。変なところを見せて悪かったかもしれない。でも、ここはスルーするのが大人の余裕だと思う。
私はコホンと咳払いをし、レナルドに向けて一礼した。この国の貴婦人らしく、両手でスカートをつまみ、両膝を軽く折って微笑みかける。
「ごきげんよう、レナルド。今日もいいお天気ね」
レナルドの手から、高価そうな革張りの本がどさどさっと落ちた。
ちょっと! 図書館の本は丁寧に扱わなきゃダメでしょう!
私は駆け寄り、床に膝をついて本を拾おうとした。しかし、それらの本は目の前でレナルドに奪われてしまった。
「自分で拾うから大丈夫だ。そもそも君は、扇より重たいものは持たない主義だろう?」
冗談めかして言っていても、レナルドの目はちっとも笑っていない。
本を拾おうとしただけで、ここまで警戒されるってなかなかよ。もっとも、彼と私の今までの関係を思えば、それも仕方のないことかもしれないけど。
今までの私はワガママ三昧で、本当にひどいことばかりしてたからなぁ……。レナルドみたいに優秀な従兄と対立したって、いいことなんて一つもないのに、何を考えてたんだろう?……いや、何も考えてなかったからこそ、あんな振る舞いができたのかもしれないけど。
「どうしたんだ、ヴィオレッタ? まだ調子が悪いのか?」
急に黙り込んだ私を訝しく思ったのか、レナルドが眉根を寄せ、聞いてくる。私は立ち上がり、首を横に振った。
「体調はもうすっかり元通りよ。それより昨日は助けてくれて、ありがとう。倒れた私をあなたが部屋まで運んでくれたのよね?」
「別に礼を言われるほどのことじゃない。私は人として当然の行いをしたまでだ」
「ううん、当然じゃないわ。今までの私には、できなかったことだもの」
「……………………」
あ、まずい。レナルドの不信感がアップした気がする。その目が「君は何を言いたいんだ?」と苛立っているように見える。だけど、ここで引く気にはなれない。
私は精一杯の誠実さを込め、レナルドに向かって頭を下げた。
「ヴィオレッタ? 急に何を」
「今までたくさん迷惑をかけて、ごめんなさい。昨日、一人になってから反省したの。私の言動は王女失格だったと。これからは心を入れ替え、あなたのように誰に対しても手を差し伸べられる寛大な人間になりたいわ。今後はどうか私とも仲良くしてもらえないかしら?」
「……ああ、王位継承者同士が親しくするのは、国のためにもいいことだ。だが、今日はあいにく時間がない。先に失礼するよ」
レナルドは毅然とした態度でそう言うと、颯爽と図書館を出て行ってしまった。
今の提案はやっぱり難しかったか。今までずっと敵対的だった女の態度が急に軟化したら、誰だって不審に思うよね。よりにもよって、今日は国王試験が発表された翌日だし。
失った信用を、これからどうやって回復していこう?
私は前途の多難さを思って、ため息をこぼした。その時、クックッと笑う声が耳に届いた。
「ご愁傷様です。レナルド様に完全に振られてしまいましたね」
うっ、つらい……。胸を押さえ、声のした方を見ると、本棚の陰から、今あまり会いたくない人が現れた。年の頃は、まだギリギリ二十代だったと思う。漆黒の髪を後ろで一つに束ね、大学の卒業式で着るような黒いガウンを羽織り、銀縁の眼鏡をかけている。
彼の名は、スヴェン。最年少で王立学院の博士号を取得した秀才にして、私とレナルド、そしてリアムの家庭教師として雇われている学者だ。とはいえ、私とはあまり面識がない。勉強嫌いの私は、いつも彼から逃げ回ってばかりいたからね。
「ヴィオレッタ様が図書館にいらっしゃるとは、お珍しい。国王試験について、何か質問でもございましたか?」
スヴェンは笑顔のままなのに、その青みがかったグレーの瞳には警戒の色が浮かんで見える。彼と向き合う私も気を引き締めた。
レナルドと同じように、私はスヴェンとも対立したくない。どちらかといえば、彼には勉強を教えてもらいたいくらいで……そうよ! それでいいじゃない!
「ヴィオレッタ様、いかがなさいましたか?」
急に押し黙った私を心配してか、スヴェンが近づいてくる。私は彼に向かって頭を下げた。
「お願いです、スヴェン先生! この国のことについて、私にいろいろ教えてください!」
「……………………」
スヴェンは器用にも笑顔のまま、あっけにとられているようだった。今までの私を知っている人なら、そうなる気持ちもわかるよ。だけど、前世を思い出した今はもう違うんだ。
「さっきもレナルドに言いましたが、私は自覚したのです。今までの私が王女としていかに不真面目で不勉強であったかを。スヴェン先生には今まで多大なご迷惑をおかけしました。今さら虫のいい話だとわかっていますが、どうかご指導ご鞭撻のほど、お願いいたします!」
私の急な変化をスヴェンはどう受け止めるだろう? 顔を上げ、ドキドキしながら答えを待つ。スヴェンは私の目をじっと見つめ返し、ややあって、わずかに肩をすくめた。
「私でよければ、ヴィオレッタ様のお力になりましょう。そのための家庭教師ですから」
「ありがとうございます!」
よし、まずは第一関門クリア!
スヴェンに勉強を教えてもらえれば、効率よくいろんな知識を吸収できるものね。さらに、私が改心したことをアピールできるチャンスも増える。まさに一石二鳥だ。
「ヴィオレッタ様には、少々こちらでお待ちいただけますでしょうか? 本を何冊か見繕ってまいりますので」
スヴェンが私に背を向け、図書館の奥へ消えていく。やがて戻ってきた彼の姿を見て、私はちょっとだけ後悔した。なんと彼は台車に山積みの本を載せていたんだ。しかも一冊一冊がやたらと分厚く、少しでも衝撃を与えたら、雪崩を起こしそうなほどの量だ。
「スヴェン先生、まさかそれ全部……」
「はい。今のあなたに必要だと思われる、最低限の知識が載った本です。まずはご自身で、これらすべてに目をお通しください」
実はこの人、私が勉強から逃げ回っていたことをずっと根に持っていたんじゃないだろうか。それとも、私はここまでしないとまずい頭の出来に思われているとか。……悲しいけど、きっと後者が正解だ。今までの十六年間、本当に勉強してこなかったから。
「今日は実に喜ばしい日です。あのヴィオレッタ様が王国の地理や歴史に加え、内政や外交、民の生活や文化に至るまで、あらゆるものに興味を示してくださるなんて」
スヴェンがさらっと勉強内容を増やしつつ、私に微笑みかける。
「昼の間、私は図書館にいます。質問がございましたら、いつでも気軽にお越しください」
「……ありがとうございます、スヴェン先生。これからもよろしくお願いいたします」
私のお礼が棒読みになってしまった点は、大目に見てもらいたい。
私は台車を押して適当な席へ向かうと、そこで渡された本を片端から読んでいくことにした。その姿を、スヴェンはいつまでも監視するようにじっと見守っていた。