クラスの大嫌いな女子と結婚することになった。

第二章『新生活』(4)

 夕食の時間うんめいのときが訪れた。

 朱音がテーブルに料理を運んでくるのを、才人は戦々恐々として見守る。

 普段から才人を目の敵にしている少女なのだ、毒物を混入させるぐらいは夕飯前に決まっている。でなければ、敵に手料理を振る舞ったりはしないはずだ。

 そう思って調理中の動向はきっちり監視していたのだが、毒を入れる瞬間を捉えることはできなかった。

 ──俺が目を離した隙に毒を入れた? いや、俺の視線を誘導して死角を作ったのか? コイツには手品師の才能があるのかもしれない……。

 才人はもはや朱音の黒を固く信じて疑わなかった。女子の手料理を食べるのは初めてなのにうれしさは皆無、心は恐怖に塗り潰されている。

「たんとめしあがれ……今日こそはあんたを倒してみせるわ……」

 物騒なことを言いながら、朱音が悪鬼の形相で料理を並べる。

 豚の冷しゃぶサラダ、卵焼き、しるにご飯。

 才人は箸の先で白飯の中を探る。行儀が悪いが、命には代えられない。

くぎや爆弾のたぐいは……入っていないようだな」

「当たり前よ! そんなの食べられないでしょ!」

「口に入れた時点で違和感を覚えるものは混入していない、ということか……」

「なんの話をしているの!? いいから早く食べて」

「そこまで早く俺を殺したいのか……」

「殺さないわよ!」

 あかは箸を手に取ることさえなく、さいの様子を眺めている。

 ──毒が入っているから自分は食べたくないのか……?

 才人は戦慄しながら、豚の冷しゃぶを恐る恐る口に運んだ。半ば死を覚悟し、息を深く吸って口の中に放り込む。

「どうかしら? しい?」

 朱音はテーブルにほおづえを突き、きらきらと目を輝かせている。期待に満ちたまなし。

 ──普通にうまいぞ!?

 才人は驚いた。

 口内で爆発することも、壮絶な激痛が舌を貫くことも、気が遠くなることもない。普通だ。これは人間が食べる料理だ。

 さっとでた豚肉はみずみずしく、薬味の大根おろしとネギとカイワレが爽やかな刺激を伝えてくる。付け合わせのトマトをかじると、甘酸っぱい汁が舌を潤していく。

 祖父にひいされるさいは両親に疎まれ、実家ではカップ麺や弁当を買い与えられることが多かった。祖父と食事に行ったときは、料亭や高級レストランばかりだった。高低差の激しい両極端だ。

 だから、丁寧に作られた『普通の家庭料理』は、才人にとって特別なもの。血がつながっているのによそよそしい実家とは違い、家庭の息吹を感じさせてくれるもので。

「…………普通だ」

 その言葉は、最上級の褒め言葉だったのだけれど。

「じゃあ食べないで!」

 あかは憤慨して皿を取り上げた。

「なんでだよ! ここまで来ておあずけとかないだろ!」

 食欲を刺激された状態でプロテインに戻るのは生き地獄である。才人とて味覚がロボットなわけではなく、科学的に合成された食糧ではなく文化的に楽しめる食料が欲しい。

しくないなら食べないでいいわ! その辺の犬にでもやるわ!」

「もったいない! 美味しくないとは言ってないだろうが!」

「美味しいとも言ってないでしょ!」

 朱音が皿を持ってリビングを逃げ回り、才人が追いかける。どうして朱音が怒っているのか分からない。珍しく感心していたのに、なぜかわない。

 いつだってこうだ。才人と朱音は同じく成績優秀で、決して違う星の人間ではないはずなのに、高校入学当初から争っている。どうしてこうなってしまうのか分からない。

 才人は朱音から皿を奪い返し、全速力でがっつく。

「ちょっと、なに勝手に食べてるのよ!」

「出されたものはすべて食べる! お前には一粒たりとも返さん!」

 せっかくの家庭の味わいを、無駄にしたくはない。

 卵焼きをぱくつき、しるをガブ飲みし、白飯をむ。

 朱音は才人の袖を引っ張る。

「返しなさい! こんなの泥棒よ! 無銭飲食よー!」

「家庭内無銭飲食とか初めて聞いた。諦めろ、俺に料理を出したのが運の尽きだ」

「この外道っ……! 末代まで恨むから!」

 涙目で悔しげににらむ朱音。

 出された料理を完食して恨まれるのも、才人は初めてだった。



「起きて……起きて……」

 やわらかな毛布の中、愛らしい声がを侵す。

 そっと揺さぶられるリズム、肩に触れる小さな手の感触が心地良く、さいは惰眠を貪っていた。

 まぶたの裏に感じるあさ。毛布には少女の甘い匂いが満ち、名残の熱と溶け合って、才人を優しく包み込んでいる。

 この快適な時間を終わらせたくなくて、才人は目を閉じたままつぶやく。

「後少し……」

「ダメ。ちゃんと起きなきゃ」

 少女が才人のほおをぺちぺちとたたく。その感触もまた、ひんやりとしていて気持ちいい。

 こんなことをするのは、従妹いとこせいくらいだ。幼い頃から、糸青はよく才人のベッドに潜り込んでくる。

 才人はもうろうとした意識のまま、少女を抱き寄せる。

「大丈夫だって。一緒に寝よう」

「ひゃっ!?」

 少女が身を硬くした。

 髪の甘酸っぱい香りが、才人の鼻先でそよぐ。嫌いな匂いではなかった。むしろ、本能に訴えかけてくる匂い。少女のからだも腕の中にぴったりとフィットしていて、まるで才人専用に造られたかのようだ。

「あ、あ、あんたねえ……」

 わなわなと震える少女。羞恥に声が上ずっている。

 なにか普段と様子が違う。気づいた才人が、意識を覚醒させる暇もなく。

「起きなさいって言ってるでしょ────!!」

 全力で突き飛ばされ、才人はベッドから転がり落ちた。

「っ!? っ!? っ!?」

 混乱した頭で目をこすり、少女の姿を確かめる。

 それは糸青ではなく、エプロン姿のあかだった。真っ赤な顔で涙をにじませている。

「こ、この家は、起こしに来てあげたらベッドに引きずり込まれるの……? 無法地帯なの……?」

「落ち着け。今のはシセと勘違いして……」

「糸青さんなら引きずり込むの!? そういう関係なの!?」

「どういう関係か知らんが、多分お前の想像している関係じゃない! とりあえずその武器を捨てろ!」

 寝込みを襲うつもりだったのか、朱音の手には包丁が握られている。才人は布団を体に巻きつけて防御を固める。

「武器じゃないわ、朝ご飯を作っていたのよ」

「昨日あれだけ食うなって言ってたのに……」

「あんたの分は作ってないわ!」

 包丁の刃があさにぎらついた。

「はい。すみません」

 期待してしまったさいは肩を縮める。今朝も元気にプロテイン野菜ジュースMIXだ。科学的には非常に正しい。

 あかは横を向いて口をとがらせる。

「ま、まあ? ちょっと作りすぎちゃったから? あんたがどうしても食べたいって言うなら残飯を食べさせてあげてもいいけど?」

「残飯は要らん」

「なんでよ!? 私の作った残飯、食べたいでしょ!?」

「誰が作ったものであろうと残飯は要らん」

 人としてのきようの問題だった。

「昨夜だって残飯を全部平らげたくせに……」

「ちゃんと夕食が出てきたよな!?」

 自分がクラスメイトの女子から残飯処理機と認識されていることに、才人は脅威を覚えた。それはいけない。

「というか、お前が起こしに来てくれるとは思わなかったぞ」

「あっ、思い出したわ! 起こしに来たんじゃないわ、怒りに来たのよ」

「怒り……?」

「こっちに来て」

 朱音の要求に才人は大人しく従う。朝っぱらから包丁を装備している敵に逆らうほど愚かではない。才人の方は丸腰なのだ。

 連行されていった先はオープンキッチン。

 冷蔵庫から大根やベーコンが取り出され、カウンターに並べられている。家庭的で新鮮な光景。カウンターの上には朱音のスマートフォンが置かれ、作業用のBGMらしきものを流している。

「これ!」

 朱音はシンクを指差した。昨日の夕食に使った皿やちやわんが積み重ねられている。

「流し台がどうかしたか?」

「どうかしたか、じゃないわよ! なんで洗い物そのままなの!? 昨夜は私がごはんを作ったんだから、あんたが洗うべきでしょ!?」

「まだ放っといてよくないか? 茶碗はたくさんあるし、天井に届きそうになってからで間に合うだろ」

「手遅れよ! 汚いし、見た目も悪いし、なにより気分も悪いし! 今すぐ洗って! 炊飯器も使えなくて、ごはんが炊けないのよ!」

「別にいいと思うんだが……」

 両親が旅行で不在にしているときなど、さいはシェイカーを大量に買ってきて毎日違うものを使い、一週間分をまとめて洗っていた。一つずつ洗うより、その方が効率的だ。

 とりあえず才人はトイレを済ませ、食器洗いに取りかかる。なるべく早く終わるよう、無心でスポンジを動かしていると、トイレの方からあかが走ってくる。

「なんで便座を上げっぱなしにするの!?」

「なにか問題が?」

「気持ち悪いでしょ! ちゃんと毎回下げるか、座ってやって!」

「自分で下げればいいじゃないか」

「触りたくないでしょ! そのくらいも分からないの!?」

「分からん」

「はー? もう信じらんない!」

 あきてたといった様子の朱音。

 そんなことを言われても、両親もせいも便座の上げ下げについて苦情をぶつけてきたことはないから、才人には理解できない。朝っぱらから怒鳴り散らされていたら、こっちまで腹が立ってくる。

「トイレットペーパーの芯も放置されてたし、お風呂場に石けんの袋もほったらかしだったし、なんなの!? あんたはこの素敵な家をジャングルにでもしたいの!?」

「ゴミは一ヶ月に一回片付ければいいだろ」

 才人が肩をすくめると、朱音が目を見張る。

「ほ、本気で言ってるの……? あんた、それでも人間なの……?」

「そのつもりだが。ゴミを拒絶するな、ゴミと共存して暮らすんだ」

「嫌よ、そんな共存! 私は清く正しく美しく暮らしたいの!」

「あいにく、俺はそこまでマジメじゃないんでな。正直、風呂や清掃の存在意義についても疑問視している」

「その認識にドン引きよ! 疑問視する余地はないわよね!?」

 朱音はおぞを震った。

「洗い物は終わったし、じゃあ」

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」

「朝っぱらからギャンギャン騒がれると頭が痛くなる。ちょっとは黙っていてくれ」

「はあ!? 同居人に向かって、なによその言い方!」

「同居しているのは、お互い自分の利益のためだろ。必要以上に干渉するな」

 さいはキッチンから退避する。あかが地団駄を踏む音が聞こえてくるが、まともに相手していたら神経が参ってしまう。

 才人は学校の準備を始めた。

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