◇死神と他殺志願者 その1
「飛び降りないの?」
唐突な質問。地上の群衆から視線を切って振り返る。
三メートルほど離れた所。給水塔の前に、嘘っぽい少女が立っていた。
五月の風に揺れる、ダークブラウンのショートカット。斜陽に照らされて、妖しく光る紫紺の瞳。
球形のピアスが、翡翠色の輝きを放つ。
くっきりとした目鼻立ち。一七〇センチ近い身長も相まって、モデルめいた雰囲気だ。
ベージュのコートに、黒いジーンズを合わせている。足元には淡い紫のハイヒール。
容姿端麗。ただ、それも彼女の嘘っぽさを助長している。
強いて例えるならば、書類の記載例として記された『面接太郎』や『英検花子』という名前に近い。目の前にいながら、一目で「こんな人間は存在しないだろう」と思わせる謎の力が彼女にはあった。
「誰だ?」
「えーっとぉ、死神?」
問いに、少女は彫像めいた微笑みを浮かべる。
返答自体には驚かなかった。誰に殺されるかは問題じゃないから。条件さえ満たしていれば、相手は死神でも構わない。
とりあえず、設定を受け入れて尋ねる。
「死神も結婚するんだな」
言って、死神花子の手元を指さす。
彼女の左手薬指には、シルバーリングがはまっていた。
数秒の硬直を挟み、花子は苦笑する。
「これ、飾りだよ」
「男除けか」
「そんな感じ」
引きつった笑み。ここでようやく、俺は彼女が実在の人間であると確信した。
微苦笑のまま、花子が俺の右隣まで歩いてくる。必然的に、廃墟の屋上から地上を見下ろす形となった。
周囲には手すりも柵も無い。理由は、一般人の侵入を想定していないから。らしい。数年前、管理会社はそう説明していた。
まぁ、屋上から飛び降りた訳じゃないんだけど。
……飛び降りるつもりか? 花子の様子を窺う。
「死んじゃったの。結婚するって約束したのに」
「後を追うのか?」
「追わないよ。まだ」
嫌な倒置法だった。
互いの距離は五〇センチほど。手の届く所に死神がいる。死神を名乗る奇人がいる。
「あたしには、やらなきゃいけないことがあるからね」
「……俺を、殺しに来たのか?」
「そうだと言ったら?」
花子は探るような視線を向けてくる。冗談半分だったのに。
研かれた鎌を思わせる瞳。堪らず目を逸らし、無意味に首を押さえた。
花子が問いを重ねる。
「殺してほしいの?」
「いや、結構だ」
「ふーん」
そっけない反応だけ返し、視線を眼下へ向ける花子。意図せず同じ動きをしてしまう。
いくつもの小さな人影が、
どっかのラピュタ王家は、逃げ惑う人々を見て『人がゴミのようだ』と言っていたが、個人的には『ゴミが人のようなのだ』と思う。
人間の出すゴミほど人間に近しい存在を、俺は他に知らない。
「怖いの?」
ゴミ……じゃなくて人の群れを眺めながら、花子が訊いてきた。努めて冷徹に応じる。
「違う」
「本当に?」
「俺は死にたい訳じゃない」
「あははははっ! そんな顔して、こんな所にいるのに!?」
真顔で言ったら爆笑された。これほど人を笑わせたのは、生まれて初めてかもしれない。つうか、顔は関係ねぇだろ。
気を取り直して、俺は本懐を教える。
「俺は、俺のことを愛している人に殺されたいんだ」
一瞬、花子の表情が消えた。
「……………………ウケる」
ウケるなよ。
嘆息して空を仰ぐ。女の子は降ってこない。
とんでもない死神に捕まってしまった。厄日だ。
布団で眠る病人を連れてきて、花子を布団の足元に立たせるか? 思案していると、
「……君の望み、叶えてあげようか?」
死神の方から提案してきた。思わず失笑する。
「お前が俺を愛して、殺してくれるのか?」
「あははっ! そんな訳ないでしょ!」
腹を抱えて、再び爆笑する花子。羞恥で顔が火照った。
不満を込めて尋ねる。
「じゃあ、どうやって俺の望みを叶えるんだよ?」
「女の子、紹介してあげる」
「断る」
踵を返して歩き出した。
こんな所へ来るような人間だから多少は期待していたが、とんだ時間の無駄だった。こいつは、俺の命題を馬鹿にしているのだ。そう思えば、一連の軽薄な態度にも納得がいく。
「君の望みを叶えてくれる女の子だよ」
背後からの声に、足を止めてしまった。無視すれば良かったのに。
けど、我慢ならなかった。
こっぱずかしい言い方になってしまうが、これは俺の夢なのだ。
他の何を引き換えにしてでも、叶えたい夢。それを馬鹿にされては、黙っていられない。
「……適当なこと言うなよ」
睨みつけるため、顔だけ振り向くと、眼前に花子が立っていた。
鼻白む俺の目を、彼女はじっと見つめる。僅かな陽光を反射して、紫紺の瞳が淡く輝く。
「君も本当は分かってるんでしょ? このまま生きていても、君の望みは絶対に叶わない。満たされないまま死んでいく」
「……」
図星だった。
幼い頃から抱いている夢だが、具体的にどうすればいいのかは今も分かっていない。こんな夢を周囲に語れば、然るべき施設に強制送還されてしまう。故に、こういう頭のおかしい奴にしか相談できない。
「そうなるくらいなら、私の提案を聞いてみるのも、一つの手じゃない?」
頭のおかしい奴による、おかしい提案。俺はおかしい頭で考える。
常識的に考えれば、そもそもおかしい夢なのだ。試す価値はある。かもしれない。
「……暇つぶしに冷やかされてやるよ。感謝しろ」
「そっちこそ感謝してよ。恋のキューピッドになってあげるんだから」
渋々ながら了承すると、花子は頬を膨らませた。
「どうしてそこまでする? 何が目的だ?」
「君を殺すこと」
「……俺のこと、好きなのか?」
「あははっ!」
三度目の爆笑。慌てて釈明する。
「いや、今のは変な意味じゃなくて」
「分かってるよ。けど、口調がアホっぽかったから」
アホはお前だ。心中で吐き捨てた。
三日後。午後一時一〇分前。
週に一度の部活動をサボって、俺は最寄りの喫茶店を訪れた。
和洋折衷のモダンな内装。レトロな雰囲気のアンティーク家具や雑貨が、整然と配置されている。床に敷かれているのは、タータンチェックの絨毯。
店員の誘導に従い、左隅奥のテーブル席へ腰かける。錆色のソファが
今から一〇分後。俺の望みを叶えてくれる女の子が、ここへ来ることになっている。
正直、期待はしていない。所詮は死神の
つまり、俺はどうかしている。
我ながら情けない話だ。あんな奴の言うことを真に受けるなんて。自分で自分が嫌になる。
羞恥に駆られて、周囲を見回す。
花子がどこかから監視しており、俺の醜態を眺めているかもしれない。
……それ、何が楽しいんだよ。馬鹿馬鹿しい妄想に、自嘲的な笑みが漏れた。
恐らく『周囲に見られている』という錯覚は、『自分は周囲から注目されるべき存在だ』という自信の裏返しであり、『自分に注目してほしい』という期待のなれの果てなのだと思う。
真横の窓ガラスで、己の容姿を確認。
グレーのパーカーにジーンズ。脇には学校指定のサブバッグ。無難の極み。
「……はっ」
自身の虚像に対して失笑を浮かべる。外を歩くサラリーマンが、素早く目を逸らした。
「貴方が殺されたい人ですか?」
気だるげなアルトボイス。ぎょっとして顔を向けると、無表情の少女が立っていた。
琥珀色の澄んだ瞳。薄紅の唇。通った鼻すじ。雪色の肌。表情こそ暗いが、整った容姿。
着ているのは、灰白色のハイネックニット。その上にデニムワンピースを合わせており、細い脚は黒のタイツで覆われている。肩にはベージュのレザーバッグという着こなし。
背は低い。一五〇センチ前後だろう。身体も華奢で、腕は枝みたいだ。
好みではない。そんな俺の心中を見透かしたのか、眉を顰める少女。
「黙っていないで、質問に答えてください」
「……端的に言えば」
早くも
ため息を吐いて、少女は俺の対面に座った。座高が低いのか、座ると更に小さく見える。
「
事務的な自己紹介。機械的に返す。
「
「変わった名前ですね」
「お互い様だろ」
字面は俺の完全敗北だけど。淀川って苗字が大きなディスアドバンテージだな。
胸中で嘆息すると同時、浦見が身を乗り出し、目前まで顔を寄せてきた。
妙な引力を持つ大きな両眼が、身動きを許さない。フルーティな香りが鼻先を撫でた。
驚愕と動揺と緊張と
「貴方、奥二重ですね」
平坦な声で、浦見は脈絡なく言った。
「……奥二重だと、何か問題あるのか?」
「問題点を指摘した訳ではありません。貴方の長所を必死で探した結果です。他に褒める点が無かったんです」
「『奥二重以外に褒める所が一つもない』って、割と強めの悪口だろ」
「うるさいです」
言い捨てると、浦見が軽く挙手して店員を呼んだ。
颯爽と現れた、笑顔が似合うスタッフに注文。すると思いきや。
「……スキンヘッド、似合ってますね。衛生面を考慮してるんですか?」
「っ! ば、馬鹿。何言ってんだ」
その人は死ぬ気で育毛したけど駄目だったんだよ。
いきなりの不躾な質問に戦々恐々としながら、改めて注文。
「アイスのカフェラテをお願いします。あ、ストローも」
「俺はホットミルクで」
笑みを強張らせて、メモを持った店員(ハゲ)がキッチンの方へ向かった。
同時、浦見がこちらを睨んでいることに気づく。
「な、何だよ?」
上擦った声で問うと、彼女は小さく嘆息した。
「コーヒーは苦手ですか?」
「別に。好んで飲まないだけだ」
「じゃあ、次からコーヒー以外は注文しないでください」
「……は?」
意味不明な要求に困惑していると、ストローの差されたカフェラテとホットミルクが運ばれてきた。
店員が去った後、浦見は少しだけカフェラテを飲み、物憂げに呟く。
「私は、最愛の人を殺したいんです」