第一話 たとえば俺が、チャンピオンから―― 1
旅の果て――コロッセオを追放されてから二年。
フウタの姿は、祖国から遠く離れた王国の首都にあった。
この国まで来ると、フウタを知る者など最早いない。距離が離れていることもあるが、何よりこの王国には闘剣という文化が無いからだ。もっとも、もしフウタを知る者が居たとしても、以前とはかけ離れた風貌の彼をフウタと断定できるかは難しいところだが。
伸び放題の髪と、粗雑にナイフか何かで切っただけの髭。
体躯は痩せ衰え、纏うボロ布は異臭を放っている。
これで〈無職〉とくれば、仕事を斡旋して貰えないのも当然だろう。
自分でも分かっていた。それでも王国王都までやってくれば、非合法だろうと何だろうと、仕事の一つもあると願ってここまで歩いてきた。
だが、フウタは最早限界が近かった。視界は霞み、腹部より下は既に感覚が殆ど残っていない。飢えと、日照りによる脱力で、歩みを一歩進めるのもやっとだった。
――まだ意識がはっきりとしているのは、これまで積んできた鍛錬のおかげだろうか。
王都の隅にある裏通り。
昼から営業している酒場の店主は来店のベルに顔を上げ、フウタを見るなり舌打ちした。
「……金は持ってんだろうな」
金は持っていなかった。路銀はとうに尽きている。もしも善意で食糧を恵んでくれるような店主なら、と仄かな期待はすぐに諦め、フウタは酒場の奥へと目をやった。
しかしてそこには、幾枚ものスクロールが貼られた掲示板があった。
「……おい兄ちゃん、聞いてんのか」
「仕事を。仕事をくれないか」
「仕事だァ? ……〈職業〉は? まさか〈無職〉ってんじゃねえだろうな」
禿頭の店主は腕を組み、フウタを上から下まで眺めて呟く。ふらふらと店奥の掲示板まで足を運ぶフウタの肩を掴んで止めて、彼は告げた。
ここでも、〈職業〉だ。どの町でも、どの国でも、〈無職〉の扱いは粗略に尽きた。
この店でも仕事を断られたら、いよいよ自分は死ぬかもしれない。
ぼんやりと、それもまたいいかもしれないと思った。長い時間かけてすり潰された心。追放からの当てもない旅。うだるような熱と、幾つもの悩みに、脳は溶け、死ぬことすら怖くなくなっていた。心が軽く麻痺を起こしていたと言ってもいい。
「――だとしたら、仕事は無いか?」
「マジで無職かよ。そっちの掲示板には無職なんぞにくれてやれる依頼はねえ」
その言葉に含まれた副音声は、すぐに分かった。
目に見えるところに出せない依頼なら、あるのだろう。
何が割に合わないのかは、ものによる。対価、日数、報酬、リスク。或いは――
「……話し相手になるだけで、三十万?」
「本当はこんな依頼、うちで預かるのも嫌だったがな。非合法のこういうの目当てにする、お前みたいなヤツの為の店を開いたつもりはねえんだ」
前金を受け取ってしまったからしかたない、と吐き捨てた店主が渡してきた依頼は、内容の割に高額な、所謂怪しい仕事だった。
当然違法だ。少なくとも、正当な依頼方法で出そうとしたら検閲で弾かれる。
だが今のフウタにとってはちょうどよかった。どのみち依頼を受けなければ死ぬだけだ。
「これを引き受ける。……その金で、飯をくれないか」
フウタの懇願に、店主は少しだけ嫌そうな顔を浮かべて呟いた。
「まぁ良いだろ。臭ぇ浮浪者にうちで飯食わせるなら、妥当な線だな」
食ったら即帰れ、と言って厨房に引っ込む店主。
「……ふぅ」
ひと月ぶりだろうか。ようやくまともな食事にありつける。涙が出そうになるのを堪え、フウタは改めて依頼書に目を通した。これからどんな目に遭うか分からない。
ただ、今は。
この依頼のおかげで命を繋ぐことが出来た感謝の気持ちで、胸がいっぱいだった。
†
その翌日のこと。少しだけ元気を取り戻して、依頼書を片手に約束の場所にやってきたフウタは、周囲を見渡して顔をしかめた。治安が放棄された区域とでも表現しようか。
指定された旧噴水広場という場所は、自分と同じように路上で生活するしかない者たちが住まう裏路地。やはり罠だろうかと疑いつつ、彼はゆっくりと歩みを進めていた。
そして。強烈な気配に顔を上げた。
噴水の前。静かに座す、フードを被った少女の姿。本来、こんなところに一人で少女が居ようものなら、たちまち飢えた人間の欲望の捌け口にされる。
だからこそ、異質に映った。
広場には、浮浪者の根城はあっても彼らの姿は一つもない。張りつめたような空気は、まさしくコロッセオで感じた闘気そのもの。それも少女が発するそれは凄まじい。フウタが相手にしてきた最上級の闘剣士に勝るとも劣らない、静謐かつ鋭利な猛者の力の発露。
フウタは慌てて依頼を確認した。場所は合っている。相手の風貌は蒼のフードを被った軽鎧の人物。該当するのは彼女だ。だが依頼は果たし合いではなく話し合い。もとい話し相手だ。話し相手をしに来たのにこの空気感では、自分以外の受注者は逃げ出してしまうのではないか。素直に、フウタはそう思った。
あの、と。一歩、広場に足を踏み入れて声をかける。
瞬間、フードの角度が上がった。こちらから見える口元だけが、小さく弧を描く。
「依頼を受けてくださった方ですか?」
「ええ……まあ……」
フウタは面食らった。彼女の声は清涼で、可憐。張りがあり、聞き心地が良かった。
ただ、これだけの闘気を纏わせておいて、敵意の欠片も感じなかったのは、妙だ。
「どうかなさいましたか?」
「いや、その。依頼主さんを不快にさせるつもりはないのですが」
きょとん、と首を傾げる少女。フードがこてんと揺れた。
「これほどの闘気を纏わせていると、誰も近づけないんじゃないかなと」
コロッセオの猛者たちが日常的に纏っているものだから、フウタは気にならない。だが彼自身も、何度も何度も戦ってようやく慣れたのだ。いくらなんでもこんな場所に非合法の依頼を抱えて訪れるような人間に、この空気の中を歩いていけというのは酷だろう。
しかし、少女は彼の言葉がよく分かっていない様子だった。
「わたしから……闘気が? そんなつもりはありませんでしたが」
「マジですか」
「結構、分かるのですか? 意外と出している本人は気づかないものなのでしょうか」
「一度しっかり訓練はしないと、漏れてしまうことはあるみたいです」
「なるほど、道理でここ数年、人に避けられていたわけですね」
ふむ、と顎に手を当てる彼女。しかし闘気が消える兆候は一切ないとなれば、フウタも彼女が無意識に出しているものだと結論付ける他なかった。
隣へ行って、少し考えて、離れて座る。と、少女はフードごとフウタに顔を向けた。
「あれ。……わたしの闘気って、そこまで離れたいものなのでしょうか」
「いやむしろ、こちらがしばらく不衛生だったので、臭うかなと」
フウタとしては気を遣ったつもりだったのだが、少女は首を横に振った。
「この場所がもう随分と臭いがきついので、今更です。気にしないでください。わたしが、お話をしたくてここに来たのです」
「それはまた、奇特な……」
お話。果たして実際はどんな依頼なのだろうかと身構えてやってきてみれば、どうやら本当にお話のようで。フウタは目を瞬かせて、少しだけ彼女に寄って腰かけた。
噴水を取り囲む石の淵に二人。
「で、話というと? 依頼には、詳しいことが書いてなくて」
「そうなんですよね」
え、と困惑するフウタをよそに、彼女はまるで他人事のようにそう言った。
「お互いに何も知らない間柄ではありませんか。そういう関係だから話せることもある、とアドバイスを貰ってやってきたのですが。いざ会ってみると、悩んでしまいますね」
「はぁ……」
そんな思い付きに、非合法の依頼を――30万などという大金を使って――出したのか。
この様子なら金に不自由はしていないのだろう。金持ちの考えることは分からない。
とはいえこちらは依頼を受けた身だ。話し相手になるという依頼である以上、会話が続かないというのは良くないだろう。話術に自信があるわけでもなければ、得意な〈職業〉でもないけれど。ありきたりの話でも、振らないよりはマシだろうと考えて。
まずフウタは、深く、頭を下げた。
「依頼、ありがとうございました。本当に」
大仰な礼に、少女は少し驚いたように口を開ける。
「いえ。そんなに、御礼を言われるようなことでは」
「貴女にとってはそうかもしれません。でも、俺にとっては違ったんです」
「……というと?」
フウタはぽつぽつと、この国に来るまでのことを語り始めた。
仕事でやらかして、国を追放されたこと。
それから路頭に迷い、〈無職〉ゆえに仕事もろくにさせて貰えなかったこと。
ようやく、遠いこの国に辿り着いたこと。
「〈無職〉……なるほど」
小さく呟いた少女の言葉は、フウタには届かず。
「追い出される前は、どんなお仕事をしていたのですか?」
「闘剣士です。腕には、自信があったんですが」
「追い出されてからは、その腕を活かせるお仕事にも付けなかった、と?」
「ええ。資格に〈職業〉のふるい分けがあるのと――まあ〈無職〉でここまで剣の腕だけを鍛えていた人間もそう居ないでしょうから」
「です、か……」
少女は押し黙り、俯いた。
そっと唇を撫で、何かを思案したらしい彼女は、しばらくして立ち上がる。
「――良い、機会だったかもしれません」
それが何を意味する言葉かは、フウタには分からない。
ぼんやりと立ち上がった少女を見上げることしか出来ない彼に、少女は振り返る。
「元闘剣士だと言うなら、手合わせをしませんか? 報酬は別途でお支払いしましょう」
急な提案に、フウタは面食らった。どういう意味かと意図を問う困惑の表情は、しかして彼女の柔和な笑みに封じられる。
「これを、運命と呼ぶかどうか。試したくなってきまして」
詩的な言い回しはフウタには理解出来なかった。金持ちは道楽にも全力なのか、程度のことしか考えられない頭では、彼女の言葉にロマンチックな返しをするなど不可能だ。
そういう〈職業〉でもないのだし、諦めて続きの言葉を待った。
「この依頼を出すのは何度目かになるのですが……そも、わたしの前に現れてくれたのも貴方だけでした」
「それはそうかもしれません」
彼女の闘気は、威圧感となって周囲を圧迫する。この辺りに寝ているような者たちでは、呼吸すらままならないだろう。確かにそういう意味では、依頼を受けたのがフウタでなければ、こうして会話することすら出来なかったかもしれない。
「その貴方が、〈職業〉によって苦しい想いをしたこと。遠い国からこの王都まで訪れたこと。……剣の腕が立つ、と自ら口にしたこと」
すらり、と彼女は一本の剣を抜いた。
エストック――中でもコンツェシュと呼ばれる刃渡りの長い刺突剣。
少女は、ほぅ、と上気した熱い吐息とともに、切っ先をフウタに向ける。
「以上がわたしにとって大事なことでした。あとは――貴方の腕がわたしの想像通りなら、という期待ですね」
目の前の少女の腕は、おそらくコロッセオの猛者たちに匹敵する。報酬は別途。依頼は手合わせ。断る理由は無い。小さく、彼女にも聞こえないくらいの声で、フウタは呟く。
「たとえば俺が、チャンピオンから無職にジョブチェンジしたとして――結局のところ、やることは変わらない」
観客は居ないけれど。フウタは、最後の闘剣に臨む気分だった。
これが最後と心を構えて闘えるなら、そんなに幸せなことはない。
「得物は、わたしの予備しかありませんが」
「それで構いません」
降ろされたコンツェシュを前に、フウタは立ち上がる。
「相手の使う得物が、俺の得意武器だ」
知れずフウタの瞳が闘剣士のそれに切り替わった瞬間、少女はフードの奥で身震いした。
「相手の使う得物が俺の得意武器――ですか」
挑発と取ったのだろうか。彼女はフードを被ったまま、身じろぎすると熱い息を吐いた。
依頼主を不機嫌にするのは本意ではない。
困ったように眉を下げ、謝罪を口にしようとしたフウタだったが、彼女は続けた。
「……良い、台詞ですね」
「は?」
「言ってみたいものです。わたしも。そういうカッコいいの」
金持ちの考えることはよく分からない。はあ、と困惑したフウタは手元のコンツェシュを振るい、気持ちを改める。どうやら、彼女は機嫌を損ねたわけではないようだし。
「相手が降参と言うか、寸止めで勝利。怪我をさせるつもりはありません。また、あまり大声は上げないように。ここにわたしが居ることを、王都に知られたくありません」
「……よくわかりませんが、わかりました」
「理由が分からずとも従う。そういうことが出来る人間は大変好ましいですよ。では」
彼女はそう言って、軽く距離を取った。少女が構える。フウタも、同じように構えた。
――静まり返る時は一瞬。
「始めましょうか」